株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
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その8. 「存在」の重み

2012-06-12 07:49:31 | 制作会社社長の憂い漫遊記
始めに…「私のブログは長い」と社内で不評のため
今回は長話につき2話構成にします。

いまから30年も前の話である。
大卒後、ソニー系の制作部門に入社して1年が経った頃、
ようやく回ってきた制作物・第1回監督作品
大協石油(現コスモ石油)の教育ビデオ
「ガソリンスタンドでのサービスマニュアル」により
若干23歳監督の社内評価はK点越えの評価となった。
プロ用・業務用のビデオ機器を販売する20名強からなる
営業スタッフも、いままで「ついで的」に販売していた
ソフト制作を営業項目の柱のひとつに位置付けた。
当時は300~1000万円が制作費の相場であり、
仮に記録として撮影だけ請負っても
1チェーン(機材一式にカメラマン、助手、VEの3名のスタッフ)で
1日15万円が相場だった。そのため3つあった営業課はこぞって
「売上アップにつながるし、社内制作なら粗利も高い」と、
営業マンとしての嗅覚が働き、セッセと仕事を取ってきた。
そして私もワッセと請負った。

その様子を小耳にはさんだのが、同じソニー系の編集スタジオ
『ソニーPCL』大阪営業所・副所長(次長)だった安達弘太郎氏である。
第一線から離れて久しい今でも『安達弘太郎』とウェブに入力すると
ヒットする、産業映画界では超のつくプロデューサーで、
晩年『ソニーPCL』に乞われて、大阪営業所・副所長になった方だ。
当時の『ソニーPCL』は編集室という側面と、
ソニーの機材を購入してくれたプロダクションの支援という側面があった。
安達さんはソニーPCLではプロダクション支援の長で、
共同プロデュースという形で、
できたばかりのプロダクションの制作支援をしていた。
当時の年齢は55歳位か、私の親父の弟くらいの年齢だ。

安達さんとの出会いは、さらに私の人生を狂わせ、
もう二度と素人には戻れない所まで、私を引っ張っていった。
大学卒業後、この会社には通算2年間勤めたが、
この間に制作したベスト3の内、1本が前出の
「ガソリンスタンドでのサービスマニュアル」で、
その後制作したものの中に残りの2本は入っており、
いずれも安達さんとのかかわりから生まれた作品である。
また安達さんのお告げにより、3年目には、
京大新聞部が設立したUPUの映像部にあたる『映像館』に
入社することになる。
さらにその2年後、フリーになった私を、安達さんの古巣である
『日本映画新社』と『岩波映画大阪』に
「若い監督ですが…」と紹介をしてくれたりした。

「ガソリンスタンドでのサービスマニュアル」で勢いづいた私に
舞い込んできた次の仕事は、
京都にある立石電気(OMRON)の研究所紹介ビデオである。
まだCGがなかった時代に、研究所の考え方や研究のステップなど
実写では撮れない内容に、私は本を書こうにも手が付けられなかった。
映像は一言でいって「見てわかる」だが、
逆に「見てもわからんこと」は映像にしにくい。
考え方や思想を映像化するには、発想だけでなく
映像化するためのテクニックに対する知識と、
それをプレゼンの段階でスポンサーに納得させる腕がなければ不可能である。

若干23歳の私には、かなり大きな、いや大きすぎるテーマであった。
そんな私に助け船を出してくれたのが、安達さんだった。
安達さんは私と数回話すだけで、
「こいつは監督よりもプロデューサー向きだ」と見切ったようで、
50歳位?の山崎 佑次監督と47歳の牧 逸郎カメラマンを紹介してくれた。

安達さんほどの重鎮に面と向かって
「多田君です。山崎監督、牧チャン、頼みましたよ」と紹介されると
仕事の内容やスケジュールは関係なしに、もはや断るわけにはいかない。
スケジュールをこじ開けて調整し、
忙しいという理由による手抜き?もできない。
なぜなら安達さんが業界の情報発信基地であることを
2人は十分すぎるほど理解しているからだ。
安達さんは、他人の評価をけっして悪く言うことはない。例えば
「多田って駆け出しのプロデューサーは、できる奴ですか?」
と聞かれて「まだ若いな」というだけで、噂におヒレはヒレがついて、
「多田は使えない奴」になってしまうし、
「若いけど…」と末尾に「けど」という非定形が付くだけで、
おヒレはヒレがついて
「多田は若手No1のプロデューサー」になってしまう。
安達さんの言葉は優しいが、いわば紹介という名の恫喝である。
それほど言葉には重みがあるし、影響力がある。
○○監督作品とは言っても、○○プロデューサー作品とはいわない。
監督以下のスタッフは、
プロデューサーの敷いた線路の上を走っているにすぎない。
その電車を各駅停車にするか、特急にするかは
監督の仕事であるし、
また、各停は各停なりに、特急は特急なりに味がるが
その味を引き出すのは、カメラマン以下スタッフの技量で決まる。
だからこそ、どの方向に向かって線路を敷くかが重要になるし、
「必要だからここに線路を敷いた」と、
プロデューサーは言わなければならない。
思い描いたものに極力近い結果を出すのが使命であり、
万一芳しくない結果に終わっても、
予算がないからとか、スタッフが悪いとか、
天候が悪かったなどの言い訳が一切できない。評論家ではないのだ。
プロデューサーは、当事者として考えぬき、あらゆる難題に万策を尽くし、
目標に向かってスタッフと共に突っ走る。
始まりから終わりまで、自分の敷いたレールで物事を進め、結果を出す。
だから、結果はすべて自分の責任なのだ。
この得も言われぬ存在こそが、プロデューサーであり、
スタッフは、プロデューサーを潜在意識の中にまで刷り込んで仕事をする。

だから安達さんの紹介の一言は恫喝にもなる。
安達さんは例え私の仕事であっても、意見を求められた時点で
自分の問題としてとらえて決定を下す。その時はお金にならなくても
それがいつか別な形で成果を生み出す。そういう「感」をも持ち合わせている。

顔合わせで、安達さんは
「2人への紹介料はいらないが、編集はソニーPCLですること!」を
この日私たちに確約させ、
編集完了後、私にニッコリ笑って請求書を手渡した。
もちろん編集室には顔を出し、上がりをしっかり確認し、
山崎監督と牧カメラマンにはその場で労いの言葉をかけ、
後日改めて酒も飲み交わすというアフターケアまでする。
依頼者と紹介したスタッフの関係を強くし、
自分もありがたられた上に、しっかり利益も得る。
新しくできたプロダクションの支援という立場を十分理解し、
商売としても成立させる。
また山崎、牧という当代一のスタッフと
ソニーPCLの若き編集マンに仕事で組ませることで
大きな「教育」にもなる。さすがである。


その安達さん主催のお疲れ会では酔いが回ったのか
「もしフリーのプロデューサーなら
年収1000千万円級の監督を5人揃え、
それぞれから150万円ずつ貰って仕事をする。
監督は850万円で、私は750万円、
監督よりもギャラが高いのもいかんしな」と
笑いながら吐露した。
職責でいえばプロデューサーが最上位だが、
現場責任者の監督をしっかり立てる。
結果的には子飼いの監督でも
ギャラなど目に見えるものでは下位に立って、
監督に気分良く仕事をさせる。

この絶妙のバランス感覚こそが
安達さんをここまで押し上げた強みなのであろう。
改めて…さすがである。
今回、安達さんとは一緒に仕事をした訳ではない。
単に紹介を受けただけである。
しかし安達さんにスタッフ人選の相談をした時点で
安達さんの敷いたレールの上に私は乗っかっていただけなのだ。
安達さんの存在の重みを否応なく見せつけられた作品だった。
と同時に、私を業界人へと飛躍させた作品にもなった。
私が得たモノは大きかった。


(注意)「私のブログは長い」と社内で不評のため今回は2話構成にする。
(山崎監督・牧カメラマンとの奮闘記は第2話へと持ちこす。つづく…)


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