徒然なるままに 平和と音楽を求めて

平和憲法のもと日本は戦争しない国として、いろんな国の国民から賞賛されてきた。この日本が戦争する国に変質しようとしている。

クラシックでわかる世界史(モーツァルト)

2010-02-01 | 読書
モーツァルトの生地、ザルツブルグ、オーストリアの小都市は、モーツァルトが生まれたことで有名な都市というだけではなかった。この町がモーツァルトが生まれた町であった理由があった。
イタリアで誕生したオペラがアルプスの北で上演された最初の都市のひとつという。宗教都市ザルツブルグは、798年に大司教区となり、領地をもつひとつの国となった。1614年にオペラ舞台が建設され、上演されたという。オペラがたびたび上演されるには莫大な財政が必要だが、この都市は岩塩と金が算出したことによる。ヨーロッパが30年戦争に明け暮れていた時代nザルツブルグ大学が創設され、大聖堂が建設され。壮大な《53声のミサ曲》が作曲された。ザルツブルグ宮廷礼拝堂の学長となっっtのがバロック中期の最大の作曲家のひとり、ハインリヒ・イグナーツ・フランツ・フォン・ビーバー。18世紀前期まではこのザルツブルグは音楽活動の先進的な都市だったと記している。
興味深いのは、「ハノーファー公国ハノーヴァー朝イギリス」ドイツ北部の都市で、ハンザ同盟の都市として有名であったが、1692年に選定候国の資格を得て、イギリスと同君連合を形成するに至ったという。しかも、ハノーファー公国をドイツのなかで大きな位置を占める上で一人の音楽家ステッファニが果たした役割が大きい。ヴェネツィアのこの作曲家、司祭の資格を得てから、修道院長もつとめ、その後ハノーファーで宮廷学長とんってかた、外交分野で力を発揮し、神聖ローマ皇帝との政治交渉もまかされ、その後、ハイデルブルグ大学初代総長、ローマ教皇によってローマに戻り、さらに北ドイツでの教皇代理に。1727年に作曲した《スターバト・マーテル》には、17世紀後期から18世紀荷かけてのハノーファーの政治史が込められていると記している。
ハノーファー公国の君主がイギリス国王ジョージ1世になることによって、ドイツ文化とイギリス文化の交流が活発になったいうわけだ。モーツァルトの《魔笛》を代表とするドイツ・オペラのジングシュピールはイギリスのパラッド・オペラの影響という。ドイツ文学・哲学もイギリスの強い影響という。ドイツにおけるイギリス文化の入り口としてハノーファーは重要な役割を果たした。同時にイギリス自信もドイツ音楽の最大の理解者となった。ヘンデルがイギリスで活躍したのもうなづける。

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