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〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

八王子・禅東院、「とうがらし地蔵」建立(八日市宿開運地蔵尊)。甲州街道、八房とうがらし伝説。

2010年03月23日 | 1600年~
               

  【1671年(寛文11年)】
  甲州街道第6宿、日本橋から12里(約45km)の地に、甲州街道最大の宿場として栄えた八王子十五宿がある。その中心は「横山宿」と「八日市宿」の両宿で、街道沿いに本陣2軒と4軒の脇本陣が置かれていた。さらに、ここは幕府の西の守り、「八王子千人同心」の本拠地でもあり、横山宿は4の日、八日市宿は8の日に市が開かれるなど賑わいを見せていたという。この八日市宿に隣接する本宿に、応永7年(1400)の開創といわれる、禅東院がある。幕府編纂の地誌、新編武蔵国風土記稿によれば、「本宿は、元横山村の内なり。古く開けたる地なることは、横山村の條にも記せり。南は八日市なり、禅東院、宿の南にあり・・・」と。禅東院の「とうがらし地蔵」(八日市宿開運地蔵尊)が建立された当時、本宿は藪が多く作物が育ちにくかったが、周辺の農家で唐辛子が多く作られていたと言われる。住職によると唐辛子に関する伝承があり、江戸時代の飢饉の際に内藤新宿の「八つ房」という問屋に唐辛子を卸し、この地の人びとがたいへん救われたそうである。それにしても、「問屋の屋号と唐辛子の品種名が同じ八つ房」。江戸名産といわれた内藤トウガラシと同じ、八房(ヤツブサ)であろうか。その問屋のあった内藤新宿までは、片道10里である。この地の唐辛子が馬や大八車に乗せられ、内藤新宿と結ばれたわけで、甲州街道がドラマの舞台となったのである。その後、人びとは開運、子育て祈願、商売繁盛など、祈願のたびに地蔵に唐辛子を供え、やがて「とうがらし地蔵」と呼ばれるようになったと言われている。ところで、話題は現代に。明治30年の八王子大火による伽藍の消失、昭和20年の八王子大空襲を乗り越え、最近では数年前から復活した、10月24日の禅東院・「とうがらし地蔵祭り」や、8月24日の「地蔵盆」。江戸の昔の「とうがらし地蔵」に想いを寄せて、「八房(ヤツブサ)とうがらし」を供えてみたいものである。

                  

           

 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。

  







                              

七味唐辛子は、江戸生まれ。江戸で育った、内藤(八房)トウガラシから作られた。

2010年03月18日 | 1600年~
          
 
  【1625年(寛永 2年)】
  江戸時代初期、両国橋の近くに漢方医や薬種問屋が集まった薬研堀(やげんぼり)と呼ばれる問屋街があった。そこの薬種問屋、「やげん堀」初代当主の「からしや徳右衛門」は、漢方薬のひとつであった唐辛子を中心に体に良いとされる7種類の薬味を調合。「焼き唐辛子」と「生唐辛子」2種類の唐辛子に、「粉山椒」、「黒胡麻」、「芥子の実」、「麻の実」、そして「陳皮」をブレンドした、七味唐辛子の開発に初めて成功。その後、江戸庶民に人気の食べ物となった蕎麦の薬味としての相性の良さが評判となり、やがて日本全国に広まったとされている(「やげん堀」H.P.)。熱い蕎麦と、風邪によく効く漢方の薬味、風邪の予防を兼ねた江戸っ子の食文化となったわけである。
  ところで、この「焼き唐辛子」に使われたのが、内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)とその周辺で栽培されていた内藤トウガラシだった という伝承が、唐辛子売りの口上として残されている。それは、歴史を寛永3年に遡る。七味唐辛子の開発に成功した翌年、「からしや徳右衛門」は、観菊の宴席で将軍家光に七味唐辛子を献上、褒賞として屋号を賜った。「今を去ること三百有余年前、徳川将軍家光公の御時代、世はあたかも寛永3年菊の御園の・・・・・」という、その当時を語った口上は、「入れますのは、内藤新宿、八つ房の焼き唐辛子」という口上とともに、現在も「やげん堀」の唐辛子売りに伝承されているのである。また、江戸の「やげん堀」をはじめ、京都の「七味や」、そして長野・善光寺の「八幡屋磯五郎」が、日本の3大七味といわれている。江戸、京都、長野、それぞれの七味唐辛子の薬味に、地域特性が見られるのも特徴である。「七味や」は青海苔、青紫蘇。「八幡屋磯五郎」は、生姜。「やげん堀」は、江戸名産の「内藤新宿、八つ房唐辛子」(内藤トウガラシ)。それと、上方方面からの下り物や、日本各地の6つの薬味? 薬味にも、ドラマと謎が潜んでいる。
 

◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。


  
         ◎「唐辛子売り口上」 浅草雑芸団 上島敏昭氏 
         
             

  

                              

内藤トウガラシ。歴史の舞台は、天正19年に開かれた。

2010年03月15日 | 1500年~
       
  

  【1591年(天正19年)】
  今から400年以上前の天正19年、譜代家臣の内藤家2代目清成(きよなり)は、長年にわたる功労を認められ、家康から20万坪にも及ぶ広大な屋敷地を拝領(現在の新宿御苑)。その後、この地は、明治5年に政府に上納されるまで、内藤藩の下屋敷として四ツ谷・内藤新宿界隈の文化発信の中心的役割を果たしたのである。世の中と人びとの暮らしが安定し、江戸文化が本格的に花開きはじめた元禄時代、下屋敷の一角は江戸4宿のひとつ「内藤新宿」として宿場開設。この宿場と内藤藩の下屋敷およびその一帯は、甲州街道と脇往還によって、発展を続ける江戸と近郊農村地帯を結ぶ文化的、経済的拠点として重要な役割を担ってきたのである。また、その当時、各大名は野敷内を畑地化することによって野菜の自給体制を整えていたが、内藤藩の下屋敷で作られた内藤トウガラシや内藤カボチャは近隣の村々でも栽培され、江戸・内藤新宿の名産品となったのである。このように、清成が家康から拝領した土地に約400年もの間作られ続けた内藤トウガラシ。天正19年に開かれた歴史の舞台を故郷に、唐辛子で唯一の江戸伝統野菜として貴重な足跡を残したのである(明治政府に上納後、内藤藩の下屋敷が近代農業振興のための試験場になったのも、歴史に残るものである)。 



  

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唐辛子の伝来は、慶長10年? 2人の歴史学者、2つの説は?

2010年03月12日 | 1600年~
   
  
  【1605年(慶長10年)】
  西欧諸国の大型帆船による大航海時代の到来は、国と国、民族と民族の距離を縮めるとともに、交流や交易の多面化をもたらせたようである。コロンブスが新大陸で発見した、ジャガイモ、トマト、タバコ、玉蜀黍、唐辛子といった新野菜の伝来・伝播説が複数存在するのも当然のことかも知れない。中でも唐辛子に関しては、その伝来時期と伝来場所に、いくつもの説が見られる。伝来時期説を早い順に並べてみると、天文年間説(天文11年/1542年)、文禄・慶長の役説(文禄元年~慶長3年/1592~1598年)、そしてこの慶長10年説の3つ。伝来場所は北九州の豊後か長崎、それと京都の2ケ所、伝来元はポルトガルか朝鮮に収斂されるという。ところで、この慶長10年伝来説は、2人の歴史学者の意見に基づいている。ひとつ目は、朝鮮からの伝来。対馬の学者・藤定房(とう さだふさ)が編纂した対州(対馬)編年略の記述、「慶長10年、朝鮮より番椒渡る」。歴史的に朝鮮との交易や交流が多く地理的にも近かった対馬に移栽、京都に伝来したといわれる(対馬藩は朝鮮通信使の警備・随行に携わっていたことからも、そう推測されている)。もうひとつは、江戸・神田の町名主であり、時代考証家として定評のあった斉藤月岑(げっしん)がまとめた、江戸歴史年表「武江年表」に見られる長崎伝来説。慶長10年乙巳(きのとみ)、「南蛮より、煙草、蕃桝(とうがらし)を、渡す。長崎にて桜馬場へはじめてタバコを栽うる」と、記載されている。唐辛子とタバコが、西欧から一緒に伝来したのか。あるいは、同じ年に連続して伝来したのか。玄界灘の荒波を渡ってきた唐辛子には、どんなドラマがあったのだろうか。
 
  
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唐辛子伝来、第2の説は? 文禄・慶長の役で、秀吉軍が朝鮮から持ってきた?

2010年03月08日 | 1500年~
     

  【1598年(慶長 3年)】
  唐辛子の日本伝来時期として、天文年間説に続いて文禄・慶長の役時代説がある(文禄元年~慶長3年/1592~1598年)。この説は養生訓や、花譜・菜譜の作者としても名高い、貝原益軒が執筆した日本初の本格的本草書、「大和本草」の中で詳しく述べられているのである。曰く、「昔は日本に無く、秀吉公の朝鮮伐の時、彼の国より種子を取り来る。故に高麗胡椒と云う」。文禄・慶長の役時の伝来の由来とともに、高麗胡椒とも呼ばれる理由に触れており、これが、朝鮮からの伝来説の大きな根拠とされている。また、益軒は「西国にて南蛮胡椒と称す」とも述べており、唐辛子の南蛮伝来説も推測させられる。さらに、この頃は、帆船による世界的な大航海時代の始まりでもあった。その結果として、鉄砲伝来やキリスト教伝来を契機とした西欧諸国との交易や、旧来の明とか朝鮮との交流などを通じて、唐辛子の伝来時期・伝来ルートはいくつかあったといわれる所以でもある。また、文禄・慶長の役時の朝鮮から日本への伝来に先立って日本から朝鮮への伝来があったというのも、唐辛子伝来のミステリアスな点である。これは、文禄の役での出兵の時に、唐辛子の特徴を生かしての目潰しや毒薬といった武器としての活用や、防寒・凍傷予防に携帯したという逸話が残されているのである。文禄の役で、日本から朝鮮に渡り、慶長の役の後で、朝鮮から日本に。唐辛子は、日本海の荒波を2度渡ってきたというわけである。学ぶほどに、奥が深く、謎も深い、唐辛子の世界である。
  
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          ≪江戸・東京からはじまる「内藤トウガラ史・スパイスアート展」≫

           ・日時:2010年3月5日(金)~3月8日(月)

            10:30~17:30(5日は13:00から・8日は17:00まで)

           ・場所:駒沢住宅・ギャラリー櫟
               (伊佐ホームズ株式会社http://www.isahomes.co.jp)

           ・Tel. 03-5712-5513 東京都目黒区東が丘2-13-25