〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

奇遇! 私たちが内藤トウガラシ(八つ房)の栽培を始めたのは、前田藩ゆかりの地だった。

2012年03月09日 | 予告編  
  花園神社に立てられた「内藤トウガラシ」の立て札(銘版)に触発され、私たち農園仲間が内藤トウガラシ(八つ房)の栽培を 始めたのは5年前。新田裏と呼ばれる明治通り交差点(日清食品前)を抜弁天の方に入った、新宿6丁目の一角が始まりである。江戸古地図を見ると、この一帯は江戸時代には東大久保村の村地であり、現・歌舞伎町を水源とする神田川の支流にあたる、蟹川(金川)の水を引き込んだ水田だったといわれる。その由来を、新田裏(しんでんうら)という地名が物語っているのである。明治に入ってからは、加賀前田藩を前身とする前田侯爵邸の敷地となったことでも良く知られているが、外様大名でありながら徳川御三家と同格の処遇を幕府から受けていた加賀前田藩は、江戸での拠点として上屋敷・中屋敷・下屋敷に加えて、市ケ谷の別邸(加賀町)、そして新宿から大久保にかけて広く御用地を保有していたといわれる。そのひとつに、加賀前田藩お膝元の金沢で創業された(株)花園万頭本社のある花園神社近辺が挙げられているが、この一帯は内藤トウガラシの故郷でもある。「新編武蔵風土記稿(1828)や、「新宿の今昔」(紀伊国屋書店)の内藤トウガラシに関する記述では、「内藤新宿周辺から大久保にかけての畑は真っ赤に彩られて美しかった」と記されている。この加賀前田藩ゆかりの場所で内藤トウガラシがどのように栽培されていたか不明であるが、天に向かって真っすぐに伸びる、真っ赤な八つ房とうがらしの畑が続いていたことが推察される。内藤トウガラシを育てて5年目。今年も、江戸の昔を想わせる八つ房とうがらしの栽培が始まった!



 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。




       
                 天に向かって伸びる、内藤(八つ房)トウガラシ 
 
      
                     歴史がしのばれる、新田裏。

「豆腐百珍」出版。この本がキッカケで始まった江戸時代の豆腐料理ブーム。唐辛子の果した役割は貴重である

2011年03月04日 | 1700年~
               
  
  【1782年(天明2年)】
  豆腐は中国が発祥といわれ、日本への伝来は、奈良時代もしくは平安の頃とされている。最初は僧侶の間で食されていた食材であったが、精進料理の広まりにつれ、江戸時代になると僧侶、貴族、武士階級が口にするようになったといわれている。ただ、一般庶民や農民にとっては、まだまだ贅沢品であり、富裕層の食べ物とされていたのである。ところが天明2年、突然、豆腐ブームが起こったのである。キッカケは、豆腐料理のガイドブックである「豆腐百珍」が、酔狂道人何必醇によって出版されたことによるのである。豆腐の料理100品の紹介とその料理法を紹介しているが、100品の豆腐料理を今でいうランク付けした点が人気の理由といわれ、6等級に分けて紹介されている(尋常品、通品、佳品、奇品、妙品、絶品)。とくに最上級にランキングされた絶品は、珍しさや盛り付けの美しさだけでなく、豆腐の持ち味を余すことなく引き出す味加減が、重要とされていたのである(豆腐百珍 著者 福田浩 他 株式会社新潮社 / 江戸時代料理本集成翻刻 吉井始子 株式会社臨川書店)。純白で、淡白な豆腐。その豆腐料理の薬味や味付け、そして彩りに、赤唐辛子、青唐辛子、粉唐辛子が使用されているメニューが100品中、8品登場しているのである。生の赤唐辛子や青唐辛子を小口切りしたり、ザク切りや針切りしたり、粉唐辛子を葱や大根おろしと一緒に薬味としたり、あるいは唐辛子味噌を田楽豆腐にまぶしたりと多彩に使用されているのである。江戸中期から後期にかけては町人文化の爛熟期といわれ、江戸固有の食文化が花開いた時代。代表的な料理としては、寿司、天ぷら、うなぎ、蕎麦あたりが思い浮かべられるが、思いがけず豆腐が庶民に広く親しまれていたことになる。しかも、豆腐料理としてのランク付けのうち、最上級の絶品は7品。そのうちの2品の薬味として、粉唐辛子が使用されている。ひとつは、「湯やっこ」。立方体(箱型)に切られた豆腐を葛湯であたため、醤油に葱、おろし大根、粉唐辛子といった薬味でいただく、シンプルな料理法。もうひとつが、「真のうどん豆腐」。湯をたぎらせた鍋にうどん形状に切られた豆腐を入れ、薬味でいただくもの。ザク切りの葱、大根おろし、それと粉唐辛子、陳皮(ちんぴ)、海苔、これを醤油と味醂のつけだれでいただくワケ(七色唐辛子みたいな調合)。このように豆腐料理が庶民一般に普及して、その薬味や調味料に唐辛子が使われていたことになる。酒屋へ3里、豆腐屋へ2里。当時、江戸市中には1000軒もの豆腐屋があったと推察されるが、蕎麦と唐辛子の関係のように、豆腐と唐辛子も、切っても切れない相乗作用で結ばれていたのかも知れない。
 



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「とん、とん、とんがらし、ひりりと辛いは・・・」。唐辛子の張子を背負った、粉唐辛子の行商が流行。

2010年10月08日 | 1700年~
           
              唐辛子粉売り 浅草雑芸団 上島敏昭氏
  【1751(宝暦元)~1771年(明和8年)頃】
  町人文化が花開き、消費の活発化とともに増え始めた行商人の多い江戸の町でも、唐辛子の行商人は、とくに目立った存在のようである。この頃に登場した粉唐辛子売りは、赤を基調とした衣裳で決め、大きく真っ赤な張子の唐辛子を担いで、口上とともに売り歩いたとされる。「とん、とん、とんがらし、ひりりと辛いは山椒の粉、すいすい辛いは胡椒の粉、芥子の粉、胡麻の粉、陳皮の粉、中でも良いのが娘の粉、居眠りするのは禿の粉、とん、とん、とんがらし・・・・・」。行商人の掛け声として江戸の辻々を賑わせているうち、唐辛子は人びとの身近な存在になっていったと推測されるのである。「とんがらし」と呼んだ誇張が印象深いが、数え歌でも同じ誇張がされている。それは羽根突き唄として日本全国で歌われ、地域によって唄の内容に違いが見られるのである。江戸近郊(東京・多摩東部)のものは、「とんがらし」バージョンである。「いちじく、にんじん、さんしょにしいたけ、牛蒡に蝋燭、七草白菜、胡瓜に、とんがらし」。唐辛子は、地方によって「こしょう」とか「南蛮」と呼ばれていることはよく知られているが、「とんがらし」という呼称というか、俗語も今だに顕在であり、東京近郊では戦後も長い間使われていたといわれている。このようにして、「とうがらし」を、「とんがらし」と呼んだだけで、言葉が独り歩きを始めたわけで、実に面白いものである。ところが、「とんがらし」の一人歩き、まだまだ終わらないのである。粉唐辛子の行商が流行し始めた、江戸時代の明和年間、甲州街道・日野宿に、「トンガラシ地蔵」が建立されている。幕末の志士、沖田総司が幼少時に頻繁に詣でた、唐辛子を供えると目の病が治るご利益があるといわれるが、江戸近郊の俗称である「とんがらし」で呼ばれていることで、お地蔵さんが身近に感じられるものである。江戸時代の生活文化情報誌である、喜多川守貞が江戸と上方を比較執筆した考証的随筆といわれる近世風俗志「守貞謾稿」(著者 喜多川守貞 校訂 宇佐美英機 岩波書店)に、「蕃椒(とうがらし)粉売り」という記述がある。「七味蕃椒と号して、陳皮・山椒・肉桂・黒胡麻・麻仁等を竹筒に納れ、鑿をもってこれを突き刻み売る」。粉唐辛子の振り売りの様子が、克明に描かれているが、同じ唐辛子の振り売りでも「生蕃椒売り」も、「守貞謾稿」に記述されていて興味深い。曰く、「とうがらしの根とともに抜きて、小農等売り巡る」、江戸近郊の農民が、江戸稼ぎで現金収入を得ていた様子が推察されるのである。おそらく品種は、「内藤とうがらし」。トウガラシは、小さなドラマの連続である。

          
                     日野宿。トンガラシ地蔵。

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「日本人は麺類を芥子や唐辛で食べる」宣教師ルイス・フロイスの本国ポルトガルへの書簡。伝来歴史早まる?

2010年08月17日 | 1500年~
        
                   七味とうがらし(薬研堀、所蔵)
  【1585年(天正13年)】
  鉄砲の伝来をもたらした、ポルトガル人の来航。この頃からヨーロッパの列強による大航海時代が始まっており、ポルトガル、スペイン、オランダなどの帆船が日本各地に寄航し始めたといわれる。この頃の主な来航者は、黄金の国「ジパング」を目指したヨーロッパ各国の貿易商や、キリスト教の伝道を目的とした宣教師たちであった。特に、室町時代末から安土桃山時代、江戸時代初期にかけて数多くの宣教師が来航したが、約30年間にわたる日本各地での布教活動を通じ、日本文化に精通した書簡を残したのが、日本歴史の教科書によく出てくる、あのルイス・フロイスである。彼は永禄6年(1563年)に来日以来、京都、堺、岐阜、長崎、豊後と、畿内や九州を中心に宣教に励んでいる。その間、京都・二条城で織田信長に会見、信長の庇護の下、天正4年(1576年)に南蛮寺と呼ばれるキリスト教会を建立するなど輝かしい足跡を残しているのである。ところが、それ以上に貴重な足跡がある。唐辛子に関する、書簡である。「フロイスの日本覚書」(松田毅一/E・ヨリッセン著 中央公論社 1983年)や、「ヨーロッパ文化と日本文化」(岡田章雄 訳注 岩波書店 1991年)、そして「キムチの文化史」(佐々木道雄 著 福村出版 2009年)などによると、当時のヨーロッパ文化と日本文化比較の中の第6章。日本人の食文化の中での麺類に関する、薬味比較である。「われわれは、砂糖や卵やシナモンを使って、それ(麺類)を食べる。彼らは芥子(からし)や唐辛をつかって食べる」。スパゲティやマカロニ VS うどんやそばであり、フロイスの観察によれば、この頃すでに唐辛(唐辛子)は、薬味として存在していたことになる。これを書いたのが天正13年(1585年6月14日 カズサにて)とされる。カズサとは加津佐(豊後)、その当時ルイス・フロイスが、巡察使ヴァリニャーノとともに駐留していた地である。また天正13年というと、譜代家臣、内藤家2代目清成(きよなり)が、家康から20万坪もの広大な下屋敷を拝領(現在の新宿御苑の地)した6年前のことである。
  この文化比較書簡には、もうひとつ興味深い項目が見られる。今度は、第9章。「われわれの薬味(香料)や薬は、乳鉢または搗臼(擂鉢)の中で搗き砕かれる。日本では、銅製の舟型容器の中で、両手に持った鉄の輪によって搗き砕かれる」。これこそ、薬研(やげん)である。中国で発明され日本には平安時代以降に伝来したといわれ、薬の原料を粉状に砕き漢方薬、生薬をつくる器具である。ここで語られている薬味とは恐らく薬の原料の方を差していると思われるが、その40年後に麺類の薬味である、山椒、胡麻、唐辛子も同じように薬研を使って粉末にされることになる。寛永2年(1625年)、「やげん堀」初代当主の「からしや徳右衛門」が、唐辛子をはじめ7種類の漢方素材を薬研を使って調合した七味唐辛子を開発。江戸の近世風俗誌、「守貞漫稿(喜多川守貞著)の中で、唐辛子売りの口上である、「入れますのは、江戸は内藤新宿八つ房が焼き唐辛子」と、江戸界隈で評判となったといわれるが、内藤とうがらし(八房系)を使った七味唐辛子が売り出される以前から、フロイスは薬味を粉末化する薬研の可能性に気付いていたのかも知れない。わざわざ「薬味(香料)」や「薬」と区分けして、並列に記載しているワケだから。それにしても、宣教師ルイス・フロイスの文化比較の書簡にある「麺類を、芥子(からし)や唐辛をつかって食べる」という一行は、重い。気になるのは、唐辛子が伝来した時期であり、唐辛子へのロマンは、尽きないのである。

              
                          八房とうがらし


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「蕎麦切り」の製法、「薬味」に「からし」。初めての記述、「料理物語」刊行。歴史は、ここに遡る。

2010年07月30日 | 1600年~
        
                     七味唐辛子類(やげん掘、所蔵) 
 【1643年(寛永20年)】
 江戸時代も中期以降、元禄の頃になると出版文化の隆盛や出版技術の向上もあって、文献や史料の類が多く見られるといわれている。逆に、時代背景としては、それ以前の情報は少ないのが常である。「内藤とうがらし」の歴史とか唐辛子の食文化を追っていくときにも、ここにひとつの壁があるように思われる。それだけに、記述のある文献は貴重である。江戸時代の初期を代表する料理書に、「料理物語」(作者不明)がある。料理の種類、料理法、素材の解説、料理道具の知識、作法、配膳などが簡潔に記されている。
 この「料理物語」の目録第十七(後段の部)に麺類の記述がある。「料理物語」の復刻書籍である、「江戸時代料理本集成」(吉井始子 株式会社 臨川書店 昭和53年)には、「うどん」、「切麦」、「葛素麺」、「じじよめんは」、「蕎麦きり」、「麦きり」、「にうめん」が挙げられている。薬味として、「うどん」に、胡椒と、梅。「切麦」に柚。「にうめん」に、胡椒と山椒の粉。それぞれの麺に適した薬味が記されている。それでは、「蕎麦きり」は? 蕎麦きりの作り方についての初めての記述として、「めしのとりゆにてこねて候て吉・・・・・」と解説が始まっているが、その最後に詳細な薬味の記述が見られる。「・・・大こんの汁くはへ吉。はながつほ、おろし、あさつきの類又からし、わさびもくわえよし」。他の麺と違い、胡椒ではなく、「からし」と「わさび」が記されていること、さらに種類が多いことが、蕎麦の薬味の特徴である。この本が書かれたのが、寛永の20年。「やげん堀」初代当主の「からしや徳右衛門」が、漢方薬の知識を生かして七味唐辛子を開発、江戸市中で売り出したのが、その18年前の寛永の2年。また斉藤月岑(げっしん)が、江戸および近郊に起こった事柄をまとめた「武江年表」によれば、蕎麦を器に盛り付けただけの便利で安い「けんどん蕎麦切り」が登場(寛文4年)。この頃から「蕎麦切り」は、江戸の食文化として定着を始めたと推測されている。その大きな要因として、蕎麦と薬味の七味唐辛子は相性がよく、相乗効果が見られたことと、漢方の成分が風邪の予防に効果的だったからといわれる(七味唐辛子の3大老舗、「やげん堀」伝承)。さらに、もうひとつ、唐辛子を蕎麦の薬味として広く世に伝えていった書物として、「本朝食鑑」(元禄10年刊)が挙げられる。これは、幕府侍医を父に持ち、自らも医者である著者の人見必大(ひとみひつだい)が、30年以上もの歳月を費やし、一般庶民が口にする食べ物について医学的見地からの良し悪しを書き上げた食物事典。この蕎麦の項目でも、薬味について触れられている。「本朝食鑑」の読み下し本(「本朝食鑑」 島田勇雄訳注、東洋文庫・株式会社平凡社、昭和52年発行)によると、「・・・・・だいこん汁、花鰹、山葵(わさび)、橘皮(みかんのかわ)、蕃椒(とうがらし)等・・・を用意して蕎麦切および汁に和して食べる」。一方、温飩(うどん)の項目で薬味に関して、「・・・・・垂れ味噌汁、堅魚(かつお)汁、胡椒粉、だいこん汁などをつけ、温いうちに食べる。・・・・・」。ここでも、「料理物語」と同様に、蕎麦には蕃椒、温飩には胡椒である。この「本朝食鑑」は、その後の江戸の食文化に大きな影響を及ぼしたといわれているだけに、蕎麦の薬味としての唐辛子が広く浸透していったと想定されるのである。それが、のちに天保年間の江戸・近世風俗誌「守貞漫稿」で唐辛子売りの口上として取り上げられた、「・・・入れますのは、江戸は内藤新宿八つ房が焼き唐辛子」という定評に結びついていったのであろうか。

               
                            唐辛子畑

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