
幻の内藤番椒(とうがらし)
【1697年(元禄10年)】
「本朝食鑑」の書き出し(凡例)は、次のようである。「この書の大意は、民の日常生活に用いる食物の好悪について弁別するものである」。幕府侍医を父に持ち、自らも医者である著者の人見必大(ひとみひつだい)の意図は、一般庶民が口にする食べ物について医学的見地から、その良し悪しを記述することにあったといわれる。当時、わが国の本草学(植物や鉱物を中心とする中国の薬物学)に多大な影響を及ぼしていた「本草綱目」(明の李時珍が執筆)の記述手法や分類を参考に、対象とした食べ物に対して自ら吟味し実験的検討を行った、実証的な食物事典である。項目的には、「釈明」といわれる名称・学名、「集解(しゅうげ)」とよばれる博物的記述をはじめ、ごく日常的な食べ物ごとに詳細な記述がなされている。その中で、「味菓類5種」の一品として、山椒(さんしょ)、胡椒(こしょう)に続いて、番椒(とうがらし)が挙げられている。つまり、人見必大(ひとみひつだい)の時代観察からすると、この辺の食材は、元禄の頃には一般庶民の食卓に日常的に上っていたと推測され、トウガラシについても同様と思われるのである。
執筆に30年以上もの歳月を費やした人見必大のライフワークとされる、「本朝食鑑」(ほんちょうしょっかん)。漢文体で書かれた、この「本朝食鑑」の読み下し本(島田勇雄訳注、東洋文庫・株式会社平凡社、昭和52年発行、「本朝食鑑2」)に目を通すと、当時の番椒(とうがらし)の状況を彷彿させる記述(トウガラシの歴史、国内伝播、順応性、味覚、栽培状況など)が見られるのである。以下要点であるが、「味は甚だ辣く(からく)、気も甚だ烈しい。青い時でも、香辣で、食べられる。紅いのは、採って乾して使う。・・・莢(さや)の中に小さな白い子があり、2月にこれを種(う)えるが、生えやすい性質なので、家圃(かほ)、田園に多く種える。我が国で番椒(とうがらし)を使うようになってから、百年に過ぎない。煙草と相先後して、いずれも番人によって伝種され、海西(さいこく)から移栽し、今は全国にある」。
生活拠点の江戸から時代の流れを見つめ、執筆を続けていた人見必大が記した、「生えやすい性質」、「百年」、「番人によって伝種」、「海西から移栽」あたりは、トウガラシの日本伝来・伝播を考える上で興味が尽きないものがある。またトウガラシに関して、食のあり方に加え、漢方薬としての健胃剤の薬効、消化不良、下痢、発熱悪寒、肺炎、あるいは鞋履傷瘡(ぞうりくつずれ)、筋肉痛・神経痛等への処方などが、本草学と医学の側面からその好悪が詳解されている。ところで、内藤トウガラシをはじめとする唐辛子の品種と特徴は? 食物事典の視点のため、「本朝食鑑」での言及はないが、同じ元禄10年に刊行された宮崎安貞の「農業全書」には、「天に向かうあり、大あり、少あり、長き、短き、丸き、角なるあり、其品さまざま、おほし・・・」と、その多品種に分化したトウガラシが語られている。ただ「八房とうがらし」などの名称までは不明。それでは、「内藤蕃椒(とうがらし)の存在は、幻だった?」 時を経て、文化・文政年間以降、「新編武蔵国風土記稿」、「武江産物志」、「守貞漫稿」それぞれに、江戸名産としての「内藤蕃椒(とうがらし)」をとり上げている。ドラマもあれば、謎もある。江戸の昔の長きに渡り、内藤蕃椒(とうがらし)が内藤新宿あたり(新宿御苑周辺)を、真っ赤に染めていたのである。

内藤とうがらしと花園神社の銘板
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。