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〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

唐辛子の伝来は、慶長10年? 2人の歴史学者、2つの説は?

2010年03月12日 | 1600年~
   
  
  【1605年(慶長10年)】
  西欧諸国の大型帆船による大航海時代の到来は、国と国、民族と民族の距離を縮めるとともに、交流や交易の多面化をもたらせたようである。コロンブスが新大陸で発見した、ジャガイモ、トマト、タバコ、玉蜀黍、唐辛子といった新野菜の伝来・伝播説が複数存在するのも当然のことかも知れない。中でも唐辛子に関しては、その伝来時期と伝来場所に、いくつもの説が見られる。伝来時期説を早い順に並べてみると、天文年間説(天文11年/1542年)、文禄・慶長の役説(文禄元年~慶長3年/1592~1598年)、そしてこの慶長10年説の3つ。伝来場所は北九州の豊後か長崎、それと京都の2ケ所、伝来元はポルトガルか朝鮮に収斂されるという。ところで、この慶長10年伝来説は、2人の歴史学者の意見に基づいている。ひとつ目は、朝鮮からの伝来。対馬の学者・藤定房(とう さだふさ)が編纂した対州(対馬)編年略の記述、「慶長10年、朝鮮より番椒渡る」。歴史的に朝鮮との交易や交流が多く地理的にも近かった対馬に移栽、京都に伝来したといわれる(対馬藩は朝鮮通信使の警備・随行に携わっていたことからも、そう推測されている)。もうひとつは、江戸・神田の町名主であり、時代考証家として定評のあった斉藤月岑(げっしん)がまとめた、江戸歴史年表「武江年表」に見られる長崎伝来説。慶長10年乙巳(きのとみ)、「南蛮より、煙草、蕃桝(とうがらし)を、渡す。長崎にて桜馬場へはじめてタバコを栽うる」と、記載されている。唐辛子とタバコが、西欧から一緒に伝来したのか。あるいは、同じ年に連続して伝来したのか。玄界灘の荒波を渡ってきた唐辛子には、どんなドラマがあったのだろうか。
 
  
 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。


  



   

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
唐辛子の伝来(その1) (きよまろ)
2010-07-19 21:19:26
朝鮮への伝来
唐辛子が朝鮮の文献に始めて記載されるのは李睟光〔1563-1629年〕の「芝峰類説」(1614年)である。この書に次のような記述が現れる。「南蠻椒有大毒。始自倭國來。故俗謂倭芥子。今往往種之酒家。利其猛烈。或和燒酒以市之。飮者多死。」(南蛮椒には強い毒があり、最初倭国から入って来た。それで俗に倭芥子ともいう。近頃これを植えている酒屋が見られる。その猛烈な味を利用し、焼酎に入れて売っているがこれを飲んで死んだ人が多い。」
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唐辛子の伝来(その2) (きよまろ)
2010-07-19 21:25:16
朝鮮から日本への伝来
多聞院日記(奈良興福寺)の文禄二年(1593年)二月十八日に、「コセウノタネ尊識房ヨリ来、茄子タネフエル時分ニ植トアル間今日植了。茄子種ノ様ニ少ク平キ也。惣ノ皮アカキ袋也、其内ニタネ数多在之。赤皮ノカラサ消肝了。コセウノ味ニテモ無之、辛事無類」と記している。コセウの種を貰って植えたが、その赤い皮の辛さに肝を潰したと書かれている。コセウとあるが、赤皮で辛く胡椒の味でも無くとあるので、明らかに唐辛子と思われる。文禄の役から僅か一年たらずの間に奈良に伝わった事になる。このことから、朝鮮には文禄の役以前に伝わったことが分かる。
なお、トウガラシの呼称は、少し後の「毛吹草」(寛文15年〔1638〕)に見え、「唐菘(トウガラシ)が伏見稲荷近くで栽培していた」とあり、「江戸でも四ツ谷内藤宿の近くの村で名産のひとつ」と伝えている。

後年、貝原益軒は『花譜』(下巻-草。1694年)の蕃椒の項で、「文禄年中秀吉公の朝鮮を討ち給ひし時、彼地より種を持来て、はじめて日本に植る故に、かうらい胡椒ともいふ。又西国にて南蛮胡椒と称す。」と、それぞれの地域での伝来元を記している。

多聞院日記の記述の一部は、以下のサイトの「胡椒」の項で引用されています。
http://www.urayasu-ic.jp/event/20081019shoku5.pdf
『花譜』は、以下のサイトで読めます。 
http://www.nakamura-u.ac.jp/~library/lib_data/pdf/e03.pdf 
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