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〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

内藤新宿、宿場再開。大繁昌の宿場には瓜(うり)、落蘇(なすび)、八房(ヤツブサ)唐辛子問屋があった?

2010年04月13日 | 1700年~
   
                            太宗寺
  【1772年(安永元年)】
  江戸が発展するにつれて、大消費地である江戸への物流を担う産業道路として甲州街道や青梅街道の人馬の通行が増え、内藤新宿は伝馬宿としての再開が望まれていた。神田・雉子(きじ)町名主の斉藤月岑(げっしん)が、徳川家康の入国した天正18年(1590年) から300年に及ぶ、江戸と近郊の様々な事象・事柄を記述。考証の正確さで定評を得た武江年表に、次のようにある。安永元年壬辰(みずのえたつ)四月。「四谷内藤新宿駅舎再興御免あり。甲州道中人馬継立の所となりて繁昌せり。・・・・・明和九年願ひ出るもの有 て、又古来の通りハタゴヤ五十二軒、飯盛り女百五十人出来たりとぞ」(斉藤月岑著 金子光晴校注 「武江年表」1~2 東洋文庫 株式会社 平凡社 1968年)。宿場再開と同時に賑わいを見せた旅籠屋や茶屋の存在が、内藤新宿の繁栄を支えたひとつの要因とも いわれているが、とくに宿場の重要な機能である人や荷物の継立を行った問屋に、人馬が集まったわけである。再開の翌年に出版された洒落本「当世気転草(きどりぐさ)」に、それを裏付ける記述がある。「糞培馬(こへつけば)と、瓜や落蘇(なすび)の問屋なり」、である。ここから推測すると、すでに当時、野菜類を取り扱う問屋があったと推察されている(図録「内藤新宿 くらしが創る歴史と文化」、新宿区立新宿歴史博物館編集、新宿区教育委員会 /児玉幸多監修 「江戸四宿」 江戸四宿実行委員会編集発行)。また、文化爛熟期を迎えるこの頃からは江戸固有の文芸活動のひとつとして隆盛を見せてきた、川柳にも宿場や問屋場の様子が描かれているのである。しかも、内藤新宿の名産品であった内藤トウガラシ(八房トウガラシ)が主題となっている川柳が見られるのが特徴。「四ッ谷の八ッ房、日光へ歩に取られ」。あるいは、「八ッ房つけて内藤の駒は出る」など。前者は、日光紫蘇巻き唐辛子の原料として運ばれてしまった八房唐辛子。後者の意味は、八房唐辛子を荷につけて内藤新宿を出発する駄馬の様子と解釈されている(川柳江戸名所図会 至文堂 昭和45年)。内藤家の下屋敷とその周辺で栽培され、江戸市中と内藤新宿の都市化によって街道を下って近郊農村で栽培が行われたといわれる、内藤トウガラシ(八房)。 江戸の昔から、街道は、人を運び、物を運び、情報を運ぶ。そのハブ機能を果たしたのが宿場であり、問屋であった。その点、ハブ機能を備えた内藤新宿は、内藤トウガラシ(八房)の伝播に重要な存在だったと思われる。

            新宿御苑、玉川上水あと
            

            大木戸石碑
            




 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。






 




 

宿場開設、幕府の許諾。「内藤新宿」誕生へ。その存在は、「内藤トウガラシ」の歴史に貢献?

2010年04月09日 | 1600年~
   

  【1698年(元禄11年)】
  宿場は、東西に9町余り(約1km)。東は四ツ谷大木戸を少し入ったあたりから、西は追分にかけて(新宿通り、四ツ谷4丁目~新宿3丁目付近)、内藤家の下屋敷と、旗本屋敷の一部を割いて開設。内藤家が返上した新しい宿場であることから、「内藤新宿」と名付けられたようでもある。宿場開設の理由としては、街道の起点である日本橋と、それまでの最初の宿場であった高井戸宿まで四里八丁(約17km)と長丁場であり、人馬ともに難渋したからといわれているが、詳細は不明である。 しかも当時は、葦や萱の生い茂る荒地であった場所がなぜ候補にされたのか、これも謎といわれている。また、宿場開設を申し出た江戸浅草の名主、喜兵衛(のちの高松喜六)と同士の町人たちは宿場の開設後ここに移り住み、高松喜六が代々名主をつとめる等、町政に貢献したのである(新編武蔵風土記稿、 太宗寺資料)。ところが、こうして開設されたにもかかわらず、僅か20年にして利用客の少ないことや風紀上の理由により廃駅となったり、安永元年の宿場再開後には大繁盛を見せるなど、内藤新宿はドラマチックな歴史を辿ってきた。その点では、江戸の都市化の歴史とも、リンクしているのである。甲州街道と脇往還である青梅街道、そして五日市街道の3本の街道で結ばれ、江戸市中と江戸以西(武蔵野~多摩~甲斐~信濃)をつなぐ交通の要所であり、経済・生活文化の中心としても重要な役割を果たしていたからである。江戸近郊の農村は、江戸の都市化と肥大化による野菜・穀物需要に応えるための農作物の供給や、江戸稼ぎによる現金収入を手にするために、いわゆる物流ターミナルとなっていた内藤新宿へ、足を運んでいたのである。また内藤新宿の都市化に伴って、内藤家下屋敷と内藤新宿周辺で栽培されていた「内藤トウガラシ」の生産地は徐々に街道を下って、近郊農村に広がって行ったといわれている(大竹道茂著「江戸東京野菜 物語編」農山漁村文化協会 2009年)。そうなると、街道を下って江戸近郊農村で生産された「内藤トウガラシ」は、街道を上って内藤新宿の問屋へ運ばれていた?

   


 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。






 




 

唐辛子の日本伝来から伝播。歴史を追うと、畿内・山城(伏見)あたりも早かった?

2010年04月07日 | 1600年~
   

  【1638(寛永15)~1645(正保2)】
 唐辛子の伝来時期には天文年間説、文禄・慶長の役説、そして慶長10年説の3つがあり、場所としては九州説と京都説の2つが有力といわれている。この時代、つまり鉄砲伝来から鎖国までの100年間は南蛮船の渡来が活発化していたうえ、朝鮮半島との交流も盛んだっただけに、ひとつの説に絞りがたいものがある。それにしても、伝来後はどのように伝播、つまり日本国内に広がって行ったのだろうか。寛永15年(1638)成立、正保2年(1645)刊の、一冊の書物がある。 江戸初期の俳人、松江重頼が手がけた俳諧作法書、「毛吹草」(けふきぐさ)である。 俳諧に使う言葉や資料が豊富に集められ、当時の外来新野菜についての記述が見られるのが特徴である。
 さらに日本全国の名産品が国別に紹介されている点が、資料として貴重な存在である。この「毛吹草」の巻第四に、畿内・山城の古今名物として、唐菘(タウガラシ=トウガラシ)が挙げられている(松江重頼著・竹内若校訂。「毛吹草」岩波書店1976年)。この「毛吹草」が、編集・出版された寛永から正保に名産品とされていたことから逆算すると、唐辛子の日本伝来後、いち早く京都・伏見(畿内・山城)周辺で栽培が始まっていたと、推測されるのである(九州もしくは京都に伝来した唐辛子が、京都・伏見、つまり畿内・山城で栽培された)。
  また江戸前期の歴史家、黒川道祐が編纂した山城国の地誌、「擁州府志」(ようしゅうふし)に、唐辛子が擁州(山城国)の稲荷付近で古くから作られる、とある(貞享元年、1684年)。これも、伏見系唐辛子のことと推察されるが、さらに元禄10年(1697年)、医師の人見必大が出版した「本朝食鑑」には、唐辛子の伝播についての貴重な記述が見られる。「生えやすい性質なので、家圃・田園に多く種える。
 我が国で番椒を使うようになってから百年に過ぎない。煙草と相前後して、いずれも蕃人によって伝種され、海西(さいこく)から移栽し、今は全国にある・・・・・」(人見必大著・島田勇雄訳注。「本朝食鑑」、東洋文庫 昭和52年)。人見必大は江戸を拠点に活動し、30年以上の歳月を費やして完成させたわけであるが、元禄10年から100年前というと慶長年間あたり。「海西(さいこく)から移栽し・・・・」ということは、九州もしくは京都から江戸方面への伝播を想像させられるのである。それにしても、江戸名産「内藤蕃椒(とうがらし)」と、畿内・山城の古今名物「唐菘(トウガラシ)」。歴史を遡っていくと、唐辛子は、未知のドラマの連続である。 

               伏見甘長唐辛子
               


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原小宮「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」、建立。当初は、「寒念佛供養」のためだった?

2010年03月30日 | 1700年~
              

 【1761年(宝暦11年)】  
 武州多西郡原小宮村は、「日本橋から12里半、民家25軒散在せり。村内神社仏寺なし」。今から約180年前、文政年間に書かれた新編武蔵風土記稿の小宮領の項に、こう記されている。多摩川支流平井川の対岸には源平合戦で名を馳せた武蔵西党の平山季重が建立したと伝えられている、氏神である小宮神社がある。橋のなかった江戸の頃、この氏神を川を隔てて遥拝をしていたと思われる、「小宮一神門」と彫られた石碑が、一昨年発掘された。この石碑は再建された遥拝所に、馬頭観世音、庚申塔、寒念佛などの石仏や、地蔵塚から移された地蔵尊と並んで奉られている。地蔵は、原小宮「蕃椒地蔵尊」であるが、数体あるうちでも最も早く造られたと思われる、宝暦11年(1761年)と側面に彫られた石仏がある。原小宮蕃椒地蔵講の講元によれば、その石仏は「寒念佛供養」の信仰対象として造られた可能性があるという。「寒念佛供養」は、一年で最も寒さの厳しい小寒から大寒にかけての30日間、鉦をたたき念仏を唱えながら諸所を回る僧侶たちの苦行のこと。それが念仏講となったり、供養塔や石仏が造られたのである。富士山の大噴火や、大地震、凶作、飢饉、疫病と、人びとの心を揺るがせる天変地異の続いていた元禄、宝永、享保といった江戸時代中期(1700年代の前半)に、これらの風習は始まったようであり、原小宮でも同様の供養が行なわれていたと推測される。原小宮伝承として、享保6年頃(1721年)の大規模な「はやり疫病」の際には、亡くなった村人の荼毘や、疫病を村の外に送り出す祭りを行い、供養の石碑を建てたといわれる。こういった歴史を経て、小宮神社遥拝所の桜株の根元に野ざらしになっていたのを掘り起こされ、昭和9年に地元青年有志によって地蔵堂に安置されて、「蕃椒地蔵尊」という名称になったとされる。その当時、腫瘍(吹き出物)が流行したが、蕃椒を供えて願をかけるとよいと伝えられたとのこと(原小宮蕃椒地蔵尊縁起)。地元出身の郷土史研究家であった山上翁の記録では、夏になると畑作業の帰りに、唐辛子を地蔵に奉納している人びとの姿をよく見かけたという(「多摩のあゆみNO26. 山上茂樹翁ききがけノート」、原小宮の地蔵。昭和57年)。なぜ、「とうがらし地蔵尊」ではなく、「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」なのか? ご本尊は、どこか? 謎がいろいろあるが、漢方で唐辛子の生薬名として「蕃椒」は、「ばんじゃ」か「ばんしょう」と呼ばれることから、「蕃椒」は唐辛子の薬効への願いという意見も貴重である。ところで、武蔵国の地誌である新編武蔵風土記稿の内藤宿の項に「内藤トウガラシ」の記述がある。「蕃椒 四ツ谷内藤宿及び其邊の村々にて作る、世に内藤蕃椒と呼べり」である。幕府が江戸周辺の産物調査をした「武江産物志」の中でも、特に産地付記の野菜として「番椒(とうがらし) 内藤宿」の記載も見られる。「内藤トウガラシ」は、「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」と同じ、「蕃椒」だったのか? 「内藤トウガラシ」は、天に向かって房状に果実をつける八房(ヤツブサ)という品種であるが、「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」のある原小宮周辺の畑では、今でも「内藤トウガラシ」と同じ八房(ヤツブサ)唐辛子が見られる。また、地蔵縁日の10月24日に毎年「蕃椒地蔵尊祭」が行われ、真っ赤な唐辛子(八房)が供えられる。内藤家の下屋敷で作られていた内藤トウガラシ(八房)と、原小宮の蕃椒は、街道を通じて結ばれていたのか? 建立のいわれや、「蕃椒」と名付けられた経緯を含め、原小宮「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」は、ロマンと謎に満ちているのである。


  


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甲州街道・日野宿、「トンガラシ地蔵」建立。新撰組・沖田総司、お参り伝承。

2010年03月25日 | 1700年~
          
  
  【1766年(明和 3年)】
  江戸日本橋から五街道のひとつ甲州道を10里(約39km)、府中宿と八王子宿のほぼ中間に位置する日野宿。この街道筋の高札場・問屋場跡の裏手、欣浄寺(ごんじょうじ)の一角に「トンガラシ地蔵」はある。別名、「ヤンメ(病み目)地蔵」と呼ばれている。目に病のある人が、赤唐辛子を供えて祈ると良いとされた。当時は、囲炉裏や竃など家の中で火を燃やすことが日常的であり、その煙によって目を痛めることが多かったため、薬効のある唐辛子を供えたことに由来するそうである。またこの地の日野宿本陣には、のちに新撰組局長となった近藤勇や、井上源三郎、土方歳三、沖田総司といった新撰組の面々が日夜激しい稽古に励んだ道場があったことで知られる。さらに沖田総司の姉、「みつ」が暮らしていた地とも言われ、幼少時の沖田総司は姉とともに「トンガラシ地蔵」に、よくお参りをして手を合わせていたという言い伝えが残されている。「天然理心流」、三段突きの名手として恐れられた沖田総司、幼き日の「トンガラシ地蔵」お参り伝承である。この地蔵にも、ドラマが秘められていたのである。また、建立は明和3年と台座に記されているので、沖田姉弟がお参りをした70年ほど歴史を遡ることになるが、「施主 北原村 道白」とも記されている。現在でも年に2回、地蔵堂から地蔵を出して、2月の「てんとう念仏」、10月の「おこもり」といった念仏講を開いている日野・北原地区。世話人の松本氏によれば、「道白」は誰か、謎に包まれたままといわれるが、トンガラシ地蔵由来記に記された「おさな児が 手をあわせおり 辻地蔵」という情景は、現在にも受け継がれている。


     




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