花園神社に立てられた「内藤トウガラシ」の立て札(銘版)に触発され、私たち農園仲間が内藤トウガラシ(八つ房)の栽培を 始めたのは5年前。新田裏と呼ばれる明治通り交差点(日清食品前)を抜弁天の方に入った、新宿6丁目の一角が始まりである。江戸古地図を見ると、この一帯は江戸時代には東大久保村の村地であり、現・歌舞伎町を水源とする神田川の支流にあたる、蟹川(金川)の水を引き込んだ水田だったといわれる。その由来を、新田裏(しんでんうら)という地名が物語っているのである。明治に入ってからは、加賀前田藩を前身とする前田侯爵邸の敷地となったことでも良く知られているが、外様大名でありながら徳川御三家と同格の処遇を幕府から受けていた加賀前田藩は、江戸での拠点として上屋敷・中屋敷・下屋敷に加えて、市ケ谷の別邸(加賀町)、そして新宿から大久保にかけて広く御用地を保有していたといわれる。そのひとつに、加賀前田藩お膝元の金沢で創業された(株)花園万頭本社のある花園神社近辺が挙げられているが、この一帯は内藤トウガラシの故郷でもある。「新編武蔵風土記稿(1828)や、「新宿の今昔」(紀伊国屋書店)の内藤トウガラシに関する記述では、「内藤新宿周辺から大久保にかけての畑は真っ赤に彩られて美しかった」と記されている。この加賀前田藩ゆかりの場所で内藤トウガラシがどのように栽培されていたか不明であるが、天に向かって真っすぐに伸びる、真っ赤な八つ房とうがらしの畑が続いていたことが推察される。内藤トウガラシを育てて5年目。今年も、江戸の昔を想わせる八つ房とうがらしの栽培が始まった!
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。
天に向かって伸びる、内藤(八つ房)トウガラシ
歴史がしのばれる、新田裏。
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天に向かって伸びる、内藤(八つ房)トウガラシ
歴史がしのばれる、新田裏。