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〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

「蕎麦切り」の製法、「薬味」に「からし」。初めての記述、「料理物語」刊行。歴史は、ここに遡る。

2010年07月30日 | 1600年~
        
                     七味唐辛子類(やげん掘、所蔵) 
 【1643年(寛永20年)】
 江戸時代も中期以降、元禄の頃になると出版文化の隆盛や出版技術の向上もあって、文献や史料の類が多く見られるといわれている。逆に、時代背景としては、それ以前の情報は少ないのが常である。「内藤とうがらし」の歴史とか唐辛子の食文化を追っていくときにも、ここにひとつの壁があるように思われる。それだけに、記述のある文献は貴重である。江戸時代の初期を代表する料理書に、「料理物語」(作者不明)がある。料理の種類、料理法、素材の解説、料理道具の知識、作法、配膳などが簡潔に記されている。
 この「料理物語」の目録第十七(後段の部)に麺類の記述がある。「料理物語」の復刻書籍である、「江戸時代料理本集成」(吉井始子 株式会社 臨川書店 昭和53年)には、「うどん」、「切麦」、「葛素麺」、「じじよめんは」、「蕎麦きり」、「麦きり」、「にうめん」が挙げられている。薬味として、「うどん」に、胡椒と、梅。「切麦」に柚。「にうめん」に、胡椒と山椒の粉。それぞれの麺に適した薬味が記されている。それでは、「蕎麦きり」は? 蕎麦きりの作り方についての初めての記述として、「めしのとりゆにてこねて候て吉・・・・・」と解説が始まっているが、その最後に詳細な薬味の記述が見られる。「・・・大こんの汁くはへ吉。はながつほ、おろし、あさつきの類又からし、わさびもくわえよし」。他の麺と違い、胡椒ではなく、「からし」と「わさび」が記されていること、さらに種類が多いことが、蕎麦の薬味の特徴である。この本が書かれたのが、寛永の20年。「やげん堀」初代当主の「からしや徳右衛門」が、漢方薬の知識を生かして七味唐辛子を開発、江戸市中で売り出したのが、その18年前の寛永の2年。また斉藤月岑(げっしん)が、江戸および近郊に起こった事柄をまとめた「武江年表」によれば、蕎麦を器に盛り付けただけの便利で安い「けんどん蕎麦切り」が登場(寛文4年)。この頃から「蕎麦切り」は、江戸の食文化として定着を始めたと推測されている。その大きな要因として、蕎麦と薬味の七味唐辛子は相性がよく、相乗効果が見られたことと、漢方の成分が風邪の予防に効果的だったからといわれる(七味唐辛子の3大老舗、「やげん堀」伝承)。さらに、もうひとつ、唐辛子を蕎麦の薬味として広く世に伝えていった書物として、「本朝食鑑」(元禄10年刊)が挙げられる。これは、幕府侍医を父に持ち、自らも医者である著者の人見必大(ひとみひつだい)が、30年以上もの歳月を費やし、一般庶民が口にする食べ物について医学的見地からの良し悪しを書き上げた食物事典。この蕎麦の項目でも、薬味について触れられている。「本朝食鑑」の読み下し本(「本朝食鑑」 島田勇雄訳注、東洋文庫・株式会社平凡社、昭和52年発行)によると、「・・・・・だいこん汁、花鰹、山葵(わさび)、橘皮(みかんのかわ)、蕃椒(とうがらし)等・・・を用意して蕎麦切および汁に和して食べる」。一方、温飩(うどん)の項目で薬味に関して、「・・・・・垂れ味噌汁、堅魚(かつお)汁、胡椒粉、だいこん汁などをつけ、温いうちに食べる。・・・・・」。ここでも、「料理物語」と同様に、蕎麦には蕃椒、温飩には胡椒である。この「本朝食鑑」は、その後の江戸の食文化に大きな影響を及ぼしたといわれているだけに、蕎麦の薬味としての唐辛子が広く浸透していったと想定されるのである。それが、のちに天保年間の江戸・近世風俗誌「守貞漫稿」で唐辛子売りの口上として取り上げられた、「・・・入れますのは、江戸は内藤新宿八つ房が焼き唐辛子」という定評に結びついていったのであろうか。

               
                            唐辛子畑

 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。










 

「青くても 有るべきものを 唐辛子」。芭蕉の俳句が物語る? 江戸とうがらし文化の歴史(4)

2010年07月02日 | 1600年~

    芭蕉庵跡地に建つ芭蕉稲荷と記念碑               芭蕉庵跡、記念碑

 【1692年(元禄 5年)】
  芭蕉が、この句を詠んだ深川の草庵の所在は、隅田川と小名木川が合流する川のほとりである。芭蕉が江戸に下ってしばらく居を構えていた日本橋界隈から見れば、この地は川向こうの新開地といえる。なぜ、突然の転居を選択したのか? 俗世間から逃れたいためだったのか、侘び寂びを求めた故なのか、理由は謎に包まれたままではあるが、幕府の出入りの魚商を営んでいた門人の杉風(さんぷう)が所有していた、生簀の番小屋を庵として提供したものといわれる(参考:編・尾形仂 芭蕉ハンドブック株式会社三省堂)。この草庵は、天和2年(1682年)に駒込方面から出火した江戸大火によって焼失したり、元禄2年には他人に譲渡したり、芭蕉が旅に出ないときには借家住まいも幾たび数えたとのことであるが、結局は、元禄5年に門人の杉風(さんぷう)、枳風(きふう)、岱水(たいすい)等の尽力によって旧庵の近くに、新芭蕉庵が再建されたわけである。そして、この草庵は2年後に江戸を離れるまでの住まいとなり、句会、門人来訪の場となったわけである。元禄5年、秋9月。元禄2年に門人となり、めきめき頭角を現していた膳所の酒堂(しゃどう)が、 俳諧修行の悩みを抱えて芭蕉庵を訪れたのである。その後、この芭蕉庵にしばらく逗留し、芭蕉の教えを受けていた際に、嵐蘭、岱水を加えた4人で詠んだ四吟歌仙の句が、「青くても 有るべきものを 唐辛子」なのである。「秋になってきたこの時期、草庵の庭には、青かった唐辛子が赤く色づいて生えている。唐辛子は青いままでも良いものだし、自然と赤くなっていくものなのだ」(校註:今栄蔵 芭蕉句集 株式会社 新潮社)。酒堂の若さ故の青さを、赤くなる唐辛子に例え、酒堂の焦りを巧みに諭した一句である。何事にも探究心 と好奇心の旺盛であった芭蕉は、赤唐辛子とは趣きを異にする、青唐辛子の辛さと風味を十分に認識しており、この発想が生まれたという逸話を耳にすると、妙に納得してしまうのである。ところで、江戸の唐辛子といえば、まず内藤トウガラシ(八房とうがらし)が思い浮かぶのであるが、芭蕉が深川の草庵の庭で一句詠んだ唐辛子は? 青い唐辛子の持つエネルギーを捉えて、芭蕉がこの句を詠んだのであれば、真っすぐに天に向かって房状に伸びていく内藤トウガラシ(八房とうがらし)? それが、草庵の庭に生えていたということは、この頃には唐辛子は普通に見かける、一般的な存在になっていた? 時は、元禄5年。内藤清牧(きよかず)が、信州高遠藩主(初代)を拝命、内藤トウガラシが栽培されていたとされる内藤家下屋敷(現在の新宿御苑)とは別に、神田・小川町に上屋敷を賜った翌年のことである。

             
                           芭蕉稲荷

 

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「草の戸を しれや穂蓼(ほだて)に 唐がらし」。芭蕉の一句が物語る?江戸のとうがらし文化の歴史(3)

2010年06月28日 | 1600年~
             
                           芭蕉像
  【1690年(元禄 3年)】
  近江国膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)に、無名庵という名の草庵がある。京都に接した琵琶湖のほとり、故郷の伊賀上野への地の利もよく、芭蕉は晩年には再三この地を訪れていたといわれる。時は元禄3年、「おくのほそ道」の旅を終えて伊賀上野に滞在。ここで俳事を重ね、「このたねと おもひこなさじ とうがらし」を詠んだのち、国分山「幻住庵」への3ケ月ほどの滞在を経て、膳所の無名庵を訪れ滞留していたといわれる。ここで作られたのが、とうがらしの句、3作目「草の戸を しれや穂蓼(ほだて)に 唐がらし」である。芭蕉が、穂蓼と唐辛子をモチーフに、草庵を訪ねてくる人びとに対して詠んだ一句である。「私の草庵は、庭に穂蓼が咲き、唐辛子が赤い実をつけているだけの寂しい佇まいであり、そんな草庵の様を知っていただきたい」(参照 松尾芭蕉集 校閲・訳者井本農一 堀信夫 村松友次 株式会社小学館)。野草の蓼は料理の褄や薬味として使われ、唐辛子と同様にピリッとした辛さが特徴。古びた草庵の庭に咲く赤い野草と唐辛子の組み合わせが、何かドラマを感じてしまいますね。ところで京都の周辺は、歴史的に唐辛子の名産地。明暦年間(1655年)に創業された七味唐辛子の3大老舗、京都・清水の「七味屋本舗」は寛文年間(1661年~1670年頃)になって、京都・伏見周辺で栽培されていた唐辛子を材料に使用した七味唐辛子を売り出したといわれる(参照 七味屋本舗、ホームページ)。この唐辛子と思われる記述が、江戸前期の俳人である松江重頼が刊行した俳諧作法書、「毛吹草」(けふきぐさ)である。この「毛吹草」には、俳諧に大切な季語、語彙、それに加え各地域の特徴を現わす諸国名物が編集されているが、この巻第4には、畿内・山城の古今名物として、唐菘(タウガラシ=トウガラシ)が挙げられており、伏見(山城)周辺では唐辛子の日本伝来後、いち早く唐辛子の栽培が始まっていたと思われる。「毛吹草」の刊行が、寛永15年(1638年)~正保2年(1645年)頃の話であり、その年代と唐辛子の栽培エリアから推測すると、元禄3年の秋、膳所(ぜぜ)の無名庵の庭に咲き誇っていたのは、内藤トウガラシ(八房)、鷹の爪と並ぶ唐辛子である、京都伝統野菜の伏見唐辛子の系統かと考えてしまうのである。芭蕉の句から、伝統野菜の歴史が見える? とうがらしの文化が見える?

             
                        伏見甘長唐辛子 

                  
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「このたねと おもひこなさじ とうがらし」。芭蕉の名句が物語る? 江戸とうがらし文化の歴史(2)

2010年06月21日 | 1600年~
        
                    内藤とうがらし(八房系)の種
 【1690年(元禄 3年)】
 旅に生きた漂泊の詩人、芭蕉。元禄2年の夏、美濃大垣で「おくのほそ道」の旅を終え、その後の2年間の殆どを近畿圏の伊賀、京都、膳所を行き来しながら門人との交流を通じ、俳諧の新たな方向である「不易流行」の浸透を図ったと言われている(校註:今栄蔵 芭蕉句集 株式会社 新潮社)。記録によれば、この時期に芭蕉が頻繁に訪れていたのが生まれ故郷の伊賀であり、2ケ月、3ヶ月と逗留することも珍しくなかったようである。それ以前にも、両親の供養ではあったが、亡父与左衛門の法要への列席を伴った元禄元年の江戸~東海~近畿行脚(笈の小文)や、母の墓参を兼ねた帰郷の旅(野ざらし紀行)など、生涯を旅に明け暮れ創作活動を続けていた芭蕉が再三足を伸ばしていた生まれ故郷の伊賀上野は、とくに重要な存在だったのかも知れない。先の元禄2年の夏の場合も、美濃大垣から伊勢山田を経て伊賀上野に帰郷、2ケ月間にわたって逗留。膳所で年を越した後に、再び元禄3年の正月3日に伊賀上野へ帰郷して、そのまま3月下旬まで実家で過ごしたのである。少し謎めいているようでもある、その理由は分からないが、発句の草稿や推敲のため実家で過ごしていたと思われる。この時期(元禄3年2月~4月頃)に詠まれた、「種」をテーマとした3つの句の存在が、それを裏付ける? 茄子、芋、唐辛子の3句(生家、自宅の畠、故郷の風情)で、唐辛子の句は、「このたねと おもひこなさじ とうがらし」。意味は、こんな小さな種と侮ってはいけない。唐辛子の種は、秋にはピリッと辛い真っ赤な実をつけるのだから(加藤楸邨著 芭蕉全句 株式会社筑摩書房)。含蓄に富んだ句でもあるが、唐辛子の種を覗き込んでいる風情に、自然の摂理を感じ取っていたわけである。ところで、この唐辛子の句、茄子の種が読まれた「春雨や 二葉に萌ゆる 茄子種(なすびだね)」の句のように、故郷での情景? それとも、それとは違ったロケーション? 旅に生きた漂泊の詩人と呼ばれた芭蕉だから、彼が尋ねた地でこういった場面に触れる機会があったと考えられるのである。この句が読まれた元禄3年というと、江戸の3大農学者のひとりである宮崎安貞が、日本初の本格的農業書「農業全書」(唐辛子について、栽培時期、植え方などの詳しい記述が見られる)の上梓を目指して、畿内諸国の視察や老農への聞き取りによる情報交換に励んでいた時期。それから推察すると、伊賀、京都、膳所といった畿内をはじめ日本各地で唐辛子の存在は、かなり周知され始めていたとも思われる。また、同じ頃に活躍した儒学者、貝原益軒がいうように、唐辛子は伝来の新野菜だけに発句の素材として新しかったので、推敲を重ねて句にしたためたとも想定されるわけである。

         
                 真っ赤な内藤とうがらし(八房系)と、白い花。 

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「隠さぬぞ 宿は菜汁に唐がらし」。 芭蕉の俳句が物語る? 江戸とうがらし文化の歴史(1)

2010年06月17日 | 1600年~
      
                芭蕉像 
 【1688年(元禄元年)】
 「新編芭蕉大成」によると、俳聖・芭蕉が生涯に残した発句は、僅か980句に過ぎないといわれる。生涯に九度の旅を重ね、紀行文発句に励んだ成果でもあるが(編・尾形仂 芭蕉ハンドブック株式会社三省堂)、この点数が少ないのか、多いのか? ちなみに小林一茶の場合は生涯に2万句を詠んだとされているが、推敲に時間をかけた芭蕉に関しては生涯作品数は別として、この1000句に満たない句の中に、唐辛子を季語にするか、句の中に唐辛子を詠みこんだものを合わせて4点の俳句が見られる。ただ不思議なことに、唐辛子が詠まれた時期は何れの句も元禄年間に集中しているのである。それは、5・7・5という短くシンプルな俳句を確立した芭蕉が、時代とともに作風を変化させていった時期と合致している。「不易流行」(ふえきりゅうこう)、である。5・7・5の俳句の形式と作法に基づいて、つねに新たな句材と、新しい表現の追求を図っていったのである。確かに、元禄年間に芭蕉は「おくのほそ道」をはじめ、代表作となる幾多の名句を残しているのである。その点、芭蕉の観察力からみて、唐辛子には句材としての斬新さが見られたのであろうか。さて、 芭蕉、初めての唐辛子の句。「隠さぬぞ 宿は菜汁に 唐がらし」である。これは、貞享5年から元禄元年にかけて俳諧紀行に出た芭蕉が、医師で弟子の俳人である、吉田(現在の豊橋)の加藤烏巣(うそう)を訪ね、宿泊したときに詠んだ句といわれる。「宿」とは、加藤家。医師の日常は、来客にも質素なもてなしであり、菜汁と唐辛子だけの食事をとりつくろわない様子に感銘をうけ、わが弟子を褒め称えているのである。ところで、この唐辛子、加藤家の庭先で烏巣(うそう)が育てていたのだろうか? あるいは、日々の食卓にのぼっていた? そうなると、庶民・町民の文化が一斉に花開いた元禄の頃には、唐辛子はごくごく身近な存在になっていたと推察されるのである。時は、元禄元年。後に、内藤トウガラシ(八房とうがらし)の名産地といわれた内藤新宿の宿場が開設される、10年ほど前の話である。


         
                   芭蕉像から見る、隅田川と小名木川



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