〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

唐辛子地蔵

2010年04月22日 | 資料編  
   
      禅東院、とうがらし地蔵                  日野宿、トウガラシ地蔵


         
      原小宮、蕃椒地蔵尊                     正行寺、とうがらし地蔵  

正行寺「とうがらし地蔵」建立。唐辛子を供えるのは、「覚宝院」が自らの坐像を彫って安置した歴史に由来。

2010年04月21日 | 1700年~
         
                        正行寺、とうがらし地蔵
  【1702年(元禄15年)】
  内藤新宿を起点とした街道沿いの「とうがらし地蔵」ではなく、それと同じ時代に建立された「とうがらし地蔵」は他の街道筋でも見ることができる。江戸日本橋から中山道を1里、歴代将軍が東照宮への社参に利用した日光御成道(にっこうおなりみち)との分岐点となっている本郷追分に、正行寺(現・文京区)の「とうがらし地蔵」はある。寺の入口にあたる街道脇には立て札があり、「とうがらし地蔵」についての由来が書かれている。寺に伝わる元文3年(1738年)の文書によると、元禄15年(1702年)に僧の覚宝院(かくほういん)が、人びとの諸願成就を願うとともに咳の病を癒すため、自ら座禅姿の石像を刻み寺に安置したとされる。この座禅姿の覚宝院の石像が「とうがらし地蔵」と呼ばれるのは、「覚宝院」が「とうがらし酒」を好んだことに由来しており、人びとは唐辛子を供え諸願成就を願っていたとされる。覚宝院が「とうがらし酒」をこよなく愛し、また願かけに唐辛子が供え始められた元禄の頃は、数々の農業指導書が書かれた時代であり、唐辛子に関する情報も広く一般的になってきたと推察される。医師の人見必大による「本朝食鑑」や、江戸期の3大農学者のひとりである宮崎安貞が執筆した「農業全書」が出版されたのが元禄10年(1697年)、その数年後には貝原益軒が「菜譜」や「大和本草」の執筆を始めており、すぐれた農業指導書の登場により唐辛子の栽培は盛んになっていったと考えられる。それだけ身近な存在になった唐辛子は、地蔵に供える機会も増えるというものである。武蔵国村明細帳集成(天明8年/1788年)によると、正行寺の「とうがらし地蔵」のある本郷追分から日光御成道を4つ、岩槻宿の手前の大門宿の名産品として唐がらしが挙げられている。そうなると、甲州街道と同じように唐辛子が街道を行き来した? それは、内藤トウガラシ(八つ房)? それとも、日光唐辛子?思いをめぐらすと、話は尽きない。
  ところで覚宝院の座禅像に関しては、江戸中期の地誌として社寺・名所の来歴を記した「江戸砂子」(えどすなご)にひとつの記述が見られるという。曰く、「当寺境内に浅草寺久米平内(くめへいない)のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり」。江戸前期の剣の達人であった久米平内は、多くの人の命を奪った供養のために、自らが禅に打ち込む「仁王座禅」の姿を石に刻ませ、浅草寺に久米平内堂(くめのへいないどう)として祀ったとされる。これと同様の「仁王座禅」の相ということである。それぞれの石像に対する動機は違っても、禅に打ち込む真摯な思いは、平内も覚宝院も共通するものがあったのであろうか。また、正行寺の「とうがらし地蔵」の表情というか、顔つきが、内藤新宿から甲州街道を下った街道沿いに建立された「とうがらし地蔵」の表情と、かなり違いが見られる理由も、この辺にある? 八王子・禅東院の「とうがらし地蔵」、日野の「トンガラシ(ヤンメ)地蔵」、原小宮の「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」、そして正行寺の「とうがらし地蔵」、それぞれの表情には、それぞれの建立背景が秘められているように思われるのである。

              
                         正行寺、地蔵堂


        
                            正行寺


 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。






 




 

内藤新宿、宿場再開。大繁昌の宿場には瓜(うり)、落蘇(なすび)、八房(ヤツブサ)唐辛子問屋があった?

2010年04月13日 | 1700年~
   
                            太宗寺
  【1772年(安永元年)】
  江戸が発展するにつれて、大消費地である江戸への物流を担う産業道路として甲州街道や青梅街道の人馬の通行が増え、内藤新宿は伝馬宿としての再開が望まれていた。神田・雉子(きじ)町名主の斉藤月岑(げっしん)が、徳川家康の入国した天正18年(1590年) から300年に及ぶ、江戸と近郊の様々な事象・事柄を記述。考証の正確さで定評を得た武江年表に、次のようにある。安永元年壬辰(みずのえたつ)四月。「四谷内藤新宿駅舎再興御免あり。甲州道中人馬継立の所となりて繁昌せり。・・・・・明和九年願ひ出るもの有 て、又古来の通りハタゴヤ五十二軒、飯盛り女百五十人出来たりとぞ」(斉藤月岑著 金子光晴校注 「武江年表」1~2 東洋文庫 株式会社 平凡社 1968年)。宿場再開と同時に賑わいを見せた旅籠屋や茶屋の存在が、内藤新宿の繁栄を支えたひとつの要因とも いわれているが、とくに宿場の重要な機能である人や荷物の継立を行った問屋に、人馬が集まったわけである。再開の翌年に出版された洒落本「当世気転草(きどりぐさ)」に、それを裏付ける記述がある。「糞培馬(こへつけば)と、瓜や落蘇(なすび)の問屋なり」、である。ここから推測すると、すでに当時、野菜類を取り扱う問屋があったと推察されている(図録「内藤新宿 くらしが創る歴史と文化」、新宿区立新宿歴史博物館編集、新宿区教育委員会 /児玉幸多監修 「江戸四宿」 江戸四宿実行委員会編集発行)。また、文化爛熟期を迎えるこの頃からは江戸固有の文芸活動のひとつとして隆盛を見せてきた、川柳にも宿場や問屋場の様子が描かれているのである。しかも、内藤新宿の名産品であった内藤トウガラシ(八房トウガラシ)が主題となっている川柳が見られるのが特徴。「四ッ谷の八ッ房、日光へ歩に取られ」。あるいは、「八ッ房つけて内藤の駒は出る」など。前者は、日光紫蘇巻き唐辛子の原料として運ばれてしまった八房唐辛子。後者の意味は、八房唐辛子を荷につけて内藤新宿を出発する駄馬の様子と解釈されている(川柳江戸名所図会 至文堂 昭和45年)。内藤家の下屋敷とその周辺で栽培され、江戸市中と内藤新宿の都市化によって街道を下って近郊農村で栽培が行われたといわれる、内藤トウガラシ(八房)。 江戸の昔から、街道は、人を運び、物を運び、情報を運ぶ。そのハブ機能を果たしたのが宿場であり、問屋であった。その点、ハブ機能を備えた内藤新宿は、内藤トウガラシ(八房)の伝播に重要な存在だったと思われる。

            新宿御苑、玉川上水あと
            

            大木戸石碑
            




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宿場開設、幕府の許諾。「内藤新宿」誕生へ。その存在は、「内藤トウガラシ」の歴史に貢献?

2010年04月09日 | 1600年~
   

  【1698年(元禄11年)】
  宿場は、東西に9町余り(約1km)。東は四ツ谷大木戸を少し入ったあたりから、西は追分にかけて(新宿通り、四ツ谷4丁目~新宿3丁目付近)、内藤家の下屋敷と、旗本屋敷の一部を割いて開設。内藤家が返上した新しい宿場であることから、「内藤新宿」と名付けられたようでもある。宿場開設の理由としては、街道の起点である日本橋と、それまでの最初の宿場であった高井戸宿まで四里八丁(約17km)と長丁場であり、人馬ともに難渋したからといわれているが、詳細は不明である。 しかも当時は、葦や萱の生い茂る荒地であった場所がなぜ候補にされたのか、これも謎といわれている。また、宿場開設を申し出た江戸浅草の名主、喜兵衛(のちの高松喜六)と同士の町人たちは宿場の開設後ここに移り住み、高松喜六が代々名主をつとめる等、町政に貢献したのである(新編武蔵風土記稿、 太宗寺資料)。ところが、こうして開設されたにもかかわらず、僅か20年にして利用客の少ないことや風紀上の理由により廃駅となったり、安永元年の宿場再開後には大繁盛を見せるなど、内藤新宿はドラマチックな歴史を辿ってきた。その点では、江戸の都市化の歴史とも、リンクしているのである。甲州街道と脇往還である青梅街道、そして五日市街道の3本の街道で結ばれ、江戸市中と江戸以西(武蔵野~多摩~甲斐~信濃)をつなぐ交通の要所であり、経済・生活文化の中心としても重要な役割を果たしていたからである。江戸近郊の農村は、江戸の都市化と肥大化による野菜・穀物需要に応えるための農作物の供給や、江戸稼ぎによる現金収入を手にするために、いわゆる物流ターミナルとなっていた内藤新宿へ、足を運んでいたのである。また内藤新宿の都市化に伴って、内藤家下屋敷と内藤新宿周辺で栽培されていた「内藤トウガラシ」の生産地は徐々に街道を下って、近郊農村に広がって行ったといわれている(大竹道茂著「江戸東京野菜 物語編」農山漁村文化協会 2009年)。そうなると、街道を下って江戸近郊農村で生産された「内藤トウガラシ」は、街道を上って内藤新宿の問屋へ運ばれていた?

   


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唐辛子の日本伝来から伝播。歴史を追うと、畿内・山城(伏見)あたりも早かった?

2010年04月07日 | 1600年~
   

  【1638(寛永15)~1645(正保2)】
 唐辛子の伝来時期には天文年間説、文禄・慶長の役説、そして慶長10年説の3つがあり、場所としては九州説と京都説の2つが有力といわれている。この時代、つまり鉄砲伝来から鎖国までの100年間は南蛮船の渡来が活発化していたうえ、朝鮮半島との交流も盛んだっただけに、ひとつの説に絞りがたいものがある。それにしても、伝来後はどのように伝播、つまり日本国内に広がって行ったのだろうか。寛永15年(1638)成立、正保2年(1645)刊の、一冊の書物がある。 江戸初期の俳人、松江重頼が手がけた俳諧作法書、「毛吹草」(けふきぐさ)である。 俳諧に使う言葉や資料が豊富に集められ、当時の外来新野菜についての記述が見られるのが特徴である。
 さらに日本全国の名産品が国別に紹介されている点が、資料として貴重な存在である。この「毛吹草」の巻第四に、畿内・山城の古今名物として、唐菘(タウガラシ=トウガラシ)が挙げられている(松江重頼著・竹内若校訂。「毛吹草」岩波書店1976年)。この「毛吹草」が、編集・出版された寛永から正保に名産品とされていたことから逆算すると、唐辛子の日本伝来後、いち早く京都・伏見(畿内・山城)周辺で栽培が始まっていたと、推測されるのである(九州もしくは京都に伝来した唐辛子が、京都・伏見、つまり畿内・山城で栽培された)。
  また江戸前期の歴史家、黒川道祐が編纂した山城国の地誌、「擁州府志」(ようしゅうふし)に、唐辛子が擁州(山城国)の稲荷付近で古くから作られる、とある(貞享元年、1684年)。これも、伏見系唐辛子のことと推察されるが、さらに元禄10年(1697年)、医師の人見必大が出版した「本朝食鑑」には、唐辛子の伝播についての貴重な記述が見られる。「生えやすい性質なので、家圃・田園に多く種える。
 我が国で番椒を使うようになってから百年に過ぎない。煙草と相前後して、いずれも蕃人によって伝種され、海西(さいこく)から移栽し、今は全国にある・・・・・」(人見必大著・島田勇雄訳注。「本朝食鑑」、東洋文庫 昭和52年)。人見必大は江戸を拠点に活動し、30年以上の歳月を費やして完成させたわけであるが、元禄10年から100年前というと慶長年間あたり。「海西(さいこく)から移栽し・・・・」ということは、九州もしくは京都から江戸方面への伝播を想像させられるのである。それにしても、江戸名産「内藤蕃椒(とうがらし)」と、畿内・山城の古今名物「唐菘(トウガラシ)」。歴史を遡っていくと、唐辛子は、未知のドラマの連続である。 

               伏見甘長唐辛子
               


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