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〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

「草の戸を しれや穂蓼(ほだて)に 唐がらし」。芭蕉の一句が物語る?江戸のとうがらし文化の歴史(3)

2010年06月28日 | 1600年~
             
                           芭蕉像
  【1690年(元禄 3年)】
  近江国膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)に、無名庵という名の草庵がある。京都に接した琵琶湖のほとり、故郷の伊賀上野への地の利もよく、芭蕉は晩年には再三この地を訪れていたといわれる。時は元禄3年、「おくのほそ道」の旅を終えて伊賀上野に滞在。ここで俳事を重ね、「このたねと おもひこなさじ とうがらし」を詠んだのち、国分山「幻住庵」への3ケ月ほどの滞在を経て、膳所の無名庵を訪れ滞留していたといわれる。ここで作られたのが、とうがらしの句、3作目「草の戸を しれや穂蓼(ほだて)に 唐がらし」である。芭蕉が、穂蓼と唐辛子をモチーフに、草庵を訪ねてくる人びとに対して詠んだ一句である。「私の草庵は、庭に穂蓼が咲き、唐辛子が赤い実をつけているだけの寂しい佇まいであり、そんな草庵の様を知っていただきたい」(参照 松尾芭蕉集 校閲・訳者井本農一 堀信夫 村松友次 株式会社小学館)。野草の蓼は料理の褄や薬味として使われ、唐辛子と同様にピリッとした辛さが特徴。古びた草庵の庭に咲く赤い野草と唐辛子の組み合わせが、何かドラマを感じてしまいますね。ところで京都の周辺は、歴史的に唐辛子の名産地。明暦年間(1655年)に創業された七味唐辛子の3大老舗、京都・清水の「七味屋本舗」は寛文年間(1661年~1670年頃)になって、京都・伏見周辺で栽培されていた唐辛子を材料に使用した七味唐辛子を売り出したといわれる(参照 七味屋本舗、ホームページ)。この唐辛子と思われる記述が、江戸前期の俳人である松江重頼が刊行した俳諧作法書、「毛吹草」(けふきぐさ)である。この「毛吹草」には、俳諧に大切な季語、語彙、それに加え各地域の特徴を現わす諸国名物が編集されているが、この巻第4には、畿内・山城の古今名物として、唐菘(タウガラシ=トウガラシ)が挙げられており、伏見(山城)周辺では唐辛子の日本伝来後、いち早く唐辛子の栽培が始まっていたと思われる。「毛吹草」の刊行が、寛永15年(1638年)~正保2年(1645年)頃の話であり、その年代と唐辛子の栽培エリアから推測すると、元禄3年の秋、膳所(ぜぜ)の無名庵の庭に咲き誇っていたのは、内藤トウガラシ(八房)、鷹の爪と並ぶ唐辛子である、京都伝統野菜の伏見唐辛子の系統かと考えてしまうのである。芭蕉の句から、伝統野菜の歴史が見える? とうがらしの文化が見える?

             
                        伏見甘長唐辛子 

                  
 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。




 

 


 

「このたねと おもひこなさじ とうがらし」。芭蕉の名句が物語る? 江戸とうがらし文化の歴史(2)

2010年06月21日 | 1600年~
        
                    内藤とうがらし(八房系)の種
 【1690年(元禄 3年)】
 旅に生きた漂泊の詩人、芭蕉。元禄2年の夏、美濃大垣で「おくのほそ道」の旅を終え、その後の2年間の殆どを近畿圏の伊賀、京都、膳所を行き来しながら門人との交流を通じ、俳諧の新たな方向である「不易流行」の浸透を図ったと言われている(校註:今栄蔵 芭蕉句集 株式会社 新潮社)。記録によれば、この時期に芭蕉が頻繁に訪れていたのが生まれ故郷の伊賀であり、2ケ月、3ヶ月と逗留することも珍しくなかったようである。それ以前にも、両親の供養ではあったが、亡父与左衛門の法要への列席を伴った元禄元年の江戸~東海~近畿行脚(笈の小文)や、母の墓参を兼ねた帰郷の旅(野ざらし紀行)など、生涯を旅に明け暮れ創作活動を続けていた芭蕉が再三足を伸ばしていた生まれ故郷の伊賀上野は、とくに重要な存在だったのかも知れない。先の元禄2年の夏の場合も、美濃大垣から伊勢山田を経て伊賀上野に帰郷、2ケ月間にわたって逗留。膳所で年を越した後に、再び元禄3年の正月3日に伊賀上野へ帰郷して、そのまま3月下旬まで実家で過ごしたのである。少し謎めいているようでもある、その理由は分からないが、発句の草稿や推敲のため実家で過ごしていたと思われる。この時期(元禄3年2月~4月頃)に詠まれた、「種」をテーマとした3つの句の存在が、それを裏付ける? 茄子、芋、唐辛子の3句(生家、自宅の畠、故郷の風情)で、唐辛子の句は、「このたねと おもひこなさじ とうがらし」。意味は、こんな小さな種と侮ってはいけない。唐辛子の種は、秋にはピリッと辛い真っ赤な実をつけるのだから(加藤楸邨著 芭蕉全句 株式会社筑摩書房)。含蓄に富んだ句でもあるが、唐辛子の種を覗き込んでいる風情に、自然の摂理を感じ取っていたわけである。ところで、この唐辛子の句、茄子の種が読まれた「春雨や 二葉に萌ゆる 茄子種(なすびだね)」の句のように、故郷での情景? それとも、それとは違ったロケーション? 旅に生きた漂泊の詩人と呼ばれた芭蕉だから、彼が尋ねた地でこういった場面に触れる機会があったと考えられるのである。この句が読まれた元禄3年というと、江戸の3大農学者のひとりである宮崎安貞が、日本初の本格的農業書「農業全書」(唐辛子について、栽培時期、植え方などの詳しい記述が見られる)の上梓を目指して、畿内諸国の視察や老農への聞き取りによる情報交換に励んでいた時期。それから推察すると、伊賀、京都、膳所といった畿内をはじめ日本各地で唐辛子の存在は、かなり周知され始めていたとも思われる。また、同じ頃に活躍した儒学者、貝原益軒がいうように、唐辛子は伝来の新野菜だけに発句の素材として新しかったので、推敲を重ねて句にしたためたとも想定されるわけである。

         
                 真っ赤な内藤とうがらし(八房系)と、白い花。 

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「隠さぬぞ 宿は菜汁に唐がらし」。 芭蕉の俳句が物語る? 江戸とうがらし文化の歴史(1)

2010年06月17日 | 1600年~
      
                芭蕉像 
 【1688年(元禄元年)】
 「新編芭蕉大成」によると、俳聖・芭蕉が生涯に残した発句は、僅か980句に過ぎないといわれる。生涯に九度の旅を重ね、紀行文発句に励んだ成果でもあるが(編・尾形仂 芭蕉ハンドブック株式会社三省堂)、この点数が少ないのか、多いのか? ちなみに小林一茶の場合は生涯に2万句を詠んだとされているが、推敲に時間をかけた芭蕉に関しては生涯作品数は別として、この1000句に満たない句の中に、唐辛子を季語にするか、句の中に唐辛子を詠みこんだものを合わせて4点の俳句が見られる。ただ不思議なことに、唐辛子が詠まれた時期は何れの句も元禄年間に集中しているのである。それは、5・7・5という短くシンプルな俳句を確立した芭蕉が、時代とともに作風を変化させていった時期と合致している。「不易流行」(ふえきりゅうこう)、である。5・7・5の俳句の形式と作法に基づいて、つねに新たな句材と、新しい表現の追求を図っていったのである。確かに、元禄年間に芭蕉は「おくのほそ道」をはじめ、代表作となる幾多の名句を残しているのである。その点、芭蕉の観察力からみて、唐辛子には句材としての斬新さが見られたのであろうか。さて、 芭蕉、初めての唐辛子の句。「隠さぬぞ 宿は菜汁に 唐がらし」である。これは、貞享5年から元禄元年にかけて俳諧紀行に出た芭蕉が、医師で弟子の俳人である、吉田(現在の豊橋)の加藤烏巣(うそう)を訪ね、宿泊したときに詠んだ句といわれる。「宿」とは、加藤家。医師の日常は、来客にも質素なもてなしであり、菜汁と唐辛子だけの食事をとりつくろわない様子に感銘をうけ、わが弟子を褒め称えているのである。ところで、この唐辛子、加藤家の庭先で烏巣(うそう)が育てていたのだろうか? あるいは、日々の食卓にのぼっていた? そうなると、庶民・町民の文化が一斉に花開いた元禄の頃には、唐辛子はごくごく身近な存在になっていたと推察されるのである。時は、元禄元年。後に、内藤トウガラシ(八房とうがらし)の名産地といわれた内藤新宿の宿場が開設される、10年ほど前の話である。


         
                   芭蕉像から見る、隅田川と小名木川



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貝原益軒が手がけた農書、「菜譜」(さいふ)が刊行される。益軒は、唐辛子を畠で観察していた?

2010年06月02日 | 1700年~
         
                   「甲州街道筋の内藤とうがらし(八房系)」            

  【1714年(正徳 4年)】
  日本古来の原種は、数えるほどの、いわゆる野菜類。奈良時代に中国から野菜の栽培が伝わったあと、大航海時代の戦国時代から江戸時代初期にかけては、アジアから、ヨーロッパから、新野菜が続々と伝来したといわれている。人見必大が30年以上の歳月を費やして書き上げた「本朝食鑑」や、日本3大農学者の一人である宮崎安貞の農業指導書「農業全書」、そして「養生訓」と並ぶ貝原益軒の代表作とされる「大和本草」をはじめとした本草書や農書に、こういった野菜(菜)の種類・分類・栽培法の解説が見られる。それぞれが、そうそうたる定評が築かれた書物だけに、「菜譜」の存在は、やや希薄に見られがちといわれる。ところが、この農書は、広く一般庶民に分かりやすいように平易な文章と、栽培に関する実用的な内容で構成されており、さらに江戸時代初期から中期にかけて、どういった種類の野菜が存在したかを知るうえでは、かなり貴重な文献と思われるのである。貝原益軒が書き上げた花譜・菜譜(筑波常治・解説、八坂書房・発行 昭和48年)に目を通していくと、菜譜には136種類の野菜(菜)が10区分されており、生育の方法と食べる部位によって仕分けられている。人が手をかけて畠で栽培されるのが圃菜(ほさい)、野原に生えている食べられる菜が「野菜」、山で採れるから「山菜」、水辺で採れるから「水菜」といった具合に、生育の場所に菜(な)がついて区分けされているわけで、別の見方をすれば、畠で栽培される菜(な)と、野生の菜(な)の2つに大きくグルーピング整理されているのである。文化の爛熟と農業の発展が見られた元禄の頃ではあるが、まだまだ圃菜(ほさい)より野生の菜(な)の方が多かったのかも知れないのである。
  今から約400年まえの江戸時代初期前後に伝来した新野菜のひとつである唐辛子は、「菜譜」(さいふ)に記された貝原益軒のグルーピングでは、番椒(たうがらし)として、圃菜(ほさい)に分類されている。野に生える野生の「菜」(な)ではなく、畠で丁寧に手をかけられ、生育されている圃菜(ほさい)というわけである。同じように、この圃菜(ほさい)に区分けされているのは、日本原産のだいこん、かぶらな、せりにんじん、ねぎ、それと、香辛菜のにら、にんにく、らっきょう、はっか、わさび、たうがらし、などなど。これらの区分けに関しては、博物学者としての知識と観察力に加えて、益軒が儒学の研究のために福岡から江戸や京都に出かけた数十回に及ぶ日本全国の見聞や、花や野菜を自宅で栽培した経験、畠での圃菜(ほさい)、唐辛子などの観察経験が生かされていると推察される。このように、唐辛子は、紛れなく圃菜(ほさい)。だから「菜譜」(さいふ)が書かれた元禄の頃、真っ赤に実った番椒(たうがらし)が、畠を赤く染めていた?





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