
芭蕉像
【1690年(元禄 3年)】
近江国膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)に、無名庵という名の草庵がある。京都に接した琵琶湖のほとり、故郷の伊賀上野への地の利もよく、芭蕉は晩年には再三この地を訪れていたといわれる。時は元禄3年、「おくのほそ道」の旅を終えて伊賀上野に滞在。ここで俳事を重ね、「このたねと おもひこなさじ とうがらし」を詠んだのち、国分山「幻住庵」への3ケ月ほどの滞在を経て、膳所の無名庵を訪れ滞留していたといわれる。ここで作られたのが、とうがらしの句、3作目「草の戸を しれや穂蓼(ほだて)に 唐がらし」である。芭蕉が、穂蓼と唐辛子をモチーフに、草庵を訪ねてくる人びとに対して詠んだ一句である。「私の草庵は、庭に穂蓼が咲き、唐辛子が赤い実をつけているだけの寂しい佇まいであり、そんな草庵の様を知っていただきたい」(参照 松尾芭蕉集 校閲・訳者井本農一 堀信夫 村松友次 株式会社小学館)。野草の蓼は料理の褄や薬味として使われ、唐辛子と同様にピリッとした辛さが特徴。古びた草庵の庭に咲く赤い野草と唐辛子の組み合わせが、何かドラマを感じてしまいますね。ところで京都の周辺は、歴史的に唐辛子の名産地。明暦年間(1655年)に創業された七味唐辛子の3大老舗、京都・清水の「七味屋本舗」は寛文年間(1661年~1670年頃)になって、京都・伏見周辺で栽培されていた唐辛子を材料に使用した七味唐辛子を売り出したといわれる(参照 七味屋本舗、ホームページ)。この唐辛子と思われる記述が、江戸前期の俳人である松江重頼が刊行した俳諧作法書、「毛吹草」(けふきぐさ)である。この「毛吹草」には、俳諧に大切な季語、語彙、それに加え各地域の特徴を現わす諸国名物が編集されているが、この巻第4には、畿内・山城の古今名物として、唐菘(タウガラシ=トウガラシ)が挙げられており、伏見(山城)周辺では唐辛子の日本伝来後、いち早く唐辛子の栽培が始まっていたと思われる。「毛吹草」の刊行が、寛永15年(1638年)~正保2年(1645年)頃の話であり、その年代と唐辛子の栽培エリアから推測すると、元禄3年の秋、膳所(ぜぜ)の無名庵の庭に咲き誇っていたのは、内藤トウガラシ(八房)、鷹の爪と並ぶ唐辛子である、京都伝統野菜の伏見唐辛子の系統かと考えてしまうのである。芭蕉の句から、伝統野菜の歴史が見える? とうがらしの文化が見える?

伏見甘長唐辛子
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確な表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。