〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

「日本人は麺類を芥子や唐辛で食べる」宣教師ルイス・フロイスの本国ポルトガルへの書簡。伝来歴史早まる?

2010年08月17日 | 1500年~
        
                   七味とうがらし(薬研堀、所蔵)
  【1585年(天正13年)】
  鉄砲の伝来をもたらした、ポルトガル人の来航。この頃からヨーロッパの列強による大航海時代が始まっており、ポルトガル、スペイン、オランダなどの帆船が日本各地に寄航し始めたといわれる。この頃の主な来航者は、黄金の国「ジパング」を目指したヨーロッパ各国の貿易商や、キリスト教の伝道を目的とした宣教師たちであった。特に、室町時代末から安土桃山時代、江戸時代初期にかけて数多くの宣教師が来航したが、約30年間にわたる日本各地での布教活動を通じ、日本文化に精通した書簡を残したのが、日本歴史の教科書によく出てくる、あのルイス・フロイスである。彼は永禄6年(1563年)に来日以来、京都、堺、岐阜、長崎、豊後と、畿内や九州を中心に宣教に励んでいる。その間、京都・二条城で織田信長に会見、信長の庇護の下、天正4年(1576年)に南蛮寺と呼ばれるキリスト教会を建立するなど輝かしい足跡を残しているのである。ところが、それ以上に貴重な足跡がある。唐辛子に関する、書簡である。「フロイスの日本覚書」(松田毅一/E・ヨリッセン著 中央公論社 1983年)や、「ヨーロッパ文化と日本文化」(岡田章雄 訳注 岩波書店 1991年)、そして「キムチの文化史」(佐々木道雄 著 福村出版 2009年)などによると、当時のヨーロッパ文化と日本文化比較の中の第6章。日本人の食文化の中での麺類に関する、薬味比較である。「われわれは、砂糖や卵やシナモンを使って、それ(麺類)を食べる。彼らは芥子(からし)や唐辛をつかって食べる」。スパゲティやマカロニ VS うどんやそばであり、フロイスの観察によれば、この頃すでに唐辛(唐辛子)は、薬味として存在していたことになる。これを書いたのが天正13年(1585年6月14日 カズサにて)とされる。カズサとは加津佐(豊後)、その当時ルイス・フロイスが、巡察使ヴァリニャーノとともに駐留していた地である。また天正13年というと、譜代家臣、内藤家2代目清成(きよなり)が、家康から20万坪もの広大な下屋敷を拝領(現在の新宿御苑の地)した6年前のことである。
  この文化比較書簡には、もうひとつ興味深い項目が見られる。今度は、第9章。「われわれの薬味(香料)や薬は、乳鉢または搗臼(擂鉢)の中で搗き砕かれる。日本では、銅製の舟型容器の中で、両手に持った鉄の輪によって搗き砕かれる」。これこそ、薬研(やげん)である。中国で発明され日本には平安時代以降に伝来したといわれ、薬の原料を粉状に砕き漢方薬、生薬をつくる器具である。ここで語られている薬味とは恐らく薬の原料の方を差していると思われるが、その40年後に麺類の薬味である、山椒、胡麻、唐辛子も同じように薬研を使って粉末にされることになる。寛永2年(1625年)、「やげん堀」初代当主の「からしや徳右衛門」が、唐辛子をはじめ7種類の漢方素材を薬研を使って調合した七味唐辛子を開発。江戸の近世風俗誌、「守貞漫稿(喜多川守貞著)の中で、唐辛子売りの口上である、「入れますのは、江戸は内藤新宿八つ房が焼き唐辛子」と、江戸界隈で評判となったといわれるが、内藤とうがらし(八房系)を使った七味唐辛子が売り出される以前から、フロイスは薬味を粉末化する薬研の可能性に気付いていたのかも知れない。わざわざ「薬味(香料)」や「薬」と区分けして、並列に記載しているワケだから。それにしても、宣教師ルイス・フロイスの文化比較の書簡にある「麺類を、芥子(からし)や唐辛をつかって食べる」という一行は、重い。気になるのは、唐辛子が伝来した時期であり、唐辛子へのロマンは、尽きないのである。

              
                          八房とうがらし


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