〓〓〓  内藤トウガラ史  〓〓〓

ドラマもあれば、謎もある。トウガラシ・歴史年表。
by 赤井唐辛子(内藤新宿・八房とうがらし倶楽部)

「豆腐百珍」出版。この本がキッカケで始まった江戸時代の豆腐料理ブーム。唐辛子の果した役割は貴重である

2011年03月04日 | 1700年~
               
  
  【1782年(天明2年)】
  豆腐は中国が発祥といわれ、日本への伝来は、奈良時代もしくは平安の頃とされている。最初は僧侶の間で食されていた食材であったが、精進料理の広まりにつれ、江戸時代になると僧侶、貴族、武士階級が口にするようになったといわれている。ただ、一般庶民や農民にとっては、まだまだ贅沢品であり、富裕層の食べ物とされていたのである。ところが天明2年、突然、豆腐ブームが起こったのである。キッカケは、豆腐料理のガイドブックである「豆腐百珍」が、酔狂道人何必醇によって出版されたことによるのである。豆腐の料理100品の紹介とその料理法を紹介しているが、100品の豆腐料理を今でいうランク付けした点が人気の理由といわれ、6等級に分けて紹介されている(尋常品、通品、佳品、奇品、妙品、絶品)。とくに最上級にランキングされた絶品は、珍しさや盛り付けの美しさだけでなく、豆腐の持ち味を余すことなく引き出す味加減が、重要とされていたのである(豆腐百珍 著者 福田浩 他 株式会社新潮社 / 江戸時代料理本集成翻刻 吉井始子 株式会社臨川書店)。純白で、淡白な豆腐。その豆腐料理の薬味や味付け、そして彩りに、赤唐辛子、青唐辛子、粉唐辛子が使用されているメニューが100品中、8品登場しているのである。生の赤唐辛子や青唐辛子を小口切りしたり、ザク切りや針切りしたり、粉唐辛子を葱や大根おろしと一緒に薬味としたり、あるいは唐辛子味噌を田楽豆腐にまぶしたりと多彩に使用されているのである。江戸中期から後期にかけては町人文化の爛熟期といわれ、江戸固有の食文化が花開いた時代。代表的な料理としては、寿司、天ぷら、うなぎ、蕎麦あたりが思い浮かべられるが、思いがけず豆腐が庶民に広く親しまれていたことになる。しかも、豆腐料理としてのランク付けのうち、最上級の絶品は7品。そのうちの2品の薬味として、粉唐辛子が使用されている。ひとつは、「湯やっこ」。立方体(箱型)に切られた豆腐を葛湯であたため、醤油に葱、おろし大根、粉唐辛子といった薬味でいただく、シンプルな料理法。もうひとつが、「真のうどん豆腐」。湯をたぎらせた鍋にうどん形状に切られた豆腐を入れ、薬味でいただくもの。ザク切りの葱、大根おろし、それと粉唐辛子、陳皮(ちんぴ)、海苔、これを醤油と味醂のつけだれでいただくワケ(七色唐辛子みたいな調合)。このように豆腐料理が庶民一般に普及して、その薬味や調味料に唐辛子が使われていたことになる。酒屋へ3里、豆腐屋へ2里。当時、江戸市中には1000軒もの豆腐屋があったと推察されるが、蕎麦と唐辛子の関係のように、豆腐と唐辛子も、切っても切れない相乗作用で結ばれていたのかも知れない。
 



 ◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確

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「とん、とん、とんがらし、ひりりと辛いは・・・」。唐辛子の張子を背負った、粉唐辛子の行商が流行。

2010年10月08日 | 1700年~
           
              唐辛子粉売り 浅草雑芸団 上島敏昭氏
  【1751(宝暦元)~1771年(明和8年)頃】
  町人文化が花開き、消費の活発化とともに増え始めた行商人の多い江戸の町でも、唐辛子の行商人は、とくに目立った存在のようである。この頃に登場した粉唐辛子売りは、赤を基調とした衣裳で決め、大きく真っ赤な張子の唐辛子を担いで、口上とともに売り歩いたとされる。「とん、とん、とんがらし、ひりりと辛いは山椒の粉、すいすい辛いは胡椒の粉、芥子の粉、胡麻の粉、陳皮の粉、中でも良いのが娘の粉、居眠りするのは禿の粉、とん、とん、とんがらし・・・・・」。行商人の掛け声として江戸の辻々を賑わせているうち、唐辛子は人びとの身近な存在になっていったと推測されるのである。「とんがらし」と呼んだ誇張が印象深いが、数え歌でも同じ誇張がされている。それは羽根突き唄として日本全国で歌われ、地域によって唄の内容に違いが見られるのである。江戸近郊(東京・多摩東部)のものは、「とんがらし」バージョンである。「いちじく、にんじん、さんしょにしいたけ、牛蒡に蝋燭、七草白菜、胡瓜に、とんがらし」。唐辛子は、地方によって「こしょう」とか「南蛮」と呼ばれていることはよく知られているが、「とんがらし」という呼称というか、俗語も今だに顕在であり、東京近郊では戦後も長い間使われていたといわれている。このようにして、「とうがらし」を、「とんがらし」と呼んだだけで、言葉が独り歩きを始めたわけで、実に面白いものである。ところが、「とんがらし」の一人歩き、まだまだ終わらないのである。粉唐辛子の行商が流行し始めた、江戸時代の明和年間、甲州街道・日野宿に、「トンガラシ地蔵」が建立されている。幕末の志士、沖田総司が幼少時に頻繁に詣でた、唐辛子を供えると目の病が治るご利益があるといわれるが、江戸近郊の俗称である「とんがらし」で呼ばれていることで、お地蔵さんが身近に感じられるものである。江戸時代の生活文化情報誌である、喜多川守貞が江戸と上方を比較執筆した考証的随筆といわれる近世風俗志「守貞謾稿」(著者 喜多川守貞 校訂 宇佐美英機 岩波書店)に、「蕃椒(とうがらし)粉売り」という記述がある。「七味蕃椒と号して、陳皮・山椒・肉桂・黒胡麻・麻仁等を竹筒に納れ、鑿をもってこれを突き刻み売る」。粉唐辛子の振り売りの様子が、克明に描かれているが、同じ唐辛子の振り売りでも「生蕃椒売り」も、「守貞謾稿」に記述されていて興味深い。曰く、「とうがらしの根とともに抜きて、小農等売り巡る」、江戸近郊の農民が、江戸稼ぎで現金収入を得ていた様子が推察されるのである。おそらく品種は、「内藤とうがらし」。トウガラシは、小さなドラマの連続である。

          
                     日野宿。トンガラシ地蔵。

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貝原益軒が手がけた農書、「菜譜」(さいふ)が刊行される。益軒は、唐辛子を畠で観察していた?

2010年06月02日 | 1700年~
         
                   「甲州街道筋の内藤とうがらし(八房系)」            

  【1714年(正徳 4年)】
  日本古来の原種は、数えるほどの、いわゆる野菜類。奈良時代に中国から野菜の栽培が伝わったあと、大航海時代の戦国時代から江戸時代初期にかけては、アジアから、ヨーロッパから、新野菜が続々と伝来したといわれている。人見必大が30年以上の歳月を費やして書き上げた「本朝食鑑」や、日本3大農学者の一人である宮崎安貞の農業指導書「農業全書」、そして「養生訓」と並ぶ貝原益軒の代表作とされる「大和本草」をはじめとした本草書や農書に、こういった野菜(菜)の種類・分類・栽培法の解説が見られる。それぞれが、そうそうたる定評が築かれた書物だけに、「菜譜」の存在は、やや希薄に見られがちといわれる。ところが、この農書は、広く一般庶民に分かりやすいように平易な文章と、栽培に関する実用的な内容で構成されており、さらに江戸時代初期から中期にかけて、どういった種類の野菜が存在したかを知るうえでは、かなり貴重な文献と思われるのである。貝原益軒が書き上げた花譜・菜譜(筑波常治・解説、八坂書房・発行 昭和48年)に目を通していくと、菜譜には136種類の野菜(菜)が10区分されており、生育の方法と食べる部位によって仕分けられている。人が手をかけて畠で栽培されるのが圃菜(ほさい)、野原に生えている食べられる菜が「野菜」、山で採れるから「山菜」、水辺で採れるから「水菜」といった具合に、生育の場所に菜(な)がついて区分けされているわけで、別の見方をすれば、畠で栽培される菜(な)と、野生の菜(な)の2つに大きくグルーピング整理されているのである。文化の爛熟と農業の発展が見られた元禄の頃ではあるが、まだまだ圃菜(ほさい)より野生の菜(な)の方が多かったのかも知れないのである。
  今から約400年まえの江戸時代初期前後に伝来した新野菜のひとつである唐辛子は、「菜譜」(さいふ)に記された貝原益軒のグルーピングでは、番椒(たうがらし)として、圃菜(ほさい)に分類されている。野に生える野生の「菜」(な)ではなく、畠で丁寧に手をかけられ、生育されている圃菜(ほさい)というわけである。同じように、この圃菜(ほさい)に区分けされているのは、日本原産のだいこん、かぶらな、せりにんじん、ねぎ、それと、香辛菜のにら、にんにく、らっきょう、はっか、わさび、たうがらし、などなど。これらの区分けに関しては、博物学者としての知識と観察力に加えて、益軒が儒学の研究のために福岡から江戸や京都に出かけた数十回に及ぶ日本全国の見聞や、花や野菜を自宅で栽培した経験、畠での圃菜(ほさい)、唐辛子などの観察経験が生かされていると推察される。このように、唐辛子は、紛れなく圃菜(ほさい)。だから「菜譜」(さいふ)が書かれた元禄の頃、真っ赤に実った番椒(たうがらし)が、畠を赤く染めていた?





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正行寺「とうがらし地蔵」建立。唐辛子を供えるのは、「覚宝院」が自らの坐像を彫って安置した歴史に由来。

2010年04月21日 | 1700年~
         
                        正行寺、とうがらし地蔵
  【1702年(元禄15年)】
  内藤新宿を起点とした街道沿いの「とうがらし地蔵」ではなく、それと同じ時代に建立された「とうがらし地蔵」は他の街道筋でも見ることができる。江戸日本橋から中山道を1里、歴代将軍が東照宮への社参に利用した日光御成道(にっこうおなりみち)との分岐点となっている本郷追分に、正行寺(現・文京区)の「とうがらし地蔵」はある。寺の入口にあたる街道脇には立て札があり、「とうがらし地蔵」についての由来が書かれている。寺に伝わる元文3年(1738年)の文書によると、元禄15年(1702年)に僧の覚宝院(かくほういん)が、人びとの諸願成就を願うとともに咳の病を癒すため、自ら座禅姿の石像を刻み寺に安置したとされる。この座禅姿の覚宝院の石像が「とうがらし地蔵」と呼ばれるのは、「覚宝院」が「とうがらし酒」を好んだことに由来しており、人びとは唐辛子を供え諸願成就を願っていたとされる。覚宝院が「とうがらし酒」をこよなく愛し、また願かけに唐辛子が供え始められた元禄の頃は、数々の農業指導書が書かれた時代であり、唐辛子に関する情報も広く一般的になってきたと推察される。医師の人見必大による「本朝食鑑」や、江戸期の3大農学者のひとりである宮崎安貞が執筆した「農業全書」が出版されたのが元禄10年(1697年)、その数年後には貝原益軒が「菜譜」や「大和本草」の執筆を始めており、すぐれた農業指導書の登場により唐辛子の栽培は盛んになっていったと考えられる。それだけ身近な存在になった唐辛子は、地蔵に供える機会も増えるというものである。武蔵国村明細帳集成(天明8年/1788年)によると、正行寺の「とうがらし地蔵」のある本郷追分から日光御成道を4つ、岩槻宿の手前の大門宿の名産品として唐がらしが挙げられている。そうなると、甲州街道と同じように唐辛子が街道を行き来した? それは、内藤トウガラシ(八つ房)? それとも、日光唐辛子?思いをめぐらすと、話は尽きない。
  ところで覚宝院の座禅像に関しては、江戸中期の地誌として社寺・名所の来歴を記した「江戸砂子」(えどすなご)にひとつの記述が見られるという。曰く、「当寺境内に浅草寺久米平内(くめへいない)のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり」。江戸前期の剣の達人であった久米平内は、多くの人の命を奪った供養のために、自らが禅に打ち込む「仁王座禅」の姿を石に刻ませ、浅草寺に久米平内堂(くめのへいないどう)として祀ったとされる。これと同様の「仁王座禅」の相ということである。それぞれの石像に対する動機は違っても、禅に打ち込む真摯な思いは、平内も覚宝院も共通するものがあったのであろうか。また、正行寺の「とうがらし地蔵」の表情というか、顔つきが、内藤新宿から甲州街道を下った街道沿いに建立された「とうがらし地蔵」の表情と、かなり違いが見られる理由も、この辺にある? 八王子・禅東院の「とうがらし地蔵」、日野の「トンガラシ(ヤンメ)地蔵」、原小宮の「蕃椒(とうがらし)地蔵尊」、そして正行寺の「とうがらし地蔵」、それぞれの表情には、それぞれの建立背景が秘められているように思われるのである。

              
                         正行寺、地蔵堂


        
                            正行寺


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内藤新宿、宿場再開。大繁昌の宿場には瓜(うり)、落蘇(なすび)、八房(ヤツブサ)唐辛子問屋があった?

2010年04月13日 | 1700年~
   
                            太宗寺
  【1772年(安永元年)】
  江戸が発展するにつれて、大消費地である江戸への物流を担う産業道路として甲州街道や青梅街道の人馬の通行が増え、内藤新宿は伝馬宿としての再開が望まれていた。神田・雉子(きじ)町名主の斉藤月岑(げっしん)が、徳川家康の入国した天正18年(1590年) から300年に及ぶ、江戸と近郊の様々な事象・事柄を記述。考証の正確さで定評を得た武江年表に、次のようにある。安永元年壬辰(みずのえたつ)四月。「四谷内藤新宿駅舎再興御免あり。甲州道中人馬継立の所となりて繁昌せり。・・・・・明和九年願ひ出るもの有 て、又古来の通りハタゴヤ五十二軒、飯盛り女百五十人出来たりとぞ」(斉藤月岑著 金子光晴校注 「武江年表」1~2 東洋文庫 株式会社 平凡社 1968年)。宿場再開と同時に賑わいを見せた旅籠屋や茶屋の存在が、内藤新宿の繁栄を支えたひとつの要因とも いわれているが、とくに宿場の重要な機能である人や荷物の継立を行った問屋に、人馬が集まったわけである。再開の翌年に出版された洒落本「当世気転草(きどりぐさ)」に、それを裏付ける記述がある。「糞培馬(こへつけば)と、瓜や落蘇(なすび)の問屋なり」、である。ここから推測すると、すでに当時、野菜類を取り扱う問屋があったと推察されている(図録「内藤新宿 くらしが創る歴史と文化」、新宿区立新宿歴史博物館編集、新宿区教育委員会 /児玉幸多監修 「江戸四宿」 江戸四宿実行委員会編集発行)。また、文化爛熟期を迎えるこの頃からは江戸固有の文芸活動のひとつとして隆盛を見せてきた、川柳にも宿場や問屋場の様子が描かれているのである。しかも、内藤新宿の名産品であった内藤トウガラシ(八房トウガラシ)が主題となっている川柳が見られるのが特徴。「四ッ谷の八ッ房、日光へ歩に取られ」。あるいは、「八ッ房つけて内藤の駒は出る」など。前者は、日光紫蘇巻き唐辛子の原料として運ばれてしまった八房唐辛子。後者の意味は、八房唐辛子を荷につけて内藤新宿を出発する駄馬の様子と解釈されている(川柳江戸名所図会 至文堂 昭和45年)。内藤家の下屋敷とその周辺で栽培され、江戸市中と内藤新宿の都市化によって街道を下って近郊農村で栽培が行われたといわれる、内藤トウガラシ(八房)。 江戸の昔から、街道は、人を運び、物を運び、情報を運ぶ。そのハブ機能を果たしたのが宿場であり、問屋であった。その点、ハブ機能を備えた内藤新宿は、内藤トウガラシ(八房)の伝播に重要な存在だったと思われる。

            新宿御苑、玉川上水あと
            

            大木戸石碑
            




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