大名の登城は年30回程度で、月2回の月次登場{朔(陰暦の1日)」と
「望(陰暦の15日」、正月・5節句・家康の命日である4月17日の
登城が義務付けられていました。
江戸城に入るには大手門と内桜田門(桔梗門)から入場し供ぞろえを
11名~13名に減らされ、それ以外の供の者は大名が戻るまで待た
ねばなりませんでした。
「下馬評」は、城や社寺の門前で馬を下りなければ ならない場所
下馬先で城内や社寺に入った主人を待ちながら、 お供の者が噂や
評判を交わしていたことから、「下馬評」と言われるようになった。
江戸城の下馬先は、大名数は260~270、供ぞろえは数十人~
数百人。下馬門(大手門・桔梗門)前の広場で藩主の帰りを待つ人数
は大雑把に計算すると270×100人=2,700になります。
この大人数の家来衆同志が情報交換を行っていました。
桔梗濠
桔梗門(内桜田門)から大手門までのお濠
大手濠
大手門から平川門へつづくお濠
枡形門
大手門は藤堂高虎建設しました、高虎が愛媛県の今治城で完成させた鉄壁
の守りをほこる枡形門になっています。
枡形門とは防備のための二重の門で、比較的小さい最初の門(高麗門と
いいます)をくぐると、石垣に囲まれた方形の空き地があり、右手に第二
の門があります。このため城内に侵入しようとする敵勢は直進できないように
なっています。第二の門は渡櫓があり、ここから弓や鉄砲で敵を殲滅します。
しかも、外部からは枡形の中が見えにくいため、敵の後続部隊からは門内で
何が起きているか分からないようにもなっています。
江戸城大手門は鉄砲30丁、弓10、長柄20と言われています。
セキュリティチェック
持ち物検査があり入場カードを受け取ります、カードは退場時に返却
します。列の7割は海外からのお客さまでした。
高麗門
枡形
大手門
「望(陰暦の15日」、正月・5節句・家康の命日である4月17日の
登城が義務付けられていました。
江戸城に入るには大手門と内桜田門(桔梗門)から入場し供ぞろえを
11名~13名に減らされ、それ以外の供の者は大名が戻るまで待た
ねばなりませんでした。
「下馬評」は、城や社寺の門前で馬を下りなければ ならない場所
下馬先で城内や社寺に入った主人を待ちながら、 お供の者が噂や
評判を交わしていたことから、「下馬評」と言われるようになった。
江戸城の下馬先は、大名数は260~270、供ぞろえは数十人~
数百人。下馬門(大手門・桔梗門)前の広場で藩主の帰りを待つ人数
は大雑把に計算すると270×100人=2,700になります。
この大人数の家来衆同志が情報交換を行っていました。
桔梗濠
桔梗門(内桜田門)から大手門までのお濠
大手濠
大手門から平川門へつづくお濠
枡形門
大手門は藤堂高虎建設しました、高虎が愛媛県の今治城で完成させた鉄壁
の守りをほこる枡形門になっています。
枡形門とは防備のための二重の門で、比較的小さい最初の門(高麗門と
いいます)をくぐると、石垣に囲まれた方形の空き地があり、右手に第二
の門があります。このため城内に侵入しようとする敵勢は直進できないように
なっています。第二の門は渡櫓があり、ここから弓や鉄砲で敵を殲滅します。
しかも、外部からは枡形の中が見えにくいため、敵の後続部隊からは門内で
何が起きているか分からないようにもなっています。
江戸城大手門は鉄砲30丁、弓10、長柄20と言われています。
セキュリティチェック
持ち物検査があり入場カードを受け取ります、カードは退場時に返却
します。列の7割は海外からのお客さまでした。
高麗門
枡形
大手門