凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも高市皇子が即位していたら

2006年10月17日 | 歴史「if」
 長屋王そして高市皇子についてずっと書きたいと思っていたのだが書けずにいた。
 何故ならば、この時代に「if」が成立しないからだ。それほど藤原不比等が描いた歴史図会というものが完璧で、なかなか「もしもあのときこうしていたら…」という歴史のパラレルワールドが思いつかない。
 しかしながら、書きたいことがたまっているので書いてしまうことにする。それは一片の「木簡」についてである。

 「長屋親王宮鮑大贄十編」

 長屋王の邸宅とされる場所から発掘された木簡にはこのように記されている。
 長屋王は高市皇子(天武天皇第一皇子)の長男である。天武天皇薨去の後は皇后であった鵜野皇女が持統天皇となり、その後は持統の直系の孫である文武が即位しているので、高市皇子は天皇になっていない。従って律令によって長屋は「王」であるのだが、発掘された木簡には「親王」ということになっている。
 親王とは、基本的には天皇の子供で男子を指す言葉である。これはおかしい。
 これについては諸説ある。これについてはjasminteaさんの歴史探訪の記事に詳しい。
 かいつまんで簡単に言うと、
①木簡は宅配便の送り状みたいなもので、「親王」と記されていても史実かどうか信用できない。
②特別扱いで「親王」の称号を得ただけ。「親王待遇」という意味。
③高市皇子は実は皇太子であって、長屋王は皇孫男子であり「親王宣下」を受けていた。
④高市皇子は実は即位していた。なので高市天皇の皇子の長屋は「親王」である。
 これらのことが考えられる。

 正史にはもちろん高市天皇も長屋親王も登場しない。なので考えられるのは①か②であるのだが、これは正史が絶対に正しいという前提である。ところがこの正史というやつがどうも怪しい。どう怪しいかは書くと長くなるので省略するが、為政者は自分の都合のいいように歴史書を編む、ということを前提として考えなければいけないということに止めておく。

 そもそも高市皇子とはどういう人物か。
 高市皇子は天武朝発足の第一功労者と言っていい。天武が即位出来たのはもちろん「壬申の乱」に勝利したからであるが、そのとき天武軍を全軍指揮し近江軍を打ち破った将軍である。しかも天武の第一皇子。普通に考えれば天武朝の後継者としては№1であり、当然次期天皇のはずだが、何故か№3の位置に留め置かれる。
 この説明として、高市皇子の出自から普通は説明がなされる。高市皇子の母は胸形君徳善の娘の尼子娘である。胸形(宗像)氏は九州、特に北九州の海域を支配した大豪族であるが、天智天皇の娘である大田皇女(大津皇子の母)、鵜野皇女(草壁皇子の母)に比べて劣るため、草壁№1、大津№2とされた。大田皇女は鵜野の姉だが早逝したため鵜野皇女の力が強く、三男である草壁皇子が後継とされたという。
 素人が考えれば不自然だ。天智の娘で天武の妻はまだ大江皇女や新田部皇女がおり、その子に長皇子や弓削皇子、舎人皇子もいる。年齢のこともあってこれらの皇子の序列が下がるのもわかるが、非常に恣意的であるとも言える。この序列は、鵜野皇女(後の持統)にとって実に都合がいいように仕上がっている。
 草壁皇子が立太子したのは天武の在命中のこととされている。そこまで鵜野皇女の力は強かったのだろうか。彼女の立場は、天武と敵対していた天智の娘であり、異母弟は壬申の乱の敵方大将であった大友皇子。独裁者的権勢を振るったとされる天武が、そこまで天智天皇の血に気を遣うだろうか。倒したとはいえ天智朝の残党はあちこちに居る。天智の血を引く皇子たちをそこまで厚遇することは、逆に危険ではなかったのだろうか。
 これについてはもちろんしっかりとした説明もなされている。が、どうも腑に落ちない部分もある。
 天智の血を引いていることがまず皇継の条件であったとも言われる。これを疑う人はあまり居ないが、壬申の乱の原因が何であったかを考えればどうもおかしい。これは大海人皇子が私利私欲で皇位に就きたくて起こした内乱ではない、と言われている。白村江の戦いによる負担の増大。そして大敗による防衛のための城郭その他建築の負担。近江遷都に対する負担と不満。大化の改新政策による公地公民で私有地を献上させられた不満。地方豪族の軽視。そういったものが鬱積して「錦の御旗」をもって天武は立ち上がったとされる。
 ということは単純に図式化すれば、天武が善で天智(近江朝)が悪だ。こうであれば、その天智の娘であるところの鵜野皇女などは、いくら天武に従って近江朝を倒したとしても、一段引き下がらなければいけない立場ではないのか。
 天武は天智の弟であるので、結局これは身内の戦いであって鵜野皇女が引け目を感ずる部分はないと考えられるかもしれないが、これはかなり大きな内乱だった。地方豪族を巻き込んだ天武としては、天智の血を濃く残すことは「反天智」の立場として豪族の協力を得た手前まずいのではなかったのだろうか。
 こんな場合は普通の考えでいけば、天智の孫にあたる草壁皇子や大津皇子を推すよりも、地方豪族でありおそらく壬申の乱にも功績があった宗像氏の血を引く高市皇子を後継とした方が一新イメージが強いように思うのだが。
 出自の点でいけば前天皇の弘文(大友皇子)などは母が采女であるのに即位できたとも言われる(少なくとも後継者だったことは間違いない)。ましてや宗像氏は、天武に強い助力をしたと考えられる海人氏(壬申の乱に最大級の活躍をした尾張氏と同族とも。大海人皇子の海人である)との深い繋がりも推定されている。
 また、天武と天智は血縁関係がなかった、とも言われ簒奪王朝である天武は天智の血が正当化には必要だった、とも言われるが(僕も兄弟ではなかったと思っているが)、そうであればそれは正史を疑ってかからなければならない立場である。であれば「日本書紀」「続日本紀」の記述よりも、一次史料である木簡の方を優先して論じなければならない。
 その木簡には「長屋親王」と書かれていたのだ。

 「長屋親王」である以上、やはり高市皇子は即位していたのではないか。そして、正史はそれを覆い隠したのではないか。僕は(あくまで僕は、だが)十分考えられる事だと思う。その他の理由で親王宣下されたのであれば正史はそう書くだろう。「高市皇太子」も考えられなくはないが、それでも正史は隠し事をしていることになる。
 しかし木簡では史料としては弱いかなあ。陵墓発掘、墓誌発見でもないと正史はくつがえらないであろうから。

 さて、高市皇子が即位したとすればそれはいつか。
 壬申の乱の大活躍以来、高市皇子は書紀から姿が乏しくなる。天武五年に「癸卯 高市皇子以下小錦以上太夫等賜衣、褲、褶、腰帶、腳帶及机、杖 唯小僅三階不賜机」との文言が見え、これだけで見ると臣下としてトップの位置にいるようにも見える。ただ、草壁、大津皇子は別枠だったとも考えられるため皇族トップであったかどうかはわからない。
 天武八年に有名な「吉野の盟約」がある。鵜野皇后以下、草壁、大津、高市、河島、忍壁、芝基皇子が「お互い助け合うように」と誓い合ったとされるが、ここでは序列は三番目になっている。なお、この皇子6人の中に河島、芝基皇子が何故入っているのか。彼らは天智の息子である。解せない。
 天武は686年に崩御する。その後正史では、草壁皇子が5年前から皇太子であるはずにもかかわらず、3年ほど天皇位は空位だったとされている。
 これについても様々な説明はなされているが、実に不自然である。とっとと即位すればいいのに。天武崩御の翌月に大津皇子が謀反の罪で処刑されている。草壁最大のライバルであり鵜野皇后がやったこととされるが、草壁が即位していればそんなに直ぐに排除の動きをせずともいいのに。
 やはりこの時、草壁はまだ立太子していなかったのではないか。
 正史解釈では、この大津排除の風当たりも強く草壁は皇太子のままなかなか即位できなかったことになる。草壁が皇太子であるのなら、先に即位してしまえばいいのだ。なのにそうせず時間が経過し、そして草壁は結局、即位することなく早世してしまう。
 正史では草壁の死を受けて、鵜野皇后は草壁の子(つまり孫。軽皇子)に皇位継承させる方向に動き、しかしまだ幼いので自らが即位し(690年)持統天皇となったとされる。
 高市皇子はどうしていたのか。正史では、この持統即位に伴って太政大臣に任命されて、696年に亡くなるまで臣下トップとして持統政権を支えたということである。

 鵜野皇后(持統天皇)の力のバックボーンはどこにあるのか。皇女が力を持つのはその実家の影響力であることが多いが、父は天智であるからもう滅びている。が、母方の実家は蘇我氏である。蘇我は蝦夷・入鹿事件の後もまだまだ力を持っていたとは思われるが、それでも当時の天武より力が上であったとは思えない。力が発揮できたのはやはり天武死後ではあるまいか。
 となれば、天武在世中に立太子したのは草壁皇子ではなく、天武の信任厚い高市皇子だったのではないか。そして、天武崩御とともに即位していたのではなかったのか。
 もちろんこれは想像である。妄想と言ってもいいかもしれない。この時点で即位していたのであれば在位10年にも及ぶ。いかに古代とは言え、在位10年の天皇の事跡が全く消えているということはちょっと考えにくいからだ。もう少し短く、正史で言う高市が太政大臣になったとされる690年に即位、という考え方もある。では何故、高市皇太子であったなら天武崩御と共に即位出来なかったかがよくわからない。鵜野皇后が力を蓄える以前の方が即位しやすかったのではとも考えられるからである。
 むしろ、690年に高市は譲位したのではないか。
 天武崩御の686年、高市皇子は皇位に就く(正史では鵜野皇后称制時代とされる)。しかしその後には草壁皇子という規定路線が出来ていた。まず鵜野皇后は大津皇子を粛清した。力を蓄える鵜野皇后は高市にも譲位を迫った可能性がある。強い後ろ盾を持たない高市は草壁に皇位継承をして太上天皇(上皇)となることにした。しかし草壁はその時点で早世してしまう。
 どうしても高市長期政権を望まなかった鵜野皇后は、それでも草壁の遺子で自らの孫である軽皇子路線にしたかった為に草壁のかわりに即位。この時点で高市は太上天皇となった。実は太政大臣ではなく太上天皇ではなかったのか。

 この皇位継承は相当不自然である。義理ではあるが息子から母への皇位継承とは。しかし、すぐその後の時代にも同例のことはある。文武から元明への継承。そして、元正天皇を挟んで孫(聖武)への継承である。この奈良時代の皇位継承の不自然さの先鞭であったのかもしれない。
 しかしながら、高市は没したわけでもない。この場合は持統が皇位を奪い取ったことになる。相当にえげつないこともあったのではないか。なので正史には書き残せなかったのではないかと思っている。正史には高市皇子が亡くなったとき「庚戌、後皇子尊薨」と記されている。後皇子尊とは何か。それは、前に天皇であった高市がその後には一皇子に戻ってしまったことを指すのではないのか。「前天皇後皇子尊」である。こんな解釈をしている人は居ないと思うけれども。
 正史は、この後藤原不比等が日本書紀を編み、高市即位を包み隠して、アマテラス神話によって女帝から皇孫への継承を正当化した。高市が即位したという足跡は全く無い。わずかに「木簡」がその可能性を語るのみである。
 話が長くなったが、この話の「if」は結局成立しない。高市皇子が即位していようがしていまいが、歴史には全く変化がないからである。

 書ききれなかったことは次回

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21 コメント

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リンク&TBありがとうございます (jasmintea)
2006-10-18 23:13:17
どこから書こうか迷ってしまいます!

えっとまず大江皇女は母が宮人(采女より下)新田部皇女は阿倍氏の娘ですから蘇我系の鵜野よりは下、と思うのですが最近はそういう考え方が不比等に侵略されている?なんて思っています

天武崩御後の鵜野の捉え方にはまったく同感です!

最近は天武は吉野の盟約のあとやはり後継は大津、と決めたのではないかと思っています。

姉に会いに行ったのではなく伊勢や東国の豪族の賛同を得て挙兵するつもりだったのに東国への道は鵜野によって封じられた、もし高市が天皇だったらこの大津の行動は説明がつかないような気がするのですが、ほぼ凛太郎さんと同じ理由で高市天皇説をとる私ですが高市がいつ、どんなシュチェーションで即位したのかはまだ絵が描けません。

しかし、「後皇子尊」のお話は面白いですね~!

そういう解釈もできるんだ!と、ビックリしました。



勝手な思い込みで突っ走る私には長屋が無実の罪で殺されたこと、長屋の妻の系譜を見れば高市は天皇しかないでしょ!と単純に思っています。



昨日upしましたが私も奈良時代のまとめ、って形で今までの総集編的に書いてみようと思っています。

お互いどんな風に仕上がるでしょうかね?

これからのお話を楽しみにしています
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>jasminteaさん  (凛太郎)
2006-10-19 22:56:05
長いの読んでいただいてホント恐縮です(汗)。

この話は、真面目に書いていますけれども内容となるとさほど自信が…。想像がほとんどですからねぇ。

結局、「太政大臣→太上天皇」とか「前天皇後皇子尊」とかの、ダジャレみたいな思い付きから発展していますから。ごめんなさい。



大江皇女、新田部皇女については書いてみただけで、皇子の年齢からもまだ対抗できる立場にはなかったと思います。それと、おっしゃるとおり出自もありますね。ご指摘多謝です。

大津はねぇ…。僕も大伯皇女だけが目的じゃなかったと思いますよ。高市が天皇だったら説明はつかない、と言われるのはもっとも。でもね、僕はまだ新羅スパイ説が引っかかっているのですよ。ここでは書きませんでしたが、大津がああなったのは皇位継承問題だけではなかったのではと思ったりもしています。九州生まれの大津皇子。謎が多いですよね。

高市が即位するとなれば、やっぱり早い時期の方がやりやすい。jasminteaさんの太政大臣=皇位の時期というのも頷けるのですがねー。なんで称制の時期があんなにあるのか、というのも引っかかるのです。草壁が早く即位しちゃえばいいのに。いろいろわかんないことが多いですわね。
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新羅スパイ説… (jasmintea)
2006-10-20 12:29:10
私は以前「難波宮」で書いた大津皇子政権樹立の小説って理に合ってると思っています。

裏づけナシに発想だけを広げてしまえば百済系VS新羅系の代理戦争みたいな形も想像できちゃって妄想の翼は果てしなく~♪なんて、なってしまうのですがそこから考えが出発すると奈良時代の政争もうなづけたりするのがミソですよね
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>jasminteaさん  (凛太郎)
2006-10-20 21:49:27
僕はその小説を読んでいないのでjasminさんの抜粋で知るのみですが、面白いですねー。

かつて蘇我さんは、特定の国に偏らない外交をしていたと思うのですが、こうも国際情勢が変わると「Show the flag」みたいなことも出てきてしまいます。その揺れがいろいろなことをこの時期生んだように思えるのですが。

天武はどこまで親新羅路線を望んでいたのでしょうか。天智は百済一辺倒ですが、天武はもう少し自国の利益も考えていたとも思えます。対百済路線から新羅朝みたいに僕も書きますけどね。大津はちょっと傾きすぎだったのかもと思えるのですよ。想像ですけれどもね。

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こんばんは! (jasmintea)
2007-06-03 20:56:32
事後承諾になって申し訳ありませんがリンク&TBさせて頂きました。
今まで高市天皇説は持統天皇在位期間と重なる、と思っていましたがその始まりは持統天皇称制の時期と重なる、と軌道修正しました。
二朝並立説を書きたい!と思ってからかなりいろいろ調べ考えてみましたが今日書いた視点が一番妥当かな、と思いまして。
結果的にそれまでの自分の説と変わって始まりにおいて凛太郎さんと同じになったのでちゃんとお断りをしなくては、と今日記事にあげました。
一応これでプロットが安定したのでバンバン書いていこうと思っています。
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>jasminteaさん (凛太郎)
2007-06-04 21:54:55
ご丁寧にありがとうございます。

高市天皇につきましては、これはもう僕の場合本当に深い考えなどないのです。それは本文を読んでいただければお分かりのことです。
jasminteaさんの考察されておられるような道順も踏んでおらず、最初にまず「長屋親王」から導き出される「高市は天皇になっているはずだ」という前提(決め付け)がありまして、そこから「どう考えれば自然か」だけを考えつつ史料にあたり、高市に皇位継承があるとすれば天武在位時に道筋が出来ていないと不自然だ、との考えからこのような結論になっただけです。それと、在位10年はさすがに覆い隠せるものでもないだろうということと「後皇子尊薨」の自分勝手な解釈(これはずいぶん以前から考えていました)で、譲位ということを推測したのです。したがって、これには決め手がありません。続日本紀の読み込みもjasminteaさんとは比べ物にならないと思っています。

僕の出した結論には、思いつきにしては自負もあるのですが、実は穴もあります。それはもうお気づきかと思いますが、その部分をどうクリアするかが考えどころですよね。あとはそちらでコメント致します(汗)。
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二朝鼎立はロマンが有りますね (Kenneth)
2012-09-25 14:50:00
二朝鼎立論にはロマンが有りますね。
私は聖武帝辺りまで明確に時には潜在的に、ともかく、かなりの頻度で二朝は鼎立していたと思っています。
古代は色々有りますが、聖徳太子の朝廷と推古帝の朝廷から鼎立が伺えます。(私は蘇我入鹿=聖徳太子説を採る味方なので)天武帝朝(出雲・蘇我系)と天智帝朝は、例えるなら時代は下りますが足利、南北朝時代の様に時は一統し、時には対立しながら、日本全体を運営していたと考えています。
最終的には天智帝系が生き残った為、彼の系統の帝、蘇我入鹿や高市皇子の即位が確認できなくなったと思ってます。
高市皇子の即位後十数年持続したと言っても統一朝ではなく、両朝鼎立で高市皇子が持統帝に譲位する形で一統し、その後に事績を書きかえれば済む話だと思ってます。
これも、南北朝時代の例ですが、後南朝時の皇子たちは即位式自体はしていたようですが、その事績、確定した墓などほとんどわからなくなっています。

ちょっと飛躍しすぎでしょうか?
返信する
>Kennethさん (凛太郎)
2012-09-27 06:20:11
いえいえ、飛躍しすぎと言えば当方も飛躍しすぎで(汗)、こんな古い話はどのみち想像するしかないわけですから。ときの正史を疑ってしまう以上は、どういう結論が出ようが何とも言えないわけです。ロマンがあるとすれば、その想像の余地がかなり多くある、ということですねぇ。
二朝並立、もしくは三朝鼎立というのは、やっぱり古代には可能性があったとは思うのですよ。葛城王朝と三輪王朝まで話を戻さずとも、欽明天皇はやっぱりあやしい(笑)。現天皇に連なる王朝は、やはり確立したのは桓武ではないのか、という思いが捨て切れません。
この舒明・天智朝と天武・高市朝については、のちに傍証として古事記と書紀の関係性について書いています。正史がふたつあるのはやはりニ朝があった証拠ではないか、という話ですが。
返信する
持統の真相 (isiyama)
2013-04-11 06:58:30
光明 聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、阿倍内親王を出産。神亀4年(727年)、基王を生む。神亀5年(728年)、皇太子に立てられた基王が夭折、長屋王を排除、天平元年(729年)に皇后の詔。娘である阿倍内親王の立太子、孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈られた。この流れを見ますと、持統はこれを正当化するための、この反映として作られたのではないでしょうか。
返信する
>isiyamaさん (凛太郎)
2013-04-12 06:10:49
ううむ、読解力が足らないせいか解釈が難しいですね(汗)。
つまり、持統天皇の称制、即位という事績は、光明子が皇后、皇太后に就き、紫微中台を置いたことを正当化するために創作された、と。
日本書紀の成立が720年ですから(それは正しいと思っています)、編纂時期を考えますと、光明子は聖武即位以前からその正当化を狙っていたことになります。うーん難しい。
曲解していたらごめんなさい(汗)。
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