ブログをカスタマイズして、タイトルバックにひまわりの花を持ってきた。
こんなふうに書き出して、今後またタイトルバックを架け替えてしまうとたちまちこの記事は古びてしまうのだけれど、まあこれは2006/2/13時点のことだと断っておく。
花なんていうのは誠に僕らしくない。僕は哀しいかな実に殺風景な人間だということは自覚している。普段まわりに全然装飾が無い。もう少し潤いを求めたらどうか、とはよく言われるのだけれども、机周りにも車にも装飾品らしきものは全然無い。これは自分のセンスの無さを自覚していて、ヘタに飾り付けるとゴタゴタになってしまうことを危惧して何も置かないのだけれど、飾り付けなくても平気、というのはやはり殺風景な人間なのだろう。
それはブログにも反映されていて、画像のひとつも記事に載せることはない。載せる手段を持っていない(デジカメも携帯写メールも持たず、スキャナもない)からだけれども、載せたいと本当に思うならそれらをもう導入しているだろう。そもそも、潤いのない人間なのだ。
そのことは僕の大好きな旅行にもやはり反映されている。
僕は、神社仏閣が好きでよく出かけるけれども、「花の時期」となるとつい出かけるのをためらう。「紫陽花が今盛りです」「牡丹が咲き乱れています」と言われると、その時期はおそらく人でごった返しているのだろうと想像し、「侘び寂び」を求めたい僕は二の足を踏む。花の名所と言われるところに季節をずらして出かけるという意味の無い行動をよくやる。
しかしながら、妻は「そういう時でないと行く価値がない」という。妻はもちろん仏像にも歴史にもさほど興味がないので、対象物にはまず「美しさ」を求める。そうなるとやはり「花が咲く頃」を選んで行きたいと言う。なのでいつも喧嘩である。
殺風景な環境に育ったわけではない。僕の両親は植物が大好きで、実家の庭にはいつも花が何かしら咲いていた。結構丹精込めている。母親はそれでも飽き足らずアートフラワーも作る。それなのに僕はなんでこんな人間に育ってしまったのかはわからないのだが、別に花が嫌いというわけではない。ただ、重きを置いていないだけである、と自分では思っている。
うちの妻は、僕とは全く逆に、花を最重要している人間である。なので、喧嘩しながらも時々は花を見に出かけるようになった。そうやって考えたら、最初に書いたことと異なるようだが、僕にも幾ばくかの花についての思い出も甦ってきた。一面に広がるひまわり畑はその中のひとつである。
まだ結婚する前の話。
僕は学生の頃から、毎年夏になると北海道に出かけていた。北海道が好きになったのは学生の頃の自転車旅行がきっかけであるので、社会人になって少ししか休みが取れなくても、自転車を畳んで持っていって現地で組み立て、北の大地を走り回ってはひととき青春気分に浸って日頃の心の垢を洗い流すのを常としていた。
ところがある年の春に、ちょっとした事故で首を痛めてしまった僕は自転車に乗れなくなった。でも北海道には行きたいので、フェリーで車を航送して旅行することにした。
その時に、なんとなしに付き合っていた女性も夏に北海道に行くと言うので、
「僕は今年は車を持ち込むけれども、乗る?」
と聞くと、北海道旅行は足がないと不便なので同乗したい、とのこと。なので現地で待ち合わせることにした。一人旅ばかりしてきた僕は久しぶりに二人旅をすることになった。
二人旅というのは難しい。行きたいところが必ずしも合致するとは限らないからだ。まあしかしその時の旅行は、僕が北海道に既に10回目くらいであったので「案内する」という形で主導権を取ったので、さほど揉めずにすんなりと進んだ。
道央の富良野に差し掛かったときのこと。既に8月でラベンダーの季節でもなく、僕は花を目当てにやってきたのではなかったのだが、同乗の彼女が「富良野に来たんだから花が見たい」と言い出した。そう言われても困るなと思っていたところ、彼女はガイドブックをひっくり返し、ここからさほど遠くない美瑛に「ぜるぶの丘」というのがあるから行きたい、と言った。一面のひまわり畑があると言う。
どうせそういうところは人でごった返しているのだろうと僕はあまり気が乗らなかったが、行ってみることにした。
着くと、案外人が居ない。夏の盛りではあったのだが、ラベンダーはもう時期を過ぎ、ひまわりと言えば北竜町が有名なので、あまり観光客のアンテナに引っかからなかったのだろうか。エア・ポケットのように空いていた。
丘に登ると、見渡す限りに広がったひまわり畑が目に飛び込んできた。
黄色い色をした波が打ち寄せるように近づき、また地平に向って遠くまで伸びている。ひまわりの花は太陽に向って咲く。なので、ある方角から見れば、視界には正面を向いた花ばかりとなる。そんな当たり前のことをそのとき知ったように思う。
彼女は嬉々として花の中へと駆け出した。背が低いので花畑の中に入ると姿が見えなくなる。花の海を見ながら、僕はマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの映画を思い出していた。
映画「ひまわり」は、これ以上ない哀しい結末に終わる。ジョバンニとアントニオの悲恋の話。その映画のことを思い出しながら、人を想うということはいったいどういう事なのだろう、などととりとめのないことをぼんやりと考えていた。
声がするので顔を上げると、背の低い彼女が精一杯背伸びをして、ひまわりの間から顔を出し、笑ってこちらに手を振っている。
この人とならそんな哀しい想いなどすることはないな、とその時思った。いつまでもずっと笑っていられるかもしれない。それまで彼女はもちろん「一番大切な友人」であったけれども、その時を境に僕の中でもっと大きな存在になったような気がする。ひまわりが僕の眼を覚ましてくれたのかもしれない。
「写真撮るからジャンプして」
「ほーい♪」
今は妻となったその時の彼女は、今でもあの時の見渡す限りのひまわり畑の話をする。妻にとっても、忘れられない思い出になっているようだ。なんだかそんなことがあって以来、二人ともひまわりを見ると何だか幸せな気持ちになる。あれから美瑛のひまわり畑に訪れる機会はないのだけれども、追憶は今もそのままにある。
ブログのタイトルバックから長い話になったけれども、殺風景な僕でもたまには花を愛しく思うことだってあるのである。なのでちょっと派手だけれどもひまわりをしばらくブログトップに置いておこう。
追記:
3年半の間ブログのヘッダーを飾ったひまわりですが、カスタムレイアウトテンプレートの導入に従い外さざるを得なくなりました。また復活できる状況になればそうしたいとは思いますが、現在のところ未定です。(2009/9/30)
こんなふうに書き出して、今後またタイトルバックを架け替えてしまうとたちまちこの記事は古びてしまうのだけれど、まあこれは2006/2/13時点のことだと断っておく。
花なんていうのは誠に僕らしくない。僕は哀しいかな実に殺風景な人間だということは自覚している。普段まわりに全然装飾が無い。もう少し潤いを求めたらどうか、とはよく言われるのだけれども、机周りにも車にも装飾品らしきものは全然無い。これは自分のセンスの無さを自覚していて、ヘタに飾り付けるとゴタゴタになってしまうことを危惧して何も置かないのだけれど、飾り付けなくても平気、というのはやはり殺風景な人間なのだろう。
それはブログにも反映されていて、画像のひとつも記事に載せることはない。載せる手段を持っていない(デジカメも携帯写メールも持たず、スキャナもない)からだけれども、載せたいと本当に思うならそれらをもう導入しているだろう。そもそも、潤いのない人間なのだ。
そのことは僕の大好きな旅行にもやはり反映されている。
僕は、神社仏閣が好きでよく出かけるけれども、「花の時期」となるとつい出かけるのをためらう。「紫陽花が今盛りです」「牡丹が咲き乱れています」と言われると、その時期はおそらく人でごった返しているのだろうと想像し、「侘び寂び」を求めたい僕は二の足を踏む。花の名所と言われるところに季節をずらして出かけるという意味の無い行動をよくやる。
しかしながら、妻は「そういう時でないと行く価値がない」という。妻はもちろん仏像にも歴史にもさほど興味がないので、対象物にはまず「美しさ」を求める。そうなるとやはり「花が咲く頃」を選んで行きたいと言う。なのでいつも喧嘩である。
殺風景な環境に育ったわけではない。僕の両親は植物が大好きで、実家の庭にはいつも花が何かしら咲いていた。結構丹精込めている。母親はそれでも飽き足らずアートフラワーも作る。それなのに僕はなんでこんな人間に育ってしまったのかはわからないのだが、別に花が嫌いというわけではない。ただ、重きを置いていないだけである、と自分では思っている。
うちの妻は、僕とは全く逆に、花を最重要している人間である。なので、喧嘩しながらも時々は花を見に出かけるようになった。そうやって考えたら、最初に書いたことと異なるようだが、僕にも幾ばくかの花についての思い出も甦ってきた。一面に広がるひまわり畑はその中のひとつである。
まだ結婚する前の話。
僕は学生の頃から、毎年夏になると北海道に出かけていた。北海道が好きになったのは学生の頃の自転車旅行がきっかけであるので、社会人になって少ししか休みが取れなくても、自転車を畳んで持っていって現地で組み立て、北の大地を走り回ってはひととき青春気分に浸って日頃の心の垢を洗い流すのを常としていた。
ところがある年の春に、ちょっとした事故で首を痛めてしまった僕は自転車に乗れなくなった。でも北海道には行きたいので、フェリーで車を航送して旅行することにした。
その時に、なんとなしに付き合っていた女性も夏に北海道に行くと言うので、
「僕は今年は車を持ち込むけれども、乗る?」
と聞くと、北海道旅行は足がないと不便なので同乗したい、とのこと。なので現地で待ち合わせることにした。一人旅ばかりしてきた僕は久しぶりに二人旅をすることになった。
二人旅というのは難しい。行きたいところが必ずしも合致するとは限らないからだ。まあしかしその時の旅行は、僕が北海道に既に10回目くらいであったので「案内する」という形で主導権を取ったので、さほど揉めずにすんなりと進んだ。
道央の富良野に差し掛かったときのこと。既に8月でラベンダーの季節でもなく、僕は花を目当てにやってきたのではなかったのだが、同乗の彼女が「富良野に来たんだから花が見たい」と言い出した。そう言われても困るなと思っていたところ、彼女はガイドブックをひっくり返し、ここからさほど遠くない美瑛に「ぜるぶの丘」というのがあるから行きたい、と言った。一面のひまわり畑があると言う。
どうせそういうところは人でごった返しているのだろうと僕はあまり気が乗らなかったが、行ってみることにした。
着くと、案外人が居ない。夏の盛りではあったのだが、ラベンダーはもう時期を過ぎ、ひまわりと言えば北竜町が有名なので、あまり観光客のアンテナに引っかからなかったのだろうか。エア・ポケットのように空いていた。
丘に登ると、見渡す限りに広がったひまわり畑が目に飛び込んできた。
黄色い色をした波が打ち寄せるように近づき、また地平に向って遠くまで伸びている。ひまわりの花は太陽に向って咲く。なので、ある方角から見れば、視界には正面を向いた花ばかりとなる。そんな当たり前のことをそのとき知ったように思う。
彼女は嬉々として花の中へと駆け出した。背が低いので花畑の中に入ると姿が見えなくなる。花の海を見ながら、僕はマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの映画を思い出していた。
映画「ひまわり」は、これ以上ない哀しい結末に終わる。ジョバンニとアントニオの悲恋の話。その映画のことを思い出しながら、人を想うということはいったいどういう事なのだろう、などととりとめのないことをぼんやりと考えていた。
声がするので顔を上げると、背の低い彼女が精一杯背伸びをして、ひまわりの間から顔を出し、笑ってこちらに手を振っている。
この人とならそんな哀しい想いなどすることはないな、とその時思った。いつまでもずっと笑っていられるかもしれない。それまで彼女はもちろん「一番大切な友人」であったけれども、その時を境に僕の中でもっと大きな存在になったような気がする。ひまわりが僕の眼を覚ましてくれたのかもしれない。
「写真撮るからジャンプして」
「ほーい♪」
今は妻となったその時の彼女は、今でもあの時の見渡す限りのひまわり畑の話をする。妻にとっても、忘れられない思い出になっているようだ。なんだかそんなことがあって以来、二人ともひまわりを見ると何だか幸せな気持ちになる。あれから美瑛のひまわり畑に訪れる機会はないのだけれども、追憶は今もそのままにある。
ブログのタイトルバックから長い話になったけれども、殺風景な僕でもたまには花を愛しく思うことだってあるのである。なのでちょっと派手だけれどもひまわりをしばらくブログトップに置いておこう。
追記:
3年半の間ブログのヘッダーを飾ったひまわりですが、カスタムレイアウトテンプレートの導入に従い外さざるを得なくなりました。また復活できる状況になればそうしたいとは思いますが、現在のところ未定です。(2009/9/30)
そんなことより、奥様との運命を見つけたひまわり畑。「いつまでもずっと笑っていられるかもしれない」どんな名所の花より綺麗だったでしょう。そして飾る必要のないのは、凛太郎さんの揺るぎない自信でしょう。
「別に花が嫌いというわけではない。ただ、重きを置いていないだけである」
凛太郎さんらしい表現で思わず笑ってしまいました。
確かに花が嫌いだとは言っていないのです。人ごみそして渋滞や背伸びを付随させる花見が好きではないと言っているのです(笑)。
「ひまわりってみんなこっちを向いてるんだよ」
そのとき妻はそんなふうに言っていました。あんたがひまわりの正面に向いているのだ、後ろに行けばみんなそっぽを向くぞ、と言おうとしましたが、その時もう妻は駆け出していました。言わなくてよかったと本当に思っています(汗)。
そのときのひまわりは本当に深く印象に残っています。どこまでも広がる花そして花。確かにみんなこっちを向いていました。
映画「ひまわり」は、本当に切ないですよね。
哀しい結末に不似合いな、太陽とひまわりの映像が対照的で、それがなおさら切なくさせているようです。
北海道には北竜町という、ひまわりで有名な町があるんですよ。一度、奥様といらしてみてくださいね。
それよりも、り、ん、た、ろ、うさん、奥様とのおノロケ話はまだ続きます?
もう、熱くて熱くて・・・・(笑)
北竜町にはその後、行きましたよ♪ そりゃすごいひまわり畑でした。続けてその話も書こうと思ったのですが、Mamiさんに「ええかげんにせんかいっ!」と怒られるような気もしましたので割愛させていただきました(笑)。
ひまわりは太陽に恋する花
追いかけて、ずっと太陽のほうを向いている。
水の精クリュティエと太陽の神アポロの切ない恋
恋をしますが受け入れられず、九日九夜、地面に立ってアポロを仰ぎ見つめ、ついに体が地に根付いてひまわりになりました。
明るく太陽に向かって咲く花というイメージがあるんですが、切ない恋心と言うイメージもあるんですね。
ひまわり畑で笑顔でいられると思った
お二人だから、今も笑顔が絶えないんですね。
なんか、あったかい気持ちになりました。
ひまわりが好きだとおっしゃったアラレさんも、情熱の人のイメージがありますね♪
張り裂けそな胸の内 外に出さないよに 元気に笑う。
涙 決して誰にも見せないよに。
いっしょに笑顔でいられるヒト見つけられたら ほんとうに幸せ。
凛太郎さんが奥様見つけられたこと ほんとうによかった。
なんてことがあって、今の僕が居るのです。出逢いって不思議なものですよ。
ひまわり。まるちゃんは詩人ですね。かの花は健気なのだな。そんな花をずっと見つめていたいですね。