凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも平将門の乱が成功していたら

2004年12月22日 | 歴史「if」
 最近平将門が気になっている。
 何かをひっくり返したいと思う願望なのだろうか。

 平安時代も中ごろ。10世紀半ばのことだ。藤原道長が関白になるのは11世紀初頭だからこれより以前。桓武天皇5代の孫である平将門は、同族の争いに勝利して力を蓄え、自らを「新皇(新しい天皇)」と称して関東八ヵ国を手中に収めて独立国家を作ろうとした。
 結局この蜂起は鎮圧されてしまうのだが、実に惜しいと思う。もう少し歯車が噛み合っていれば、武士の時代が早く到来し、日本歴史は2~300年早い展開を見せたかもしれないのだ。

 将門が頭角を現したのは、中央政府への反逆でもなんでもない。同族の争いからである。簡単に言えば、将門の亡父良将の領地を伯父たちが横取りしてしまい返さない。それが原因で戦が起こった。しかも将門は仕掛けられた方である。特に強欲であったわけではない。結果、将門は次々と勝利を治め、徐々に関東一円に勢力を伸ばしていくという寸法である。
 そして、親分肌であったのだろう。徐々に人が集まり出していく。また伯父達の勢力は京に働きかけ、追捕命令も出させている。その言い訳のため将門は京に上る隙に敵側は戦力を整え、また攻めてくるといったことで、将門は気の毒極まりないのだ。しかし、戦には強く、しかも負けた敵の平良兼を「親戚である」ということで逃がしたりしている。人情家と言おうかお人よしと言うか。しかし器が大きかった様子で、徐々にカリスマ性を発揮していくのである。

 ここまでは良かった。しかしカリスマとなった将門に様々な難題が持ち込まれる。武蔵国国司代理として赴任してきた興世王と地元豪族とのもめごとの仲裁。これは無事に治め、興世王は将門の食客となってしまう。さらに、常陸の藤原玄明という豪族が常陸国司藤原維幾と揉めて将門のところへ逃げ込む。将門はカリスマであるからしてこれを匿ってやる。やがて国司維幾と争いになり、これを打ち破ってしまう。ここに至って、将門は反逆者となってしまうのだ。

 将門の不幸はここから始まる。いったん反逆者となったからにはもう同じ、関東を制圧してしまえ、と言う興世王の口車に乗り、下野、上野と制圧し関東を手中にしてしまう。元来カリスマ性があり戦は強いのだ。ここに至って、将門は神のお告げにより「親皇」と持ち上げられ独立国家成立に向かう。

 誠に残念な歩み方だ。将門は間違ったレールの上に乗ってしまったのだ。もう少し地盤を固め、制度もきちんと整備した上で進めれば、中央政府に不満を持っている関東の豪族は大同団結し将門を担いで本当に独立し得たかもしれなかったのだ。
 不幸は、助言者がいなかった。実務者もいなかった。歴史上天下を取った人物は必ずそのカリスマ性を押し立てる人物、そして作戦参謀と優秀な官僚を持つ。源頼朝しかり、足利尊氏しかり、豊臣秀吉しかり。将門の場合はそれが都落ち貴族の興世王だった。この人物にはビジョンが無い。秀吉に対する弟の秀長、尊氏の直義のようにフォローする人物、そして盛り立てる北条時政的な人物、参謀となる黒田官兵衛、官僚の大江広元や石田三成のようなスタッフが居れば。
 時間さえあれば、これらの人物は出てきた。弟の将平や伊和員経は将門を諌めたが、その時は器量が足らずに抑えることは出来なかったが懐刀となる可能性はあった。また後に将門を討つことになる俵藤太こと藤原秀郷は、いったん将門に従属しようとしていたのだ。彼がもし将門と共闘していたら。もっと考えれば、もう少し時間があれば従兄弟である平貞盛とも手を組む事すら可能であったと思う。貞盛にとって将門は父の仇だが、歩み寄れる素地はあったのだ。将門は参謀が残念ながら興世王であったため、事を急ぎすぎた。新国家もビジョンが無かった。興世王にもう少し才覚があれば、「征夷大将軍」というアイデァまではいかなくてももう少し違った形で将門を君臨させることが出来たのではないだろうか。「新皇」ではなくて。

 将門は隙を突かれ、貞盛・秀郷連合軍に敗北し乱は平定される。将門は律令制の歪んだ世の中で、反中央政府の代表として世の中に出てきた。しかし時期が熟さず、関東王国は幻に終わった。もう少し将門に時間があったら、またいいスタッフが付いたなら、歴史は違った様相を呈していた可能性がある。

 この後地方豪族は力を蓄え、武力を持ち、関東王国は実現に向かう。ただし、旗頭となる「貴種」源頼朝を擁して鎌倉幕府が成立するのは、将門から約250年後となってしまうのだ。

 早く生まれすぎた英雄。時代は彼を活かしきれなかったとも言える。
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6 コメント

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Unknown ()
2005-01-11 00:52:38
平の将門は桓武天皇の五代目であり上手くいけば天皇の座につけたかもしれないと言われてますね。もし平将門が成功していたら我が家が皇族だったのに。と思うだけですね(笑)
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( ̄◇ ̄;)エッ (凛太郎)
2005-01-31 00:01:10
将門様のご子孫の方なんですか?! それはすごい。

ご無礼な書きぶりもあったかと思いますのでヒラにお許しの程を。

(;^^A アセアセ・・・



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岩井幕府開府 (ロキュータス)
2011-12-06 06:53:11
もし、平 将門にしっかりとしたブレーンがいたら(興世王が大江広元の様な才覚があれば)東国を支配した将門を征夷大将軍にして本拠地の岩井に幕府を開き250年早く武家政権が樹立してその後の歴史も大きく変わったであろう。
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>ロキュータスさん (凛太郎)
2011-12-08 05:10:04
難しいですね。さすがにこの時代、征夷大将軍というアイディアは出ないと思うんですよ。分国、という可能性は高いと思うのですが。
この話、ちょうど7年前に書いたのですが、今ならもう少しきっちりと書けると思うのです。書き直したい気がします。
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Unknown (ウイング)
2013-09-29 23:40:30
藤原純友と連絡を旨く取れば可能性は・・・・・・・・。

成功した後が大変です。
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>ウイングさん (凛太郎)
2013-10-02 06:02:30
そうですねぇ。この時代なかなか連動するのは難しいとは思いますが…。方向性も異なりますし。
連動して成功した場合の絵図がなかなか描けませんが、時代の進行に加速がついたかもしれません。
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