「何のために旅行するの?」
僕はしばしば旅行に出かけるので、よくこんなふうに聞かれる。
その問いかけが一番答えにくいし難しい。一応、「趣味ですから」と答える。でも、これって実は答えになってはいない。
旅に出たいという衝動は常に心に内包しているのだが、その衝動を説明するのは実に難しい。「好きだから」としか言いようがないのが現実。趣味ってそういうものなのだから。
総論は実に答えるのに窮するが、各論なら少しは話せるのではないか? そう思って少し記してみたいと思う。
<達成感を味わうため>
徒歩や自転車で旅をする人は、常に達成感を求める。白地図を用いて辿った道に朱を入れたりして悦に入っているタイプ。僕ももちろんそう。
実際に自転車で日本縦断を終えた時の爽快感は比類がなかったし、小さなことでは自転車で目の前にある峠を登りきったときの気持ちよさは本当に何度経験しても良いものだった。
達成感は、自力で旅をする人ばかりに限らない。鉄道乗り潰し全線完乗の人、温泉入湯数をカウントしている人、郵便貯金の局数を増殖している人、みんなそうだと思う。コレクターと同じことだが、やはり達成感を目指して旅をしているのだろう。
<素晴らしい風景と出会うため>
旅の王道であり本筋ではあると思う。
果てしなく続く地平線、そそりたつ山々、神秘の湖、様々な自然の美が目の前に現れる感動は旅の醍醐味。瞳に映じるいくつもの風景は一生の思い出となって心に残るもの。
しかし…。ガイドブック通りの景色にちゃんと逢えるかどうかは、天候等に左右されるし、行ったけど見られなかった、ということは幾度もある。霧の摩周湖がその最右翼だろうか。悔しい思いを繰り返している人はいるはず。頑張ろう。
また、「絵葉書みたい…」と言うセリフはよく聞くけれども、ちょっとそういうのはつまんないような気もする。実際は部分を切り取った写真より実際の風景は何倍もいいはずなのだ。感受性を磨きたいもんだなぁと自戒も含めて思う。
それから、絶景には季節物がある。花と紅葉が双璧だろう。そのシーズンに行くと絶景が見られるはずなのだが、なんせそういう季節は人が多い。人ごみを掻き分けて桜やモミジを見なくてはならないのだ。難しいところだな…。僕は人垣の中ではせっかくの美しさも半減するようで避けたいのだが、同居人は「そういう時行かなくてどーするの」と言って無理にでも行こうとする。なので、いつも喧嘩だ。難しい。そういう場合は早朝がいい。人の集まってくる前。朝日の斜光線も相乗効果で、さらに美しい風景が見られる。
<美味しいものを食べるため>
僕のように呑んべで喰い意地が張った男だと、食は旅の重要な要素となる。エンゲル係数が高ければ高いほどその旅は充実したものになるような気がしている(ホントか)。
旅にはやはりその土地ならではの食材や料理を求めて行きたいし、それは旅の主たる目的に立派になりうるもの。今、確かに東京その他の都会で全国の味は簡単に手に入り、また通販も充実しているから居ながらにしてどんなものでも食べられる。しかし、旅情はないんだなぁ。その食べ物を食べた時の状況と周りの空気全てが味の記憶に反映されるわけのだから、思い出としてこれもまた結実するはず。
全国のラーメンを食ベ歩いてHPを開いている人はたくさんいらっしゃるが、そういう人たちは旅人だと思う。「ちょっとラーメンを食べに札幌へ…」というのはギャグではなく本当の旅好きの姿ではないか。
<歴史散策・文学散歩>
日本を旅していると、どんな土地にも歴史の足跡が必ずある。歴史マニアの僕としては見逃せないのだ。「今回は高杉晋作をテーマにしよう」とか、特定の人物の足跡を辿って旅をすることもよくある。また、例えば宮沢賢治が大好きで岩手に旅立つ人も多いだろう。そういう旅は楽しい。
そういう旅に重要なポイントが二つある。
まず一つは事前の下調べ。ガイドブックに載ってないことも歴史の本には載っている。よく調べておかずに、帰って来てから「見逃した」と嘆くことは往々にしてある。案外現地の観光案内所は歴史的事象についてはアテにならない。詳しいことを求めすぎているのかもしれないが、案内所ではラーメンマップは置いてあっても「○○さんの旧居は何処でしょう」と問うても、残念ながら首を傾げられることが多い。自力で調べておくに限る。また、文学館や歴史資料館が現地にあれば最初に訪ねるのもいい。視野が広がり散策に厚みが増す。
もう一つは想像力が挙げられる。幕末歴史ファンが京都に行って「ここで池田屋事件があったのか」とその場所に立つも、そこには石碑が一つ建っているだけ。往時を偲ぶ空気はほぼ無い。これは古い史跡になればなるほどそう。となれば、その石碑一つで思いを当時にどれだけ馳せられるかが勝負となる。交通量の激しい京都の三条通で、新撰組がここで大立ち回りをした、その刀の音がなんとなしに聞こえるような気がしたならその人は一流だと思われる。何倍も旅の楽しみが膨らむかと。何とか頑張ってみたい。
<いろんな人と出会う>
旅している以上、人との出会いは避けて通れない。
団体旅行だと、なかなかその仲間以外の人との交流は難しいが、一人旅だと出会いの機会は山ほど訪れてくる。
人に道を聞くことですら、「出会い」と言える。そこでは、社会での肩書きや、自分が置かれている状況、そういったものは全く関係がない。自分と言う一個人がそこに存在するわけだから、先入観のない真っ白な自分をさらけ出していくこととなる。そんな中で、様々な人と出会うのは実に楽しいこと。思わぬ親切を受けたり、困っているときに助けてもらったり、いろんな出会いがあると思う。
例え自分の性格が社交的でないとしても、旅先では高揚感があるから、普段の自分とは全く違う自分が表面に出てくることに驚くこともあるはず。そんな自分を発見するのも、人との出会いにおいてではないだろうか。
安宿などでは、旅人同士の交流が深まることが多い。そんな場では特に、自分の社会的立場等とは違う出会いばかり。共通項は「旅が好き」ということだけ。そうして、しがらみのない友人を作ることも出来るし、思いがけない出会いもある。
<ただなんとなしに出かける>
旅はもちろん観光を主たる目的とすべきで、見聞を広めその後の人生に深みを増すのが第一義であるべきだ。うんうん。なので、よく巷間で言われる「ふらりと風になりたいから」「あてもなく行くのが本当の旅さ」などというのは鼻先で笑ってしまえばいい。「鼻先で笑う」などと挑発的な物言いをしたが、しかしながら、そういうセリフって鳥肌が立つと思いませんか。
そんな「風になる」人たちと昔はよく逢ったものだ。昭和の時代の安宿にはよくその手の人が居た。そういう人に限って「旅と旅行とは違うのさ」などと説教を垂れてくる。「君の旅は旅とは言えない」えーいやかましい。「僕は放浪を愛する男さ」あんた2泊3日でしょうが? 「旅は計画を立てちゃいけないのさ」うるせーなー。そんなことを言う自称「永遠の旅人」に、実に鼻持ちならない思いをさせられたことが多かった。なので、つい挑発的になってしまったのだ。
ただ、逆説的なことを言うけれども、人に同意を求めたり強要したりしなけば、風になるのもいい。生きているといろんな辛いこと悲しいことがある。そういう時に本当に目的もなく旅に出てしまうのもまた事実で、言わば現実逃避のために出かける旅も存在することは否定できない。カメラも持たずに適当に列車に乗って、行ったことのない町に降りて、そのへんをぶらぶらして、古本屋に入り、喫茶店に入り、居酒屋で酒を呑んで眠る。そうして意味のない行動をしているのにも関わらず実に充足感がある。「知らない町を歩いてみたい」を地でいっているわけだが、そんなことをしてわりと元気になるのも本当で、日常と違う場所に身を置くということだけでどれだけ気持ちが楽になっていくかがわかる。
しかしながら、そういうのは傍目には怪しい人物に見えるのもまたしょうがないことであって、これが旅の究極であるとか言うつもりはもちろん毛頭ない。やはり旅はもっと貪欲に見るべきものを見て充実させるのが正しいと思うし、これからも「風になるのが目的」などと嘯くのは自戒も含めてせせら笑ってしまおうとは思う。
僕はしばしば旅行に出かけるので、よくこんなふうに聞かれる。
その問いかけが一番答えにくいし難しい。一応、「趣味ですから」と答える。でも、これって実は答えになってはいない。
旅に出たいという衝動は常に心に内包しているのだが、その衝動を説明するのは実に難しい。「好きだから」としか言いようがないのが現実。趣味ってそういうものなのだから。
総論は実に答えるのに窮するが、各論なら少しは話せるのではないか? そう思って少し記してみたいと思う。
<達成感を味わうため>
徒歩や自転車で旅をする人は、常に達成感を求める。白地図を用いて辿った道に朱を入れたりして悦に入っているタイプ。僕ももちろんそう。
実際に自転車で日本縦断を終えた時の爽快感は比類がなかったし、小さなことでは自転車で目の前にある峠を登りきったときの気持ちよさは本当に何度経験しても良いものだった。
達成感は、自力で旅をする人ばかりに限らない。鉄道乗り潰し全線完乗の人、温泉入湯数をカウントしている人、郵便貯金の局数を増殖している人、みんなそうだと思う。コレクターと同じことだが、やはり達成感を目指して旅をしているのだろう。
<素晴らしい風景と出会うため>
旅の王道であり本筋ではあると思う。
果てしなく続く地平線、そそりたつ山々、神秘の湖、様々な自然の美が目の前に現れる感動は旅の醍醐味。瞳に映じるいくつもの風景は一生の思い出となって心に残るもの。
しかし…。ガイドブック通りの景色にちゃんと逢えるかどうかは、天候等に左右されるし、行ったけど見られなかった、ということは幾度もある。霧の摩周湖がその最右翼だろうか。悔しい思いを繰り返している人はいるはず。頑張ろう。
また、「絵葉書みたい…」と言うセリフはよく聞くけれども、ちょっとそういうのはつまんないような気もする。実際は部分を切り取った写真より実際の風景は何倍もいいはずなのだ。感受性を磨きたいもんだなぁと自戒も含めて思う。
それから、絶景には季節物がある。花と紅葉が双璧だろう。そのシーズンに行くと絶景が見られるはずなのだが、なんせそういう季節は人が多い。人ごみを掻き分けて桜やモミジを見なくてはならないのだ。難しいところだな…。僕は人垣の中ではせっかくの美しさも半減するようで避けたいのだが、同居人は「そういう時行かなくてどーするの」と言って無理にでも行こうとする。なので、いつも喧嘩だ。難しい。そういう場合は早朝がいい。人の集まってくる前。朝日の斜光線も相乗効果で、さらに美しい風景が見られる。
<美味しいものを食べるため>
僕のように呑んべで喰い意地が張った男だと、食は旅の重要な要素となる。エンゲル係数が高ければ高いほどその旅は充実したものになるような気がしている(ホントか)。
旅にはやはりその土地ならではの食材や料理を求めて行きたいし、それは旅の主たる目的に立派になりうるもの。今、確かに東京その他の都会で全国の味は簡単に手に入り、また通販も充実しているから居ながらにしてどんなものでも食べられる。しかし、旅情はないんだなぁ。その食べ物を食べた時の状況と周りの空気全てが味の記憶に反映されるわけのだから、思い出としてこれもまた結実するはず。
全国のラーメンを食ベ歩いてHPを開いている人はたくさんいらっしゃるが、そういう人たちは旅人だと思う。「ちょっとラーメンを食べに札幌へ…」というのはギャグではなく本当の旅好きの姿ではないか。
<歴史散策・文学散歩>
日本を旅していると、どんな土地にも歴史の足跡が必ずある。歴史マニアの僕としては見逃せないのだ。「今回は高杉晋作をテーマにしよう」とか、特定の人物の足跡を辿って旅をすることもよくある。また、例えば宮沢賢治が大好きで岩手に旅立つ人も多いだろう。そういう旅は楽しい。
そういう旅に重要なポイントが二つある。
まず一つは事前の下調べ。ガイドブックに載ってないことも歴史の本には載っている。よく調べておかずに、帰って来てから「見逃した」と嘆くことは往々にしてある。案外現地の観光案内所は歴史的事象についてはアテにならない。詳しいことを求めすぎているのかもしれないが、案内所ではラーメンマップは置いてあっても「○○さんの旧居は何処でしょう」と問うても、残念ながら首を傾げられることが多い。自力で調べておくに限る。また、文学館や歴史資料館が現地にあれば最初に訪ねるのもいい。視野が広がり散策に厚みが増す。
もう一つは想像力が挙げられる。幕末歴史ファンが京都に行って「ここで池田屋事件があったのか」とその場所に立つも、そこには石碑が一つ建っているだけ。往時を偲ぶ空気はほぼ無い。これは古い史跡になればなるほどそう。となれば、その石碑一つで思いを当時にどれだけ馳せられるかが勝負となる。交通量の激しい京都の三条通で、新撰組がここで大立ち回りをした、その刀の音がなんとなしに聞こえるような気がしたならその人は一流だと思われる。何倍も旅の楽しみが膨らむかと。何とか頑張ってみたい。
<いろんな人と出会う>
旅している以上、人との出会いは避けて通れない。
団体旅行だと、なかなかその仲間以外の人との交流は難しいが、一人旅だと出会いの機会は山ほど訪れてくる。
人に道を聞くことですら、「出会い」と言える。そこでは、社会での肩書きや、自分が置かれている状況、そういったものは全く関係がない。自分と言う一個人がそこに存在するわけだから、先入観のない真っ白な自分をさらけ出していくこととなる。そんな中で、様々な人と出会うのは実に楽しいこと。思わぬ親切を受けたり、困っているときに助けてもらったり、いろんな出会いがあると思う。
例え自分の性格が社交的でないとしても、旅先では高揚感があるから、普段の自分とは全く違う自分が表面に出てくることに驚くこともあるはず。そんな自分を発見するのも、人との出会いにおいてではないだろうか。
安宿などでは、旅人同士の交流が深まることが多い。そんな場では特に、自分の社会的立場等とは違う出会いばかり。共通項は「旅が好き」ということだけ。そうして、しがらみのない友人を作ることも出来るし、思いがけない出会いもある。
<ただなんとなしに出かける>
旅はもちろん観光を主たる目的とすべきで、見聞を広めその後の人生に深みを増すのが第一義であるべきだ。うんうん。なので、よく巷間で言われる「ふらりと風になりたいから」「あてもなく行くのが本当の旅さ」などというのは鼻先で笑ってしまえばいい。「鼻先で笑う」などと挑発的な物言いをしたが、しかしながら、そういうセリフって鳥肌が立つと思いませんか。
そんな「風になる」人たちと昔はよく逢ったものだ。昭和の時代の安宿にはよくその手の人が居た。そういう人に限って「旅と旅行とは違うのさ」などと説教を垂れてくる。「君の旅は旅とは言えない」えーいやかましい。「僕は放浪を愛する男さ」あんた2泊3日でしょうが? 「旅は計画を立てちゃいけないのさ」うるせーなー。そんなことを言う自称「永遠の旅人」に、実に鼻持ちならない思いをさせられたことが多かった。なので、つい挑発的になってしまったのだ。
ただ、逆説的なことを言うけれども、人に同意を求めたり強要したりしなけば、風になるのもいい。生きているといろんな辛いこと悲しいことがある。そういう時に本当に目的もなく旅に出てしまうのもまた事実で、言わば現実逃避のために出かける旅も存在することは否定できない。カメラも持たずに適当に列車に乗って、行ったことのない町に降りて、そのへんをぶらぶらして、古本屋に入り、喫茶店に入り、居酒屋で酒を呑んで眠る。そうして意味のない行動をしているのにも関わらず実に充足感がある。「知らない町を歩いてみたい」を地でいっているわけだが、そんなことをしてわりと元気になるのも本当で、日常と違う場所に身を置くということだけでどれだけ気持ちが楽になっていくかがわかる。
しかしながら、そういうのは傍目には怪しい人物に見えるのもまたしょうがないことであって、これが旅の究極であるとか言うつもりはもちろん毛頭ない。やはり旅はもっと貪欲に見るべきものを見て充実させるのが正しいと思うし、これからも「風になるのが目的」などと嘯くのは自戒も含めてせせら笑ってしまおうとは思う。
※エントリがこれで100回となりました。読んでくださった方々に感謝いたします。
旅・・・行けるときにバンバン行ってくださいねー。また、ヘルニアになっちゃったら大変だもんねー(ちょっと意地悪w)
覗いてくれていたんですね♪ 感謝感謝。(^-^)
しかしまあ100回と言っても、ブログも開設して半年以上経っているわけで、数だけでいうと少なすぎるのです。でも、一日じゃ書けないこともあってねー。何日もかかって一つの記事を書いたりすることもあるんで、僕としてはこれが精一杯かと。
書きたいことは山ほどあるのですが、なかなかに時間が追いついてくれません。のんびりやっていこうと思ってます♪
ぽけちゃんも体調管理が難しい時期だとは思います。陰ながら応援していますので、頑張り過ぎないように日々を過ごしてください。
ありがとー♪
どの宗教にもある聖地参拝って、私のような人のための旅の口実なんだろうなって思います。
そういえば、仏像や名画の前に立ったときも、脱日常感ってありますよね?
カッコいいですね♪ 僕は日本の深みにズブズブと入り込んでしまって海外にはほとんど行っていません。行きたいところはいっぱいあるんですけどねー。(汗)
「おかげまいり」なんかも確かに口実の側面が強かったようで。でもまあ楽しければそれでいいんですよね。
ちょっと今記事は自分が最も戒めなければならない「説教臭い」記事になっちゃったのではと反省しきりです。旅は自由に♪
あ~ どこか遠くへ行きたい(爆)
しかしあんまり自分を無くすと思わずサイフの紐が緩んじゃうのよ(笑)。高揚感に乗っかっちゃうとよくないといつも思っているわい。(* ̄m ̄)プッ
明石屋のにぃちゃんもパチばっかりやってないでどこか遠くへ行きなさい((爆))
これからの記事も楽しみにしております。もちろん、プロレスネタも。ふふふ・・・
私も旅が好きです。最近は行ってませんが、2年ほど前まではよく出かけておりました。
欲張りなもんで、色々な目的を一度に果たしたと思うのです。
歴史散策、グルメ、温泉、買い物、テーマパークetc。もちろん、人との出会いもね。
凛太郎さんは素敵な出会いをなさったのですね。
私はひとり旅もけっこうしましたが、そんな出会いなんてまったくなかったです。
おっかしいなあ・・?たくまし過ぎるのかなあ・・?(笑)
一度男性の前で、「あ、目まいが・・・」な~んて倒れてみようかと思ってます。(爆)
欲張りな旅いいですよねー♪ それでこそ充実した旅行が出来るというもんです。旅は貪欲にいかないと(笑)。過密スケジュールにならなければどんどん遊んだほうが楽しい。
たくましすぎることはないと思われますが。僕の想像ではMamiさんはフェンダーの似合う素敵な女性かと…。
ハッΣ(゜ロ゜〃)フェンダーはギターだっ! ! それを言うならフェンディ! ! (滝汗)
いつかお会いできたらいいですね。
いつかお会いできる時があるといいですね。(^-^)