凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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僕の旅 京都府3

2006年03月01日 | 都道府県見て歩き
 前回からの続き。

 僕は生まれも育ちも京都なのだが、ルーツは少し違う。
 父方の祖父は、戦前に東京から京都へ転勤でやってきた。しばらくして太平洋戦争が始まり、東京は焼け野原、そのまま祖父一家は京都に住み続けることとなった。父は東京生まれであり、それでも幼い頃に京都に移り住んだため馴染んではいるが、いまだに純粋な京言葉は話せない。死んだじーさんとばーさんは完全に江戸っ子であって、蕎麦を汁にちょいとつけて手繰っていた。飛行機のことを「しこうき」としか言えなかった。雑煮は関東風の鶏肉に切り餅。ばーさんは淡口醤油を使いこなせなかった。
 こういう家に嫁に来た母は、生まれも育ちも純粋な京都人ではあるが、舅と姑が健在であった頃は遠慮もあり、ある程度東京風に合わせていた様子がある。なので、我が家は完全な京都の家庭ではなかった。言葉も、アクセントこそ京風だけれども、例えば「沢山」という言葉を「ぎょうさん」とは言わない。小学校に行ってから知った「京言葉」というものがいくつもある。
 そのことから、僕は比較的京都を客観的に見る風になっていったのではないかと思う。京都の文化、習慣に興味を持ったりするのも、僕が「よそもの」をルーツに持っていたからに他ならないような気がしている。

 京都というところは、因習が強く、余所者をなかなか受け入れない土地であるとよく言われる。曰く「本音と建前を完璧に使いこなす」「腹に一物必ず持っている」等々。その代表としていつも例として出されるのが「京のぶぶ漬け」の話であって、詳細はリンク先に書いたが、つまり人の家に訪問した際、用件が済みその家を辞そうとしたときに「まあ、ぶぶ漬け(お茶漬けのこと)でも食べていっておくれやす」と引き止める。しかしそれは言葉だけの儀礼上のものであって、その言葉を真に受けて本当に「じゃあいただきます」とでも言おうものなら、「なんやあの人は」と礼儀知らずの代表のように言われる、という話である。エセ京都通が必ず言う話ではあるが、結構浸透している。
 これに類したことは京都人に限らずやっている。例えば引越しの通知を出す際に「お近くにこられましたら是非お寄り下さい」と必ず書く。ハガキを出した人全員に対してこう思っているとは到底思えない。これはやっぱり「儀礼的文句」であるように思う。親しい友人なら寄ってもらいたいが、仕事上の付き合いの人まで本当にみんなやって来たら大変だ。
 テレビ「笑っていいとも」のテレフォンショッキングで、ゲストに「じゃあお友達を紹介して」とタモリが言うと、観客が一斉に「ええぇ~!」と言う。これも本当に引き止めたいばっかりではないと思うが、「お約束」でありそう言わないとゲストが寂しいから必ず言う(ことになっている)。「ぶぶ漬け」とはそれと同様のことであり決して相手を礼儀知らずや否やと試しているわけではない。「帰ります」「ああそうどすか。ほなさいなら」では寂しいではないか。ちょっとは引き止めるそぶりを見せるのは人情というものである、と思うのだが。

 ところが、ぶぶ漬けの話はこれでは終わらない。
 京都ウォッチャーによると、「どうぞぶぶ漬けでもあがっていって」にはもう一つ意味があるという。それは、婉曲に「帰ってくれ」と言っているのだということ。前述したのは帰ろうとしている客に対してだが、これは相手が長居している客。そういう人に、それとなしに帰って欲しい、との意向を伝えるものだというのである。それを間にうけて「ああご馳走様です」と言おうものなら、「ああこの人は田舎モノ」と陰口をたたく、という寸法である。どうにも評判が悪い。
 うーむ。これもよく僕には実感としてわかる。そもそも、お茶漬けなど客に出すものではないからである。
 京都人は、客が来たときに手料理でもてなすということをしない(これは一般論です。心づくしの料理を出す場合ももちろん今はあります)。客が食事をする場合は「仕出し」を利用する。「出前」「店屋物」と言ってもいいのかな。京都には「仕出し屋(店舗で食べさせない作って持っていくだけの店)」が充実していて、ケータリングが実に発達している。うどんの出前だけではない。きっちりとした「京料理」を自宅へと運んでくれる。僕の実家は普通の家庭で、よく食べる子供三人を抱えた決して裕福ではない家だったが、それでも懇意にしている仕出し屋がありちゃんとしたときには利用していた。
 こう書くと、「京都人は水臭い、手の内を見せない」と言われそうだが、それには理由がある。これは、手料理がもし口に合わなかった場合の予防線なのである。
 あまり親しくない客人の場合、好みもわからない。手料理を出して、それがその人にとって望ましいものではなかった場合、双方が気まずい。どちらも気を遣う。なので、確実な方法をとるのである。その仕出しがダメであった場合も、それは仕出し屋のせいであって当該家のせいではない。逃げ道を作っておくのである。
 そういう京都で、「お茶漬け」という粗末なものは絶対に客に出さない。これは「なんにもありませんよ」と同義語である。しかし、長居している客にお茶と菓子しか出していないのはいかにも心苦しい。なので、今日はこれ以上の準備をしていないので、もう今日のところはお引取り願えないだろうか、という意味も暗に含んでいるのである。
 「じゃあ最初からぶぶ漬けなどと言わずに帰ってくれと言えばいいだろう」京都人はそんなカドが立つ言い方は絶対に出来ない。なんとか婉曲に伝えたい。それが「ぶぶ漬け」という符牒になったのであって、決して客を試しているのではない。
 しかしこれは現在では京都の評判を著しく下げているのは否めないよなあ。この感覚をわかって欲しいとは思うのだが、今の日本では通用しない「気遣いと類推と約束事」の世界なのかもしれない(こういう言い方が既に「ぶぶ漬け」の世界か)。
 もっとも、昨今はこういうのはもう廃れた言い回しだと思うし、「ぶぶ漬け」という言葉が死語のようにも思う。今なら「ホンマは座敷に上がってもらわないかんのやけど、えらい散らかってますのや。いま片付けてきますよってに…」とでも言うのだろうか。そう言えば「いやもう今日はここらで帰ります」となるだろう。そんな感じなのである。

 この話と似ていることで、もう一つ京都を批判する事柄があるのは僕も知っている。例の「一見さんお断り」である。閉鎖的な京都の象徴になっている。
 これも書くと長くなっちゃうのだが、簡単に言うと、京都人は「一見さんが怖い」のである。京都は町衆が長い歴史を持って住み続けてきたせいで、料理屋にしても何代もの付き合いということもある。客の好みは熟知している。しかし「一見さん」はどういう人かわからないし、ヘタなものを出して問題を生じるのは怖い。織田信長が京に上ったとき、評判の料理人に料理を出させて「不味い。首を刎ねろ」と言ったのも、信長が「一見さん」だから生じたことである。この話は信長に「もう一度作らせてくれ」と料理人が頼み、二度目は美味かったので褒美を出した。後に「最初は京風に上品に作ったんで信長の口に合わへんで、二度目は田舎風に濃い味で作ったんで満足したんや」と笑うオチがついていて、京都人の底意地の悪さをまた示す逸話となっているが、意地悪も命がけなのである。このプライドが真似できるのか。この料理人はおそらく次回からは、信長好みの料理をビシッと出すだろう。
 ちょっと話がずれたが、「一見さん」も紹介があれば大丈夫である。それは、長い時代商売をしてきて、現金払いというのはごく最近の手法であり、かつては全て「後の請求」であった。今でもその手法は同じで、ちゃんとした料理屋はその場でお金を払わせるという不粋なことはせず、後から請求書を送る。そういう店では初めての客はいくら名刺を出しても怖い。だから紹介人は「保証人」なのである。その場で支払いをさせるような店は確かに安直な店であり、そういうところは一見も断らない。また紹介者から好みも聞けるので間違えることはない。「一見さんお断り」は、長年培った店を守りたい意識から生じる自己防衛策であり、決して「いけず(意地が悪い)」から生じているものではないと思うのだが。

 しかしながら、京都人は確かに、「一線を引いている」ところがあるのもまた事実である。すぐ隣の大阪と比べればその違いは明らかである。そんな文化の違いをよく感じることがある。以前に記事にした「自転車屋さんじゃないぞ^^;」或いは、「ちょっとそこまで」で書いたことのような事象。
 深部にまで踏み込まない。腹の内はいろいろ考えることがあっても、それを口に出すとカドが立つ。人付き合いは「ちょうどいい」ところを見極める。傷つけたくもないし傷つきたくもない。「物言えば唇寒し」ということを良く知っている特性であると僕は思っているのだが。
 これは、よく京都文化研究では言われていることだけれども、為政者が変わってもなんとか対応して生きてきた町衆の意識が反映しているという説がある。京都に桓武天皇が都を遷して以来千年を超える年月の中で、為政者が次々と変わってきた。それでも対応して生きていかなければならない。そうなると必然的に「生活の知恵」として為政者に合わせていく術が生まれる。そういう歴史が「約束事」を完備し、批判的言動をすればトップが替わったときに首が飛ぶ怖れに対応して「何でも言えばいいというものではない」文化を作り出した、と言う事である。
 これは一面真実であるとも思う。ただ、こうした文化に僕は「思いやり」のようなものも見て取れるのである。よく言えば、の話ではあるけれども(悪く言えば「用心深い」ですな)。以前に「僕の旅 石川県 」で触れたが、人間関係を円滑にする手段が「気遣い」だということを知っているのが京都人であろうと思う。これは自己弁護に過ぎるだろうか。

 次回に続く。
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