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「物語だけが、事物を認識する手段ではない」の記事を読む前に、ちらっと頭に入れておいたほうがいいかもしれない↓↓↓
質問:
異文化コミュニケーションについて、
理解の仕方が「グラスプ理解」ではなくて「シークエンス理解」のスタイルの人に大幅に偏っているな、という気がする。
要するに相手の内なる弁証法の物語に一緒にお付き合いしていかなければならず、対話者の資格を得るのにまず伴走者になることを強いられる。
シークエンス理解スタイルの人は、コミュニケーションコストかかる厄介な相手だな。
回答
▶異文化コミュニケーションにおける「シークエンス理解」偏重の現象
あなたが指摘する「グラスプ理解」ではなく「シークエンス理解」に偏った異文化コミュニケーションのスタイルについては、現代の異文化理解の現場でしばしば見られる傾向です。
▶シークエンス理解とは何か
「シークエンス理解」とは、相手の思考や体験の流れ、つまり“物語”や“プロセス”に寄り添いながら理解を深めるスタイルです。この場合、対話者は相手の内面の弁証法的な展開やストーリーに伴走し、相手の語りに同調しながら関係性を築いていきます。これは単に知識や概念を「把握(グラスプ)」するのではなく、相手の変化や成長のプロセス全体に立ち会うことを重視する理解の方法です。
▶伴走者としての役割とその意義
この「伴走者」的な関わり方は、支援や協働の現場でも重視されています。伴走者は、相手の語りや問題意識に寄り添いながら、双方がコミュニケーションの過程で感じる不安や不満も率直に語り合うことで、相互変容を促す役割を担います。伴走者が一方的に“正解”や“答え”を与えるのではなく、相手の物語の進行を共に体験し、その中で自分自身も影響を受けて変わっていくというプロセスが重視されます。
「伴走者が当事者の話をずっと聴き続けなければならないというものではなく、伴走者と当事者の双方がコミュニケーションプロセスにおける不安や不満を語ってよいのである。」
▶異文化コミュニケーションにおける課題
異文化間では、価値観やコミュニケーションスタイルの違いが大きく影響します。日本と欧米の思考法の違いや、高コンテキスト文化・低コンテキスト文化の違いなど、相手の文化的背景や文脈を理解するには、表面的な知識の「把握」だけでは不十分です。
むしろ、相手の語りや経験の流れに付き合い、その物語の中で相互に理解を深めていく「シークエンス理解」が求められる場面が増えています。
▶その背景と限界
この「シークエンス理解」への偏りは、相手と“わかり合えない”ことを前提としながらも、対話や協働を通じて少しでも理解を深めようとする現代的な異文化コミュニケーションの特徴とも言えます。
ただし、常に伴走者であることが求められるため、対話者としての資格を得るには一定の時間と労力が必要となり、効率的な「グラスプ理解」を志向する人には負担となる場合もあります。
▶まとめ
異文化コミュニケーションでは、知識の「把握(グラスプ)」よりも、相手の物語やプロセスに伴走する「シークエンス理解」が重視される傾向が強まっている。
伴走者として相手の内的な変化や語りに寄り添い、相互変容を目指すプロセスが重要視される。
これは、文化的多様性やコミュニケーションギャップの解消に有効だが、対話者に高い共感力と根気を要求する側面もある。
このような現象は、異文化理解の現場でしばしば観察される現代的な傾向です。
相変わらず日本スゴイ系の動画がYoutubeに流れてくるんだけれども、
「最初は軽自動車を馬鹿にしていた某国で隠れた人気に」
「最初はウナギをバカにしていたダディが逆にそのうまさにぞっこん大絶賛」
「ひどい!日本の小学校では生徒に掃除をやらせるのか!と言っていたのにアラブ圏で日本式教育が普及中」
みたいなリードの動画とかが流れてきて、なんかお決まりのパターンだな・・・と思っていたのが
なぜか最初は日本を否定するところから入る
っていうのが共通パターンみたいなんですね。
まあ動画だから再生数稼ぎにそういうキャッチフレーズをつけるのもわからなくもないんだが、
日本ってそんなに発想違いのことしているかな?
日本はかつて「東洋vs西洋」ていう問題に江戸末期以降ずーっと問い続けてきていたりしたけれど
諸外国は日本文化についてつい最近知ったことしかないのか?そういう問いをしたことが今までなかったのか?
ちょっと物足りなさを感じます。
あと危ういと思うのは、最近の焦点の軸が
「西洋vs東洋」ていう視点から
「日本vs世界」
っていう限定した視点に変わってきているのが気になる所ですね。
西洋東洋って議論していたころはあくまで国と国じゃなくて東西という"枠"になぞって対照していたので純粋にシステムについて論じることができていたけれども、
日本対世界になっちゃうといろいろナショナリズムとかマウントとか好奇の目とか、余計な要素が前面に出てきてしまっていて
昔みたいに見通しのきく普遍的な知見を得ることが難しくなってきている、という傾向を感じてしまいます。
まああくまでただの動画の狭い界隈の話ですし、私自身も世界情勢に大した広い視野を持っているのではないですけれど
日常思いめぐらしているペンタクラスタキーボードのあれこれといろいろケミストリーを混ぜっ返してみて
無責任ながらも論を進めていきたいと思います。
欧米系の人はロジック認知のバッファがキャパ不足なのかは知らないが、日本文化の理解プロセスに関して
サッと目鼻が抜けるような一発で理解をするというのが非常に少なく、
何かしらにつけて最初は否定から入り、じょじょに疑問の姿勢から高次の合理性があることに気づかされて
我々とは別の系列の知性体系があってニンシキを改めさせられた、一転して日本称賛に傾き、それだけならいいけれど過度に日本を神聖視しすぎて
日本人でもこんなタイピカルな模範行動できないよというような倫理のハードルを無理に上げさせられるような困った副作用をしばしば持ち込む
・・・いろいろややこしい。
理解の仕方が「グラスプ理解」ではなくて「シークエンス理解」のスタイルの人に大幅に偏っているな、という気がする。
要するに相手の内なる弁証法の物語に一緒にお付き合いしていかなければならず、対話者の資格を得るのにまず伴走者になることを強いられる。
つまり我々日本人からしたら「コミュニケーションコスト」が非常にかかる面倒な相手という事になる。
逆に言えば中国人相手の方が文脈共有から言ってもロジックの狙いについても以心伝心、即席応答しやすいのではないだろうか?
彼らは日本文化理解の素養が深く、いちいち非合理的だとか、クレージーだとか言って狼狽えたりしない。
面子の価値観があって現状変更の試みには激しく拒絶するところも見られるが、ペンタクラスタキーボードは過去の遺物ではなくて
出来立てほやほやのホットなトピックなのであるから面子の物差しに憚られることも割と少ないだろうというのが私の持論だ。
ペンタクラスタキーボードのPエコシステムのもつ「広告の廃絶」という一大テーマもまた、欧米の人には理解できない単元であろう。
彼らは経済合理性には長けているから、広告で経済を回すメリットであるとかスケールの評価であるとか競争力であるとか
ありとあらゆる面から私の考えを矯正して、説得にかかることだろう。死ぬまで固執し続けていて決してこちら側に立つという事をしない。
けれどもう私の考えは決まっていて、広告の廃絶に賛同しないような陣営とはハナから交渉しないと決めているので
どれだけ説得しようと時間の無駄である。
中国人は交渉相手として実にしたたかで、私が広告を廃絶するといったらもちろんそれを前提としてこんなプランはどうですか?とか
日本語入力のエンジン部分も作らせてくださいとか前のめりにいろいろ言ってくるだろうなというのは想像できる。
私はプラットフォーム自主権の確立についても口酸っぱく言っているし、各国が各国それぞれのカタチの入力システム、コミュニケーションデバイス
を独自に作り上げていけば良いということを常々言っているが、これも欧米のグローバル戦略、規格標準化の圧とすこぶる相性が悪い。
私は互換性などなくていいからドメスティックな自治権こそを最優先させるべきだと力説していきたいが
この立場も中国の立ち位置や現状のデジタル小作人的趨勢から言っても長期戦略の強度に耐えうる新たな軸の旗印としてもってこいな形だ。
見立てていうのならテック帝国主義対テックポリス都市群構想主義の対決である、と言えるであろう。
逆説的であるが欧米圏の人たちは、テック帝国主義ではなくて、ポリス構想のほうにベットして、投資してほしい。
そうすればいやでも帝国側の陣営もカウンター投資をし始めてくるだろうからそこで安易に靡かずにポリス陣営のほうに倍プッシュして
火だるまの鉄火場を演出して、そうして結果的に独自キーボードデバイスというものの市場がやみくもに過熱していきさえすればめっけものだ。
まず話題にされなかったキーボードというものが――1年365日触れていながらその価値を無視され続けていた日陰者にようやく光が当たる。
入力といういとなみは最後の未踏領域だ。
ここでまた文化の話に戻るが、
外国勢の方々は軸足を自陣営に置いて、対岸の日本の要素をうかがい知る、または極端な神聖視、いいところだけ吸収
…などのように元アイデンティティを毀損しない形態で日本文化を受容しているようですが
日本側の人の受容の仕方は両方とも等価で単純に思考フレームの種類が2倍に増えたという選択性を実際にもっているのが大きな特徴であると思います。
実際に取り入れて、選ぶことが可能である、言うは簡単ですが諸外国にとっては日本式をそのまま取り入れるというのには少なからず抵抗がある、と言ったところでしょうか。(過去記事からの引用)
・・・これは一神教の宗教の違いなんですかね。自軸を絶対に崩さない頑なさはあると思いますし、それゆえの「シークエンス理解」プロセス、なんでしょうね。
ロジックの違いをリズム運用で緩和する、用法。
ただ「一神教」っていう言葉を独善的批判文脈で安易に使い過ぎている昨今の空気もありますので少しエクスキューズしてみますと
日本もあまり一般の人にはピンと来ないかもしれませんけれど一神教に似た「天皇制」を持っておりますし、
何よりも選挙制度が選挙区に1名しか当選者を出さない「小選挙区制」をしいていますからね、これも日本人の意思決定構造にトップ1を偏重する深層意識を助長する影響力をもつと思いますよ。
日本のプレゼンスの神髄は
「欧米のカウンターカルチャーであること」
「地政学的に文明の中心ではなく華夷秩序の辺縁の国として存立してきた歴史」
にあると思います。
両者に共通するのは「Pre」の文化ではなくて「Post」の文化であるという事。
にもかかわらず欧米圏の「シークエンス理解」の執拗さがここまで顕在しているという傾向も
中国が地政学的枷はめから解放されて、ネットの時代になり、自らが辺縁の国として振る舞おうとする道を模索してき始めている傾向
などなどちょっとフェノメノンと言えるような、奇妙な符合がシンクロするようになってきました。
この符合の意味するところは
「日本を『辺縁の国』の立場である所から追い落として、中心の国、源泉の国であるように、Preの国であるように仕向けていく」
「世界の多数派はむしろ『辺縁の国』になりたがっている」
といことなのです。(検証ガバガバですが)
でも日本にオリジナルを旗振りできるような、そんな器はありません。
常に人の目や国際協調を気にしているキョロ夫に確固たるポリシーを持てるような国民の成熟度も度量もありません。
中心の国、源泉の国であるという事は規範に縛られ、合理性に占拠され、謙虚を強要され、覚束ない統治を背負わされ文句を言われ続け、責任だけ二倍になります。
日本にはポルノがあります。
身の丈以上にいい子ぶっている余裕はありません。そんな間に無邪気に野蛮を行使することができる連中はルールをハックして従来の価値観を上書きしてきています。
日本は野蛮を行使することも許されず、かといってリーダーシップをとって利害調整したとしても誰も言うことを聞かず、実効力がまるでなく、おだてられてカタチだけの名ばかり管理者にされるだけで何のうまみもありません。
結果、野蛮と規範の板挟みとなり茹でガエルのように気づいたら緩慢な死を迎える結末が待っています。
ちょっと前の記事(コンテンツは、恨みを買わない商材だ)で日本は今こそリーダーシップをとるべきである・・・などと息巻いておりましたが、やはりこれは少々荷が重いかと思います。
ペンタクラスタキーボードの日本国内での成功にだけ力を注ぎ、グローバルな懸案は各国の自主的な取り組みに任せてプラットフォーム自主権はやる気のある国だけががんばってね、というスタンスでいいと思います。
独自のプラットフォームを築く、とはいいますが日本語はかな漢字変換の運用、表記やルビの問題からして言語そのものからしてガラガラポンに活路を見出すに値するような特殊性を持つ言語でありますが
他の国々の方にとっては今更新プラットフォームだ、入力システムの刷新だ、なんていってもあまりピンとこないのではないだろうかと思います。
あるとすれば情報安全保障、商圏施政権の遵守、アテンションエコノミーやポルノのないエコシステム、ユーザープロファイルを徹底して信頼性のあるネット言論空間を作る・・・などなど言語外のアーキテクチャー環境に動機を見出すといったところでしょうか、これには法整備であるとか議論の進展を待たなくてはならないという長い道のりが待っています。
日本でさえペンタクラスタキーボードの議論なんて皆無ですし、入力デバイスの社会的意義づけや接触チャネルの窓口性の重要性、インフラ構築のロードマップなどなど私が個人で発信しているだけで何の裏付けもありません。
純粋に言語的事情にスポットをあてて新キーボードを作っていこう、っていう展望はないのでしょうか?
私が各言語のローカル事情に疎いだけで、記法や言語固有の文字群の理想的なキー数、キーボードの形状からしてのキー入力基数などなど、ひょっとしたら言語に根差した変革機運などもあるのかもしれませんが。
やはりそこは餅は餅屋、その国の有志の方々に希望を託して、理想の入力方式を構想していってもらえればいいと思います。
だらだらと駄文を書き連ねましたが私がもっとも言いたかったのは「シークエンス理解」と「グラスプ理解」の部分でコミュニケーションコストがかかるやんけ!という部分で
その他の文は筆が走ってしまって根拠のない戯言を繰り出してしまったという顛末なのですが、
アメリカの小論文の形式は
主張提示、根拠・理由を3つ、結論、で構成する
5パラグラフ式エッセイなんかはまず結論を言え、っていうんじゃなかったっけ?
でも文化の違いにすぐに結論を出せなさそうな局面においては結局説明コストが高くなるんだな。
物語で記述しようとせずに、パラメータで記述するほうが未確認事案については有効なアプローチなのではないかな?
物語は人の"初心"を奪ってしまうからね。
物語っていうアプローチ自体に限界があるみたいだ。
粛々とデータを連ねていく
パラメータっていう語り口の重要性が見直されていく傾向になるといいな。
いろいろと迷走してしまいましたが今回のお話はここまで。
ご通読、ありがとうございました。
反新自由主義、反グローバリズム、反アジア離間工作、反消費税、反日米合同委員会、反年次改革要望書、反横田空域、反財務省、反経団連、反バイエル、反水道民営化、反農協株式会社化、反株主至上主義、反強欲資本主義、反労働搾取・反ハゲタカファンド、反ダボス会議、反メリトクラシー、反メディアの外資乗っ取り、反SDGs、反夫婦別姓、反家族解体、反国連のほうから来ました案件、反高利貸し、反金融検閲、反下駄履かせ平等、反階層固定化、反外国人不起訴連発、反帰化1世の司法乗っ取り、反やりがい搾取、反名ばかり管理職、反傀儡社長、反文化均質化・反伝統の喪失・反権力/権威/社会圧力のブラックボックス化
…いろんな軸がありすぎて情報の洪水だし、全体像の把握もできていないから
まずは
どれが喫緊の課題か?
どれが包括力が強いトピックなのか?
空気や水のような重要性をあたりまえの先入観で消していないか?実際無くなると大変だぞ
「人」ベースで考えるのではなく「システム」ベースで考えていきたい
優先順位がわからない
中国が労働ダンピング・価格ダンピング・倫理ダンピングで米国や世界の国々の雇用先を奪った、とされている。
日本も他人事ではない。かつてのバブル日本が吊るしあげを喰らったという苦い記憶があるのだ。
いつ再び悪夢の再来となるかどうか今も決して楽観はできない。
プラザ合意と共にバブルが生まれ、金融引き締め&不動産総量規制と共にバブルがはじけて
日本は社会が根底から覆るような労働環境の悪化と製造業の産業空洞化という代償を払ったが
中国に産業空洞化というシナリオはあるのだろうか?でなければ一体どのような代償を払うのだろうか?
対中国の懸案は
世界の工場/人海戦略/焼き畑戦略/劣悪な労働環境/産業空洞化 SHEINやtiktokの攻勢
<アパレル・農産品・レアアース・電気自動車とバッテリー産業・越境ECのグローバル展開・デジタル決済/フィンテック
・半導体/通信機器・民泊・ライドシェア・シェアリングエコノミー・移民ブローカー・手招きビジネス
グローバルサウス/BRICSの台頭>
・・・そのどれもがむき出しの経済戦争のポリティックスでありどちらも譲れない熾烈な戦いである。
ひるがえって、
日本はカルチャーで世界中を席巻しているのに、世界からは恨まれることはない。コンテンツは、恨みを買わない商材だ。
これはなぜか?コンテンツという商品の特殊性がある。
コンテンツはコモディティーではないということ
工場労働者はコモディティ人材であるという事
中国の安い製品が自国の工場をつぶして雇用先を奪っていったという風な矛先認知はなぜ生まれるのか
日本の面白いアニメが自国のクリエイター産業を斜陽にもっていったという恨みはないのだろうか?
中国に提案してみてはどうか。
中国がコンテンツ産業を育成していくのに、日本からも積極的に協力していく。口先だけではない本気度を見せるために
日本のユーザーも掘り起こして、中国にとっての良きお客になれるよう市場を喚起していくお手伝いをする。
ただ日本も一方的に力添えをするのではなくて、Pエコシステムを核にした世界の電子アーキテクチャー勢力図の独立・多極化を広げていこうという目算がある。
それぞれの国がそれぞれの国独自のコンピューティング環境、文字入力環境、ネットコミュニケーション環境を目指して、
プラットフォーム自主権を確立していくのに必要なビジョンを示し日本自らがリーダーシップをとって旗振りをしていく。
この狭間で生まれる、テクノロジーと創作と商習慣と社会変容のうねりの交錯する新天地のフィールドを開拓して
そこのぴかぴかのブルーオーシャンの舞台で戦っていけばいい。
私の言う文化振興戦略はただのパッケージではなくて、すべてがペンタクラスタキーボードと絡めた、極私的な動機のもとでの化学反応に期待し企図した事象だけをもっぱら対象としている。
何を寝言を言っているという勿れ、もしものときに買っててよかった、奇貨居くべし。いまなら3割引きですよ!奥さん。
いろいろ交渉も一筋縄ではいかないだろうけれど、一つだけ言えることはこのままだと中国も世界から吊るしあげを喰らい続けているわけにはいかないだろうから、
長期的にみると中国自身も「恨みを買わない商材」・文化コンテンツの価値を再評価し貿易摩擦の緩衝材として重心を移していかざるを得ない、ということだ。
コンセンサスのアウトラインは見えているので、あとはタイミングだけだ。
ところで
日本は「コンテンツ」という財産を産業戦略の中核に据えるのはそろそろやめて世界に大胆にノウハウを還元し、次の商品を探さねばならない。
「リーダーシップ」や「提案力」、「文化コンサル」が次の商品となるのだ。
混迷する世界情勢においてどの国も今とてもリーダーシップをとれる態勢にない。これは日本の出番だ。
コンテンツは時の止まった世界でのライブラリとしての資産ではあるが、
ペンタクラスタキーボードを核とするP陣営の文化貢献はアーキテクチャールネサンスの変化のフェイズの只中にこそ活路を見出す。
ダイナミズムの中で一番重要な商品訴求力は、個々の商品の魅力だとか言うだけではなくて、
景気動向や少子高齢化やIT社会化という、トレンドをはるかに超えた大きな「流れ」を生み出すか乗るかしなければ額面以上の効果は得られない。
その「流れ」を示すようなリーダーシップやビジョンこそが一番の商品となるのだ。
それは「過剰」の力学でもある。世界経済は「過剰」によって支えられていると言ってもいいだろう。
コンテンツは、そういった世界経済の恨みを買わない、ちょっと不思議な商品で、なぜか「過剰」とも相性が良さそうだ。
コンテンツは複製が可能で拡散力がある。
コンテンツは同じものを複数買いしたりリピート買いやシェア買いしたりするのはあまり聞かない
コンテンツは所有欲を満たしてくれる
コンテンツには聖地巡礼やコラボカフェ、アニメ飯などもある
コンテンツの原料は輸入したり仕入れして組み立てるといったものではなくて、頭の中にあるものを統合し構成していく
コンテンツは新しいものが次々と生まれて旬を過ぎたものは一部の名作を除いて売れにくくなる。
コンテンツは燃料/食料/医療介護と違って常に定量の需要があるわけではなく、社会に必須という性質のものではない。
コンテンツは文化的毛繕い(コミュニケーションツール)の効用がある。
コンテンツは言語/国籍を超える
コンテンツはグッズ需要や解説屋考察屋需要やメディアミックス展開やパチンコパチスロ化、声優つながり原作者つながりスタジオつながりなどの波及効果の広がりがある
コンテンツは続編やスピンオフやアンソロジーなど派生創作もできる
コンテンツはネットミームを生み出す。
コンテンツと地域経済の連携については当ブログ「やぼ屋とヨモギと天秤棒行商」の項で目下のところ思索考察中である。
コンテンツ(文化)とアーキテクチャ(入力デバイス)の関係については文化変換(固有名詞の変換候補を呼び出す)の機能的な提案はあったが、社会構造や文化背景からの考察はまだしておらず、
いずれは材料を集めて横断的に分析していけるようにしていきたい。
日本の消費産業構造は、日用産品は中国に抑えられているし、デジタル小作人との悪名高いプラットフォームやオペレーションシステムはアメリカに握られている。
文化なんてその中間の薄いところだけを拾っている状態だ。やはりコモディティやプラットフォーマーのほうが何と言っても強い。
しかもそれらは先ほどの燃料/食料/医療介護と同じように常に需要のあるコモディティ商品で必ず買わなくてはならないという不可避性のある商品だ。
日本の文化商品は別に買いたい人だけ買えば・・・という商品で不可避性どころか悠々回避していても別に困ることもない。
いかに脆弱な消費基盤に支えられているのか、こんなんで本当に産業の中心に据えていく事を委ねていいのか、
とにかく、手を変え品を変え継続的に商品を出し続けていくしかない。
まったく、なかなかツライ板挟み状態だ。
ここまで文章を書いてきて、我ながら牽強付会に過ぎるかな・・・とセルフダメ出しをしたい。
まあ昨日思いついてばーっと乱打した勢いだけは買っているが。ちょっと衝動的にね。
日本の産業でいえば、自動車もインバウンドも頑張っているし投資収益や海外子会社利益も相当なもので、
何もアニメやサブカルだけ頑張っているわけでもないんだけどね。
今はペンタクラスタキーボードのことにやたらこじつけて考えてしまう癖が出てしまっているし、Youtubeでやたら日本すごい系の動画ばっかり流れてくるから
なんやかんや複合的要因が重なってこんな支離滅裂な文章になってしまいましたとさ。
・・・そろそろ、衣替えの季節です。
・外人さんが自らを自虐的に「ガイジンデース」っていうような例
・それに対するカウンターで「拙者、ナイチャーでごめんねー」という切り返しは可能か
・オネェの人が「オカマ」自虐ギャグ 世代によって評価が違う
・メリトクラシーの対極にある人が自らを「オトリー」と呼んでエンパワメント発奮することは可能か
・「無敵の人」は現状最強であるがその対極にあるもっとも四面楚歌で困難な人もまさに潜在的「無敵の人」である位相のねじれ
・従来の自虐は額面通りのへりくだりの自虐であったが、ポスト自虐は「子持ち様」のように対象を慇懃に神聖視していて攻撃性が強い
・オタクには自らを豚と呼んで歓喜するカルチャーがある。それを呼び水にするアーティストもいる
・日本のヴィジュアル系ロックバンド、マイナス人生オーケストラのライブのアンコールでは「サービス残業!」のコールが響き渡る
・「自虐なんかしてるんじゃない。自虐をするっていうのは誰かをバカにしてる気持ちがあるからこそ、そういう気持ちが生まれてくるんだ」
武田砂鉄 フォーリンラブ・バービーインタビューより
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・杉下右京さん-ついつい自虐的な発言をしてしまう-「僕の悪い癖」
・ゆる言語学ラジオでおなじみの堀元見さんが、インターネット芸人を自称している
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・美輪明宏の「ヨイトマケの唄」は決して自虐ではない。母親賛歌である
・日本をIT小作人と呼ぶのも決して自虐で済まされない。現在進行形で直面する、由々しき問題だ
・「うんこ漢字ドリル」は自虐というより逸脱のカジュアル化か?小学生マーケットリサーチが周到だったという事か
・「自己肯定感」という言葉をもう一度噛みしめてみるいい機会かもしれない
・守りたい!「自虐を装ったノロケ」という文化