魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

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伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生「母の初恋」(1)

2014-08-16 00:38:06 | 論文 川端康成
伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」 (1)

 はじめに

 ……康成が伊藤初代の姿を見失ったのは、婚約と「非常」事件のあった翌年、大正11年(1922年)のことであった。
 それから、ちょうど10年後の昭和7年(1932年)春、突然、初代は上野桜木町の康成の家を訪問したのであった。康成は昭和4年に『東京朝日新聞』に「浅草紅団」を連載して好評を博し、浅草ブームに火をつける役割をはたして人気作家としての地位を確立していた。
 その、作家として成功した康成の家を、初代は訪問したのであったが、「10年後の再会」で見てきたように、この再会は、康成に深い幻滅を与えたようである。
 長い間、康成の内部に輝いていた〈美神〉の像が、ガラガラと崩壊したのである。
 ……じつは、拙著においては、このあと、昭和8年の小説「禽獣」(禽獣)、エッセイ「末期の眼」(まつごのめ)、翌9年のエッセイ「文学的自叙伝」について書いたあと、昭和10年(1935年)から発表の始まった「雪国」についての、長い章が入っているのだが、伊藤初代に焦点を合わせたこのブログでは、これらの章を割愛する。
 そして、次に登場するのが、昭和15年(1940年から『婦人公論』に連載された「あいする人達」の冒頭の一編、「母の初恋」なのである。
 この美しい作品に、康成の内部における、〈美神〉の変化が暗示される。以下の章で、そのありかたを見ようと思うのだ。
 では、「父母への手紙」から8年後の「母の初恋」を検討するところから、論を再開しよう。


その後の康成

 昭和12年(1937)年6月に〈旧版『雪国』〉を刊行してから、康成はそののち、どのように日々を過ごしたのだろうか。
 構想上の問題が残っていたとはいえ、いちおう「雪国」からは卒業した気分になっていただろう。
 「雪国」を断続して書いているあいだに、康成は昭和10年(1935年)12月に上野桜木町を去って、鎌倉に居を転じた。はじめは林房雄の招請で鎌倉町浄妙寺宅間ヶ谷に、2年後の5月には鎌倉市二階堂に居を移した。
 さらに「雪国」が尾崎士郎「人生劇場」とともに文芸懇話会賞を受賞したので、その賞金に出版社からの借金を加えて、軽井沢に別荘を購入したりしている。
 この軽井沢に取材した諸短篇が、のち『高原』にまとめられる。
 北条民雄の世話をしたのも、この少し前のことであった。
 北条からはじめて手紙を受け取ったのは、昭和9年、「雪国」を書きはじめる前夜であるといっていい。「雪国」分載と雁行するように、鎌倉で北条と会い、「間木老人」「いのちの初夜」を『文学界』に掲載するよう取り計らい、特に後者は文学界賞を受賞するなど、文壇に大きな衝撃をもたらした。
 〈旧版『雪国』〉を刊行した半年後に北条は死亡し、その遺骸と対面した康成は、翌昭和13年(1938)年に『北条民雄全集』上下2巻(創元社)を編集刊行し、印税をすべて遺族にわたるように取り計らう。美談というより、康成にとっては自然な行為であった。
 昭和12年から翌年にかけて、康成は、『婦人公論』に長編「牧歌」を連載している。
 この昭和13年(1938年)には、7月から12月にかけて、囲碁の本因坊秀哉(しゅうさい)名人の引退碁があり、その観戦記を書いた。これがそののち「名人」執筆につながったことは、よく知られているとおりだ。
 昭和14年には、『少女の友』に盲学校の少女を主人公とした「美しい旅」の連載をはじめ、昭和16年には『満洲日日新聞』の招きで満洲に赴(おもむ)き、北京にも足を踏み入れている。また、関東軍の招きで再度満洲を訪ねたことも、記憶に残る足跡である。
 しかし、わたくしが最も注目したいのは、1940(昭和15)年1月から『婦人公論』に9回にわたって連載され、翌年12月、新潮社から刊行された『愛する人達』である。なかでも、最初の「母の初恋」は、康成の生涯全体を眺望するときに、欠かすことのできない重要作品である。


「母の初恋」

 現在ではなかなか手に入りにくいが、川嶋至に「『母の初恋』論のための序章」という論考がある。
 この論で川嶋は、単行本『愛する人達』に収載された「母の初恋」をはじめ、「女の夢」「ほくろの手紙」「夜のさいころ」「燕の童女」「夫唱婦和」「子供一人」「ゆくひと」「年の暮」の9編について考察を加えた。いずれの作も、「作者川端に近似した風貌と感性を持つ主人公が登場して、その男の眼を通して相手を観察し、過ぎ去った日々を詠嘆的に回顧するという点で、共通した基盤の上に成立した作品である」という結論を導きだしている。
 そしてこの結論を出発点として、川嶋はさらに「『母の初恋』をめぐる一つの推論」を発表した。
 この論考は、みち子――伊藤初代の存在を世に送り出した川嶋らしく、熱気を帯びた「母の初恋」論である。
 今この論を詳細に紹介する余裕はないが、この論考に示唆(しさ)されて、わたくしはわたくしなりに、「母の初恋」を論じてみたい。
 私見によれば、「母の初恋」は、康成がこの時期、書かずにはいられなかった作品である。内的衝迫(しょうはく)によって、自己の内部に存在する伊藤初代事件の総括と、そこから発展した美しい夢を織りなした作品である。
 「母の初恋」を発表した1940(昭和15)年といえば、いわゆる「非常」事件があって康成のもとから伊藤初代が飛び去った1922年(大正11)年冬から18年の歳月が流れている。おおかた20年といっていい。
 その20年前の古い傷が、ここでは動かしがたい事実として、作品の背後にどっしりと腰を据えている。


雪子の婚礼

 物語は、現在からはじまる。

   婚礼の時に、白粉(おしろい)ののりが悪いとみつともないから、もう雪子には水仕事をさせぬやうにと、佐山は妻の時枝に注意した。

雪子の結婚がせまっているのだ。妻時枝にしたがって台所仕事を、これまでどおりにつづけている雪子の肌のことにまで気づいて、佐山は妻に注意する。
 それが一昨日の夕方のことだった。ところが今日の昼も、雪子はやはりお勝手ではたらいている。
 この分では、式の日の朝飯の支度までして、うちを出てゆくことになりそうだ。そう思って佐山が見ると、雪子は小皿にしゃくったつゆを、ちらちらと舌を出して味わってみながら、楽しそうに目を細めている。

   佐山は誘ひ寄せられて、
  「可愛いお嫁さんだね。」
   と、軽く肩にさはつた。
  「お料理しながら、なにを考へてるんだい。」
  「お料理しながら……?」
   雪子は口ごもつて、じつとしてゐた。

 雪子は料理が好きで、女学校のころから、時枝の手伝いをしている。女学校を卒業してからは、もうまかせられたように、味つけまで雪子がする。そしていつのまにか、雪子は、時枝とまったく同じ味つけになっている。
 雪子は16歳で佐山のところへ引き取られて、時枝の味をそっくり受け入れて、それを持って、嫁にゆくのである。
 佐山は今日、1時03分の大垣行きに乗って、雪子と若杉の新婚旅行の宿を決めに、熱海へゆくのである。

   雪子がカバンを持つて、門口へ先廻りしてゐた。
  「いいよ。」
   と、佐山は手を出したが、雪子は佐山の顔を悲しさうに見上げたまま、首を振つて、
「バスのところまでお送りしますわ。」
   なにか話があるのかと、佐山は思つた。(中略)
   佐山がわざとゆつくり歩いても、雪子はなにも言はなかつた。
  「どんな宿がいいの?」
   と、佐山はもう幾度も聞いたことを、またたづねた。
  「をじさんのおよろしいところで、いいんですの。」
   バスが来るまで、雪子は黙つて立つてゐた。
   佐山が乗つてからも、しばらく見送つてゐた。そして、道端のポストに手紙を入れた。気軽に投げ込むのでなく、すこしためらつてゐるのか、静かなしぐさだつた。

 さりげない描写だが、のちの伏線となる重要な記述である。




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