魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

川端康成と伊藤初代  岐阜「非常」事件の真相

2016-01-29 15:38:20 | 論文 川端康成
巻頭時評
(2014年回顧)
川端康成の未投函書簡の意味するもの
   ――「非常」事件の真相――

                         森本 穫


 川端康成に関心をもつ者にとって、2014年(平成26年)の最大事件は、7月8日から9日にかけてNHKと新聞各紙に公開された、康成の未投函書簡1通と、伊藤初代の書簡10通であった。
 その書簡は、1枚の用紙に、万年筆のブルーの色もあざやかに、次のように書き出されていた。

 「僕が10月の27日に出した手紙見てくれましたか。君から返事がないので毎日毎日心配で心配で、ぢつとして居られない。」

 どうやら、伊藤初代から手紙の返事が急に来なくなったので、あせって、切迫した調子で書いたものらしい。
 冒頭の「10月の27日」という日付と、内容から、この手紙の書かれた時期が推定される。書かれたのは大正10年(1921年)10月末か11月初めである。今から94年前の秋のことだ。

 その秋、川端康成の生涯最大の出来事といってもいい事件が進行しつつあった。伊藤初代との婚約、そして突然の婚約破棄である。
 10月8日、三明永無(みあけえいむ)とともに夜汽車で岐阜につき、初代と結婚の約束に漕ぎつけた康成は、帰京すると岐阜の寺にいる初代に手紙を送りつづけ、ひと月足らずのうちに、初代も9通の手紙・葉書を康成に送った(あと1通は、三明永無宛ての葉書だ)。
 10月23日付けで康成に届いた手紙には、こんな言葉もあった。

「私は私をみんなあなた様の心におまかせ致します。私のやうな者でもいつまでも愛して下さいませ。」
「私は今日までに手紙に愛すると云ふことを書きましたのは、今日初めて書きました。その愛といふことが初めてわかりました。」
「私はどのやうなことがありましてもお傍へ参らずには居られません。」(「彼女の盛装」)
 これはもう、立派な「愛の手紙」と呼んでいいものだろう。そのわずか数日後の27日に、手紙の返信がない、といって康成は、あせっているのだ。その少し前から初代の手紙が急に途絶えた、ということだろう。

 ――この未投函書簡公開の少し前、昨年初夏の6月、私は個人的に重要な体験をした。田村嘉勝、水原園博両氏のご紹介により、伊藤初代のご令息・桜井靖郎氏にお目にかかり、重大な証言をいただいたのである。それは、第一次川端康成全集第4巻「あとがき」(のち「独影自命」4ノ3)、大正12年11月20日の記録として残された言葉に関するものだった。

「10月、石濱(金作)、昔みち子が居りしカフエの前の例の煙草屋の主婦より聞きし話。―みち子は岐阜○○にありし時、○に犯されたり。自棄となりて、家出す。これはみち子の主婦に告白せしことなり。」
 桜井靖郎氏は、この言葉が正しいこと、より具体的な内容を、異母姉・珠江(初代と先夫との間に生まれた子)からはっきり聞いたと、お話しくださったのである。

 この重要なお言葉を伺って、私はこの問題について頭を振り絞って考えていた。そしてふと、或ることに気づいたのである。
 それは、第4次川端康成全集(いわゆる37巻本全集)の「補巻1」に、「あとがき」の原型が記載されていはしないか、ということだった。周知のように、「補巻1」には、康成の少年時代・青年時代のおびただしい量の日記が、解読されて収録されている。
 もし、「補巻1」に、大正12年の日記が収録されていて、しかも11月20日の項目が記されているとしたら……。

 私は急いで帰宅し、「補巻1」を開けてみた。すると「大正12年・大正13年日記」が収録されている。そして、587頁には、11月20日の記録として、無造作に、その原型が記されていたのだ。

 「十月、石濱、旧エラン前の例の煙草屋の主婦より聞きし話。/千代は西方寺にて僧に犯されたり。自棄となりて、家出す。これは千代の主婦に告白せしこと。」

千代とは、カフェ・エラン時代からの、初代の呼び名である。

 さて、この婚約から、婚約破棄の手紙を受け取る、いわゆる「非常」事件の核心は、約束から、ちょうど1ヶ月後の11月8日に康成が受け取った「非常」の手紙の内容だ。そこには、こうあった。

 「私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。(中略)その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。」(「非常」)
 康成はこの手紙を持って三明永無の下宿へ駆けつける。そして「非常」の意味を二人で考える。

 「男だね。」/「僕もさう思ふ。女が言へないと言ふのは、處女でなくなつたことしかないね。」
 二人で語りながら、その先へは進めなかった。「しかし、みち子が今男に騙(だま)されるなんてことはあり得ないと思ふがな。とてもあの年頃とは思へないしつかりした賢さを持つてゐるからね。」と柴田(三明)が言うように、今の初代が處女でなくなる可能性が見出せなかったのである。だが、そこから先が謎だった。

 しかし、この「補巻1」日記の記述が正しいとすると、すべての謎は解ける。

 10月23日付けの手紙を最後に、ぴたりと、初代からの手紙が途絶えたのだ。康成は10月27日に、思いをこめた手紙を書いた。だが、岩手県岩谷堂(いわやどう)の、初代の父への説得の旅を終えて11月1日に東京に帰ってきても、初代の返事はとどいていなかった。

 あせって書いたのが、公開された、あの一通である。書きはしたものの、しつこすぎるのではないか――そう考え、康成はぐっとこらえて、この手紙を投函せず、結局この手紙は、初代から届いた一連の手紙とともに、手元に残されることになった。90数年間、これらの手紙は眠っていた。
 だが真実は、意外なところにあった。こともあろうに、初代にとって養父にあたる岐阜の僧が、あの「愛の手紙」の直後、初代を襲い陵辱したのだ。
 「非常」事件の真相――初代の心変わりの真因は、ここにあった。

 初代からの手紙がぱたりと途絶えたのも、「非常」の手紙の内容も、この事実があったと考えれば、すべてが合理的に解明される。
 これまで研究者は、「あとがき」の一節に注目しながらも、長谷川泉、三枝康高、川嶋至、羽鳥徹哉、田村嘉勝も、誰一人、この一節の真実の可能性を真剣に考察しなかった。言及しなかった。94年を経て、今ようやく、「非常」の謎は解明されたと私は考える。
                               (『文芸日女道』五六二号。姫路文学人会議、2015年3月5日)


巻頭時評「川端康成・未投函書簡の意味するもの」補記 
                                         森本 穫

 上記の本文最後のほうで長谷川泉、三枝康高、川嶋至、羽鳥徹哉、田村嘉勝と、研究者の名を挙げたが、説明不足で、誤解を招いてはいけないので、補記させていただきたい。

 長谷川泉『川端康成論考』(明治書院、1969・6・15)、川嶋至『川端康成の世界』(講談社、1969・10・24)は、まだ康成存命の時期であり、真相記述を遠慮した可能性がある。また三枝康高「川端康成の恋」(『図書新聞』1973・1・1)は、初代が「非常」を「事情」と書き誤った、という説である。

 羽鳥徹哉「愛の体験・第3部」(『作家川端の基底』教育出版センター、1979・1・15)は、初代の「年端もゆかぬ少女ゆえの無考え」「動かされ易い心」「境遇から来る心の歪み」が「不可解な裏切り」を招いた、と説いている。羽鳥徹哉の説から約35年、反論が出ていないので、この説が現在、ほぼ定説化していると思われる。

 田村嘉勝は、この問題について触れていないが、記述を控えている、という事情があるのかもしれない。

 一方、川西政明「川端康成の恋」(『新・日本文壇史』第3巻、岩波書店、2010・7・15)は、明確には指摘していないが、真相をほぼ嗅ぎ当てているようである。

 未投函書簡発表とほぼ同時(7月10日)に発売された『文藝春秋』8月号の川端香男里「川端康成と『永遠の少女』」(2014・8・1)は、「あとがき」と「補巻1」の日記を挙げた上で、「研究者諸氏のお心遣いにも感謝したい」と述べている。

 以上のような経過を含んでの拙文であることを、ご理解たまわりたく存じます。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2024-05-23 19:34:36
〝非常〟の意味…やっぱり、
そうだと思いました、、てか、大体察しがつきますよ。
あの僧侶め!
その妻が、知らんぷりしているのも、怪しいと思った。
知らないわけないでしょう。
康成や世話をしてくれる先輩の友人は、、気付かなかたんだろうか、疑いをかけなかったのだろうか。
まさか、神仏に仕える身のものがそんなこと、、と思っていたのだろうか。
こういう輩が一番危ないんだよ、生臭坊主と言ってね。
可哀想な初代、、、
しかし康成の文学的向上はここから上がったのかもしれないけれど、、
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Unknownさま、コメントを、ありがとうございました。 (森本 穫)
2024-05-24 16:32:33
Unknownさま、詳しいコメントを寄せてくださり、ありがとうございます。この前後のこと、なかなか深くて、川端康成のその後の文学に大きな影を落としています。これからも、周辺について読んでくださいませ。
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