origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

リチャード・ドーキンス『虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか』(早川書房)

2008-07-13 14:32:58 | Weblog
ロマン派詩人はニュートン流の近代科学を好まなかった。ウィリアム・ブレイクは海底で下を向くニュートンの姿を描き、彼の科学を自分の神秘主義的世界から排除しようとしたし、キーツはニュートンの物理学は虹を解体させてしまうと批判した。著者はブレイク、キーツ、ロレンス、イェイツといった英文学の詩人たちが科学を批判したということを受けつつ、実際は詩と科学は共存し得ることを主張する。科学は詩的な想像力を抑圧するものではなく、むしろつくりだすものである。著者は科学が起すセンス・オブ・ワンダーを重視し、それを科学に興味のない人々へ伝えようとする。彼は自身の役割をカール・セーガンに近いものだと考えているようだ。
著者は一見「科学的」な様態をしている擬似科学への批判を怠らない。著者はまず『スタートレック』のような子ども向けのSFを否定する。そしてハーバート・スペンサーの社会進化論、テイヤール・ド・シャルダンの神学的な科学を一刀両断するとき、彼の文才はその高みを見せる。スペンサーやシャルダンの疑似科学ほどではないが、著者はスティーヴン・J・グールドの進化論に対しても真実を曇らせてしまうものだという認識を持っている。
グールドは先カンブリア時代の化石を研究することによって、生物が断続的に進化し得るということを明らかにしようとした。グールドは生物の漸次的進化性を重視したダーウィンの考え方の一部を修正することによって、先カンブリアの生物の進化の真相を探ろうとしたのである。しかしドーキンスはグールドの断続平衡説は、小進化と大進化を峻別でき得るという考えに基づいているということを指摘し、その2つの差は必ずしも明らかでないということを喝破する。グールドは文才があるがゆえに、多くの読者を魅了してしまうが、その文才はかえって有害であると著者は考えているようだ(しかし文才ということに関しては、ドーキンスの方が一枚上手に思えるが)。著者はグールドの論敵であるサイモン・コンウェイ・モリスの論を支持している。

英単語メモ

2008-07-09 23:01:09 | Weblog
patriarch 家父長、イスラエル人の先祖(⇔matriarch)
panacea(=cure-all)万能薬
gratuitous 無料の
gauche 不器用な 不器用なゴーシュ、と覚える
quaint 奇妙な クウェイント
smirk にやにや笑う
vilify ~をけなす
enclave 飛び領土

岩明均『ヘウレーカ』(白泉社)

2008-07-09 22:34:32 | Weblog
タイトルは言うまでもなく、アルキメデスの言葉より。紀元前3世紀、ローマの大軍に抵抗したカルタゴの人々を描くマンガ。滅び行く敗者の視点から描かれた本作は、ローマを賞賛するのでもなく、カルタゴを美化するわけでもない。ただ、半永久的に続く争いの一つとして、ローマ・カルタゴの戦争を描き出す。無常観の漂うラストは、『アドルフに告ぐ』を思い起こさせる。
後の名作『ヒストリエ』に繋がる良質な中篇マンガだった。

ジャン・ド・ヴァロワ『グレゴリオ聖歌』(文庫クセジュ)

2008-07-06 02:40:01 | Weblog
伝説では、6世紀のローマ教皇グレゴリウス1世によってグレゴリオ聖歌が編纂され、キリスト教音楽の歴史に大きな影響を与えたことになっている。聖人的なグレゴリウス1世の像はフィクショナルなものであろうが、しかしグレゴリウス聖歌がマショー、デュファイらルネッサンスの作曲家に繋がっていったのは確かである。
それでは、グレゴリオ聖歌とはそもそもどこから繋がってきた音楽なのだろうか。まず考えられるのはローマ・カトリック教会の聖歌だが、著者はローマ・カトリック以外の古代ギリシア音楽、東方教会の宗教音楽、ユダヤ教(特にエッセネ派)の宗教儀式などに目を向け、グレゴリオ聖歌をつくった功績がローマ・カトリック教会だけに帰せられるべきではないことを主張する。
グレゴリオ聖歌が決して一様なものではなく、多様性を持ったものだということが理解できる。

ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(文春文庫)

2008-07-06 02:23:14 | Weblog
イタリアの出版社に勤める3人の編集者、カゾボン、ベルボ、ディオタッレーヴィ。ガラボンはテンプル騎士団で卒論を書いた人物であり、ヨーロッパ思想の暗流であるヘルメスやグノーシスに多大な興味を寄せている。その友人であるベリエは主人公よりもさらにヘルメス・グノーシスに傾倒しており、テンプル騎士団が解散後も歴史の影で暗躍し、ルネッサンスの薔薇十字団や近代のフリーメーソンに繋がっていったという一種のオカルト思想に取り付かれる。そして彼は現代のテンプル騎士団から勧誘を受け、深い歴史の闇に取り込まれていくのである(彼はテンプル騎士団がフーコーよりも前に「フーコーの振り子」を発明したという奇説を信じる)。
ガゾボンとベルボは似ている。彼らは人文科学に深い興味を抱くイタリア人であり、特にルネッサンスのカバラ・薔薇十字・錬金術・占星術に専門的な知識を持った編集者である。しかし決定的に違うのが、ベルボはそれらのヘルメス・グノーシス文化に取り込まれ、近代人としてのアイデンティティを失っていくのに対して、ガラボンはあくまでも近代科学を信じ、近代人としてそれらの文化を学んでいっているところである。
作中でアンセルムスの神の存在証明は馬鹿馬鹿しいという件があるが、現在から見ると中世やルネッサンスの哲学者が考えたことは多少なりとも馬鹿馬鹿しく見えることがある。錬金術などという途方もない実験をなぜルネッサンスの賢人達は行おうとしたのだろう、と疑問に思えてくる。しかし、おそらく「西暦3000年の火星」(作中の表現)においては、20世紀末のイタリア人の現代思想だって、同じく馬鹿馬鹿しいものとして目に映る可能性があるのだ。近代科学の一部がまるでオカルト科学のような扱いを受ける可能性だってあるのである。
では、占星術・錬金術とニュートン・アインシュタインの間に差をつけることは馬鹿馬鹿しいことなのだろうか。それは3000年の火星ではわからないが、現代においてはNOである。最終的には科学的な精神によって、ガゾボンは死を免れる。そして遠い過去の薔薇十字よりも、妻リアや子どものことに気をかけるのである。近代科学は暫定的にはルネッサンス魔術よりも正しく、有益である。これはおそらくルネッサンスの魅力に取り付かれたカゾボンの出した結論として興味深いものだ。

村上陽一郎『科学史の逆遠近法―ルネサンスの再評価』(講談社学術文庫)

2008-07-06 02:11:14 | Weblog
コペルニクス以降の科学こそが正しい「近代科学」であり、誤った中世・ルネサンスの科学はこの近代科学勃興のために存在していたのである。著者はこのような近代的な科学観に真っ向から異を唱え、中世・ルネサンスの科学に独自の価値を見出そうと努めている。近代主義的な見方では、コペルニクスもケプラーもニュートンも誤った偽科学・擬似科学を排除し、正しい近代科学をもたらした人物のように考えられているが、しかし彼らはヘルメス主義などの非科学的な思考法からも影響を受けており、単純に彼らを近代科学的な思想家と捉えるのは過ちである。コペルニクスやケプラーはヘルメス主義的な占星術に没頭していたし、ニュートンはエーテルという怪しげな力を考案した。
カトリック信者でもある著者はルネッサンスの薔薇十字系の思想に精通しており、フィチーノ、ピコ・デラ・ミランデラ、アグリッパ、といったルネッサンスのヘルメス主義的な思想家に関する叙述は詳しい。フランシス・ベーコンがシェイクスピアだけでなく、アンドレーエとも同一人物であるという奇説は興味深かった(見落とされがちだが、シェイクスピア=ベーコン説という奇説の影にもヘルメス主義が存在している)。
魔術・錬金術・占星術・カバラーを近代化学を成立させた擬似科学として扱うのではなく、ヘルメス主義の一思想として独立した価値を与えること。著者はフランシス・イェイツの後継者でありつつも、ルネッサンスの過大評価を抑えようと冷静な筆致を保っている。
F・イェイツの友人であるD・P・ウォーカーの研究書もいかにも読んでいそうなのだが、参考文献になかった。

薮内清『中国古代の科学』(講談社学術文庫)

2008-07-02 19:20:30 | Weblog
ニーダム・テーゼというものがある。イギリスの歴史家ジョゼフ・ニーダムによるもので、コペルニクスなどの科学革命以前は、中国の方がヨーロッパより科学的に進んでいたというテーゼである。タオイストであったニーダムの中国贔屓を差し引いても興味深い論だとは思う。
著者は京都大学の科学史家であり、本書で古代・中世の中国の科学について叙述している。このニーダム・テーゼに沿いつつも、過度に中国の科学を賞賛することなく、ヨーロッパとの比較の中で分析している。
興味深かったのが、春秋時代の文化をヨーロッパの古代ギリシア文化に例えている点である。孔子、老子、荘子、墨子を始めとする諸子百家が活躍した春秋戦国時代は中国でも稀に見る時代であり、それ以降の中国文化に多大な影響を及ぼすこととなった。そして中国文化としては比較的珍しいことながら、この文化の担い手たちは外域の文化を重んじ、それを巧みに輸入していたという。長い歴史の中、漢民族はその「中華意識」から排他的になることが多かったが、この時期は例外的であったという。孔子の時代がギリシア文化ならば、さしずめ漢あたりが古代ローマ文化になろうか。
ほかに「蓋天説」と「渾天説」の対立が興味深かった。前者が天が静止しているという地動説的な思想であり、後者が天は動いているという天動説的な思想であるという。最もこの時期、世界とは球面上のものだと考えられていたらしく、渾天説をもってコペルニクス・ガリレオの先駆とするのは多少無理があるという。