origenesの日記

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金谷武洋『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』(講談社選書メチエ)

2008-06-09 18:37:34 | Weblog
日本語には主語は不要であると主張する著者が日本語と英語を比較言語的に考察したもの。
著者によると日本語は虫の視点による言語であり、英語は神の視点による言語である。「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」というのは英語に訳すと、「列車は長いトンネルから雪国へと来た」という。日本語では時間は文章に沿って進んでいくが、英語は基本的に一文で一点の時間を表現することが多い。これは英語は神の視点から、主語となるもの(この場合は電車)を見下ろしているからだという。著者はこの考えを比較文化論へと繋げていき、昨今のブッシュ政権の横暴さもこの英語的な論理によるものではないかと論じている。
本書の主要な部分が、英語史について論じた章である。日本語に比べて、英語は主語が重要な役割を果たしている言語だと私たちは習う。確かに英語の場合、主語が省略された文章は少ない。しかし、著者が指摘するところによると、英語もノルマン・コンクエスト以前の古英語(ベオウルフ、アルフレッド大王)の時代においては主語が重要視されていなかったというのだ。ノルマン・コンクエスト以降、ブリテン島がラテン語とフランス語に支配され、言語のクレオール化が起きたことによって英語が主語を重んじる言語となっていったという。
さらに著者はダミー主語(仮主語)やギリシア語の「中動相」(能動態でも受動態でもないヴォイス)に注目し、ギリシア語、ひいてはインド・ヨーロッパの古語も実は主語を重視していなかった言語なのではないかと推測する。この「中動相と主語」に関する論は多少強引な感じもしたが、しかし問題提起としては興味深いものだと言える。

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