お寺ふぁん・続々

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関ヶ原 人間万事塞翁が馬

2019-09-21 | 日記

 人間万事塞翁が馬

 

 むずい言葉です。まず読みからも・・・

 人間は“にんげん”ではなく“じんかん”、社会一般みたいな意味とか・・そう記憶していたんですが、最近は“にんげん”が一般化してきていると・・

 この場合ももちろん特定の人間のことではなく、同様の意味らしいです。

 

 先日、ほぼ同世代知人の葬送のため東海道新幹線に乗りました。

 その車窓、退屈しのぎに写真を撮るんですが、関ケ原も撮りました。

 関ケ原は山間の地で地形もよく残っており、合戦の様子を彷彿とさせるものがあります。

 もちろん、・・・だろうな・・程度の妄想の域を出ないものです。(くっきりわかるようだと誰かの生まれ変わりみたいで怖いですね・・(^^;))

 

 

 その関ケ原といえば名物 “裏切り”、当事者は小早川秀秋、拮抗している戦局で東軍に寝返り一気に西軍崩壊・・というのが通説ですね。

 だけど、小早川は日和っての裏切ではなく、核心的な裏切り、つまり当初からの裏切っていた、そもそも先に在陣している武将を押しのけて松尾山城に入った時点で西軍は裏切りを確信、これを攻撃するため大垣から

兵を動かしたという見方もあるようです。

 なるほどこの説を支持すれば、松尾山近辺への布陣の放置は、大阪方からの救援遮断、自らの退路遮断、最悪は大垣城攻囲の徳川勢との挟撃を許すことになるでしょうからね・・

 

 では本当に日和ったのは・・

 南宮山に籠る西軍の大兵力毛利秀元軍をくぎ付けにした同じく西軍毛利分家筋の吉川広家ですね。

 広家は毛利の御家の行く末を案じた忠臣かもしれません。単に臆病なだけかもしれません。西軍の負けを見越し単独で不戦交渉(=裏切り)をします。

 ともかくも参戦しようとする毛利軍の前を封鎖する形で陣を動かさず、毛利軍の進軍・参戦を阻みます。

 毛利本隊が動かないので付近に展開していた他の兵力も動けません。

 他の兵力(長宗我部?)から”なにされとる? さ〜動きましょうぞ!” の督促に毛利秀元も“兵に弁当を食わせるんでダメ・・(宰相殿の空弁当)” と濁さざるを得ません。

 この結果毛利勢は不戦となりました。

 毛利が後背を衝けばさしもの徳川勢も危急を迎えたかもしれませんね。・・それは徳川に対する裏切りになりますが・・

 布陣図は著作権だとかなんとかありそうなので貼っていません。「関ヶ原布陣図」あたりで多数ヒットすると思います。

  なお、実際の布陣状況は一次文献、発掘調査等により懐疑的な向きがあるようです。明治期布陣図を見たドイツからのお抱え軍事教官が東軍全滅と即答したというのも”?”らしいとも・・ 

 

  

 伊吹山。関ヶ原を見下ろすこの山がすべてを見ていたでしょう。

 関ヶ原合戦は慶長5年9月15日、現代の暦では1600年10月21日であり、時季としてはおおよそ今頃です。

 

 ここで“人間万事・・” に戻ります。

 この言葉は、“吉凶禍福は糾える縄の如し”というとおり、目の前の現象が吉、あるいは逆に凶であっても先はどうなるかわからん・・もっと積極的に吉だったからこそ凶になった、凶だったからこそ吉に転じたという

ように解することでもいいと思います。

 

 “忠臣” による不戦工作により天下を逸したのは毛利の、不戦により毛利の改易を免れたのは、しかし、大勢力であり口実を設けられて大幅減封となったのは、広家は功績ありとして所領を与えて大名に列せら

れたのは(さすがに所領は断ったようですが・・)、そのことが御家の中で怨嗟を買い、のけ者となったのは・・・まだまだあるんでしょう。

 仮に目前の徳川軍を破り、未着の徳川本隊にも勝利し西の第一人者となれたとしてもその後の統治能力がどうだったかは、まったくの “” ですね。

 毛利(=長州)が討幕勢力になっていくのはうんと先のことです。

 

 そして私らが葬送した本人、若者とは言い難いですが、高齢者というには若いです。

 現役の会社員で長い闘病もなく、認知も不自由もなくあっという間に他界したのは、ある意味幸せ=”吉” だったかもしれません・・

 出棺の時の家族や参列者の嗚咽は痛ましかったですけどね・・・(;´・ω・)