お寺ふぁん・続々

写真撮ってきたから見て〜♪ 程度の記事書いてます!

緑陰と涼風を求めて 六義園

2020-08-30 | 日記

緑陰と涼風を求めて 六義園

 

 タイトルどおりです。

 暑くて焼けそうで六義園を訪ねます。

 

 やはりあさがおは夏です。手前青葉の斑入り、奥黄葉ですね。

 

 

 人の踏み固めたそれこそせみにとっては岩盤とも言えるだろう地面を突き破って生まれ出ずる喜びの跡です。

 今では既に生きた証ですかね?

 

 今日はよく風が通っています。入場料300円の価値ありました。

 

 光線が強くて傘の表面の朱が白とびします。

 

 

 

 

 

 

 夏の雲、空が広がるなか・・

 とても気の早い葉はもう色づきを見せています。

 

 あさがおはもう店じまいして明日に備えるものも・・

 

 ちょっとだけ来た時より日が落ち着きましたか・・

 

 ドスン・・おっ地震ですね。

 


上中里駅付近 西ヶ原一里塚 飛鳥の小径 山で迷ったら・・ 

2020-08-29 | 日記

 

 ちょっと買い物をしたいと巣鴨からマイカー(ちゃりんこ)で都電梶原電停方面を目指します。

水平距離では大したことありません。ただ地形上勾配が結構きついしJRの幹線を越える必要があるんです。

なんとかショートカットを・・・

 

道路脇にちょっとこんもりとした・・

なんでしょう? いかにも意味ありげ。

 

 日光に向かう街道の一里塚なんですね。

 街道の左右両方が保存状態よく残っているのは珍しいとあります。貴重な歴史遺産ですね。

 場所は”POLICE”さんの基地(滝野川署)の前になります。

 

 この辺から線路側に下りてみましょう。

 ”飛鳥の小径” に行き当たります。なるほどの”小径”です。

 ありゃ、上中里の駅の所で階段道になります。で、Uターン。

 え~! Uターンしてもまたまた階段です。

 

 そして秘密基地?の出入口。

 城攻めだったらこの小径に入り込んだことが命運になってしまいそうです。

 上から攻め立てられ、弱ったところで秘密出撃口から殲滅戦にあう・・

 

 この工場の製品は”あれ”ですね。厳重そうなのも超理解。

 厳重すぎてここにいてもあまり不審視されないかも・・

 さて、ここの製品はいつの時点をもって本来用途品になるんでしょうね。刷り上がっただけの状態だったらまだ本来の”福沢さん”達じゃないと思うんですが・・

 

 それにしてもこの鉄道沿線の隔絶感と重なって”山道で迷ったら・・”を疑似体験した気分になります。

 わかりにくいですが、前面に向けて相当な登り勾配です。

 山で迷ったとき、傾斜を下ると運が良ければ谷筋に道が付いてて無難に下山めでたしとなるんでしょうが、迷うような山は概して相当下ってから断崖に行き当たり行動不能、また登り返すというのは相当に体力気力ともロスします。

 そのまま力尽くかもしれません。

 山の形が大まかに言って三角錐だとすれば上に向かった方が下山できる可能性が高くなるというんですね。

 言わば”急がば回れ”論というところですかね。ただし、登るにしても下るにしても絶対ではないようです。

 結局飛鳥山を周回して目的地です。最初からそうすればよかったにゃ~(=’・‘=)


酷暑 三峡ダム 三国志 夷陵の戦い ネット旅

2020-08-22 | 日記

  ゆだってしまうような酷暑・・

 その前は長い大雨!

 これって日本だけのことじゃなくて中国でもそうらしいですね。

 三峡ダムがやばいなんて話もあるようです。

 

 その場所って まんま三国志の世界・・ 三峡ダムのチョット下流が夷陵の地、さらに下ればあの赤壁があります。

 

 

(地図を「はじめての三国志」さんからお借りしています。なかなよくまとまったページです。)

 

 「巫」「秭帰城」「信陵」はもともと黄色(呉)の領域です。蜀が深く進攻しました。

 画ではわかりづらいので航空写真で見てみましょう。便利~!

 左上の堰が三峡ダムですね。その右岸が秭帰でしょうか? 宜昌市に「夷陵区」の表示が見えます。

 

 なぜ、進攻? ・・弔い合戦です。

 赤壁で魏の侵攻を阻止した蜀呉は一定の勢力を得ることができました。

 そして蜀は荊州の地を実効支配することに成功します。その大将が関羽。

 呉にとっては荊州は蜀に奪われた地。

 だから関羽は同盟関係にあるとは言え呉を警戒、有事は長江沿岸砦の烽火により急報するシステムを築きました。

 しかし、呉はわずかなスキを突いて荊州に侵攻、魏と対峙している関羽の背後を襲いこれを討ちます。

 首を取ったはいいもののこれでは蜀のうらみを買う・・知恵者はいるものです。魏の曹操に送ります。

 ”これで呉が自発的に関羽を討ったのではなく魏のさしがね・・しめしめ・・”

 

 この見え見えが通用するわけはありません。

 即刻にも呉を討ちたい・・そんな思いがあったようですが、何分にも国力が充実していません。

 3年後だか3年目? 劉備直々に満を持しての出撃がこの夷陵の戦いです。

 

 破竹の勢いで砦を抜いて行った蜀ですが、進撃が止まります。

 呉の大将は陸遜。ぱっとしない将軍です。なめてかかったところもあるかもしれません。

 呉の方でも”だめだこりゃ”的なところがあったとも・・

 積極的に迎撃に当たらず持久戦に持ち込んだ結果の進撃阻止でしょう。

 兵法に勢いのある相手に正面から当たってはならないということがあるそうです。

 いなして機を待ちます。今時分だったんでしょうか。蜀の兵は暑さに疲れ陣を離れ林の中、つまり危険物の中に身を置いていました。

 陸遜は蜀の陣地を一撃し、ほとんど戦果は得なかったようですが、観察に成功します。

 ”蜀の陣地は林に囲まれ密になっている” そこで火攻めを仕掛けます。撤退路となる上流側からです。

 蜀の陣は散々に打ち破られ、劉備も急追を受けます。

 急を知った趙雲が駆け付け劉備を救ったとあります。

 

 しかし、この後病を得ます。戦いの準備段階で張飛が部下に討たれ(今でいうパワハラの結果ですかね)、戦いも再起不能レベルの負け戦となる・・心の病ですか。

 諸葛孔明を呼び、”せがれが有能なら援けてやってくれ、もしそうでないなら君が後をついでくれ。馬謖は口先だけだから重要な局面では使うな・・” などと言い残して白帝城でこの世を去ります。

 

 三国志の主要人物が入れ替わるターニングポイントとなる戦いとなりました。もう曹操さえも長くはありません。

 

 

 上の写真が夷陵に近い側です。いくらか斜面があって道がついてるのかなと見えます。

 下の上流側は切り立った崖です。こういう地勢で桟道が続いたりするんでしょう。劣勢には極めてつらい道です。

 こういう場所を敗戦の蜀軍は生死をかけて撤退したんですね。

 

 そして気になるちょこっと・・

 三峡ダムというのは貯水面積は琵琶湖の約1.6倍、ダム流域は東京・姫路間に匹敵するそうです。

 そこに貯められた水が一気に下流を押し流す・・恐ろしい光景です。

 超希望的に幸い被害がなかったとしても、それだけの淡水が海洋に一気に流れ込む・・いつかは流れ込むものでしょうが、問題は”一気に”ということです。何の影響もないと考えるのは”幸せすぎる”んでしょうね。

 ま~そんなことはないと思うんですが、かの国は工事費の相当な部分が個人の懐に”着工”されてしまうという噂があったりしますんで・・・こえ~

 もひとつ、さらに下流の武漢、コロナ武漢タイプは日本では終息したようです。今流行っているのはヨーロッパタイプの派生型と・・なんとか終わってもらわないと夷陵の戦いが”医療の戦い”になってしまいます。・・手洗、消毒、ほんと疲れるな~(;´д`)トホホ


東海道新幹線N700S 摂氏アラフォー

2020-08-19 | 日記

 東海道新幹線の新型車両N700系”S”(supreme) に乗ってみます。

 

 最後列席なのでシート倒し放題、これはどの列車も一緒ね ^^) 

 

 まだ新車の匂いが漂います。全席に電源ソケットがあります。

 

 インフォメーションパネルもまるで字幕のように滑らかですね。

 

 各座席の前と窓にフックがついているんですが、引き出すと”じ~”という感じでゆっくり戻ります。

 ん~ なんか上質感が漂よいます。

 それにしてもコロ、乗客数の少なさに快適さを超えて寂しさすら覚えます。

 

 40度cを超える灼熱、さすがに空調が効くのに時間がかかったようです。

 

 なにか走りが力強い気がしました。

 


8月15日 お盆 終戦

2020-08-15 | 日記

 青空、暑い一日です。

 昭和20年の今日、対米戦闘が終了しました。

 空襲警報のないひとときの平和の訪れです。

 ”ひととき”? この後食料調達ほか困窮との戦いが始まるということもありますが、玉音放送をもってすべての戦闘行動終了ではなかったということです。

 

 まず、日本側。

 最後の特攻隊出撃です。

 出撃直前の宇垣中将。手にしているのは山元五十六遺贈の短剣

 

 宇垣中将率いる彗星艦爆11機が出撃します。

 ”5機でよい” という宇垣に対し、たとえ命令違反を問われても同行するとして全機出撃となったようです。

 彗星は2人乗り、すると11機だと総勢22名のはずですが、出撃は23名。宇垣搭乗機の通信士が交代を拒否し無理に3名乗ったとか。

 特攻は一貫して”志願”を言いながらも途中変質し、”強制”化したといいます。

 否定はできないとも思いますが、確かに護国の鬼たらん将兵もいたのです。

 

 宇垣隊は沖縄方面に飛び、”敵空母見ゆ われ突入す” との訣別電を残し散華したようですが、米軍側の戦闘記録は見当たらないようです。

 敵空母とは紺青の海だったのかもしれません。

 

 北の方ではもっと異常、非常の事態が15日を超えた18日に発生します。

 ソ連軍の参戦、侵攻です。戦争が終わってから・・

 ソ連側の”正義”

 ヤルタ会談で米英側から一緒に日本と戦ってくれ、見返りに日露戦争の失地を回復するし、北海道を分割する。

 ・・そういう約束をもらっているんだ・・

 

 この道理で満州、南樺太、千島になだれ込んできます。

 泣きっ面に蜂攻撃とでもいうか、混乱に乗ずる方法で北海道はおろか福島辺りまで占領する意図があったようです。

 その意図を挫いたのが「占守島の戦い」です。

 先頭に立ったのが樋口将軍。

 キスカ島撤退作戦のとき撤退陸兵は大発(言わばはしけ)乗船、離岸とともに小銃を海洋投棄せよと命令した将軍です。

 そのため迅速な行動が可能となり、作戦成功に大きく寄与しました。

 武器を、ましてや菊の御紋の付いたものを投棄するなどおよそ考えられないことでした。

タナカ「三八式歩兵銃&騎兵銃Ver.2グレースチールフィニッシュガスガン」製品レビュー

 

 兵を国を守った人でもっと日本人に知られてよい人であるべきと考えます。

 史実に照らしてどこまで信じてよいのかわかりませんが、少なくとも否定すべきものはないかなっと思っています。

 

 通化事件等戦争終了後の戦争は日本人に酷な事実を突きつけたのに、なぜか日本では知らされないんですね。不思議。