7月4日(日)に、とんだばやし観光会(富田林観光ボランティア)今年度 第1回(通4)まち巡り「北西部コース」を実施しました。
緊急事態宣言で6月6日の予定を順延しての開催となりました。
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コースは近鉄 川西駅を10時にスタートし、錦織神社→明治池公園→廿山北古墳→リボン通り→津々山台公園(次の地図へ)
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津々山台公園から金剛高校の前を通り、藤沢台公園→五軒家神社・五軒家えびす→五軒家界隈→加太 龍雲寺→青葉丘幼稚園の横を通り、南海 大阪狭山駅に至る約7kmのコースです。
9:23 集合時間前に、川西駅出発前にてスタッフ打ち合わせ。
9:30 早く来られた方から順番に、3つの班に分けて出発。河岸段丘崖の横の旧道を錦織神社へ進みます。ここは旧の東高野街道。写真は1班のものです。
9:34 程なく新家古墳に到着。河岸段丘の崖の上の段丘面に立地した直径40mの円墳。円筒埴輪や鉄刀片が採取されており、5世紀半ばの古墳時代中期に属するようです。(市史第1巻より)
9:37 川西小学校 国の登録有形文化財に指定されている校舎(現教育歴史資料室)。
今日の降水確率は30%。ときより雨がぱらつくお天気ですが、カンカン照りよりはまし。
でも本降りになるのが心配。
9:37 旧校舎前の二宮金次郎さん。いまだに勉強したはります。
実は前日の天気予報では降水確率60%でもうあきらめていました(50%以上は中止)が、朝起きてみると30%に下がっていていて驚きました。しかも30%は大阪府だけ。他府県は50%以上。
ラッキーというか何というか...梅雨の天気は分かりませんね。
9:38 錦織神社参道にある太神宮灯籠(伊勢灯籠)。文化七年(1810)の建之。
参道にある「天誅組 河内勢顕彰碑」(6月28日に撮影)
9:48 コロナ退散祈願!茅の輪くぐり。「どう回るんや?」と迷っているところ。
9:49 230mの参道を抜けて、本殿前に到着。国の重要文化財に指定されています。
きらびやかな本殿は南北朝時代の正平十八年(1363)のものといわれています。
唐破風と千鳥破風を組み合わせた重厚な形式は「錦織造り」と呼ばれ、後の神社建築様式に大きな影響を及ぼしました。
平成の大修理で極彩色に修復された本殿。
坂を登り、トンネルを越えて明治池公園にたどり着きました。
明治池 谷筋の頂上近くにあるため池で、スイレンがきれい。
谷筋は西北に向かいますが、明治時代に川西新家の村衆により作られ、水は暗渠で分水嶺を越えて丘陵の東側で利水されています。九郎五郎池と同じく、とてもユニークなため池。
10:21 明治池公園内の周遊路。錦織神社からの坂道で疲れているところ、さらに追い打ちをかけての急坂道でバテ気味の参加者。
でも坂を登った所でコゲラが木を叩いていました。(別の日に撮影)
明治池ではスイレンがたくさん咲いていました。
10:41 明治池公園から廿山北古墳に到着。周りは公園になっています。一辺32mの2段築成の方墳で、発掘調査されていないので詳しいことは分かりませんが、古墳時代前期(4世紀後半)と考えられています。このあたりでは一番高い標高130mに位置します。
富田林は4世紀後半から7世紀までの古墳が、羽曳野丘陵東端や石川左岸の丘陵地にたくさん点在しています。
いたいた!悪名高いクビアカツヤカミキリ!いかにも悪そうな顔している。(別の日に古墳の周りの桜の木にいました。)
10:52 ここからリボン通りに進みます。
金剛東地区の中央を南北に公園と公園を結ぶ遊歩道、リボン通り。桜やケヤキなど街路樹に囲まれた歩行者専用道路です。(一部未舗装)
リボン通りの横にある大きな公園 津々山台公園
いろんな石の彫刻やモニュメントがたくさん置かれています。
11:01 リボン通りを北上する参加者。
本日の参加者は、緊急事態宣言下での募集であったためか少なく、一般参加者7名、観光ボランティア募集講座より3名で、10名の参加者で実施しました。
津々山台のガーデンシティコープの橋。ここはつつじがとてもきれいなところです。
11:15 藤沢台の「かくれんぼの像」の所を左に曲がります。
突き当りが金剛高校。
11:21 金剛高校と藤沢台小学校の間の小道。
11:28 藤沢台公園に着きました。
11:32 お昼前で少し歩き疲れてきたころ、昼休憩の五軒家神社まであと少し。
藤沢台を含む金剛東地区ができてもう42年(昭和54年、1979)、高辺台や久野喜台、寺池台の金剛地区はさらに古く56年前(昭和40年、1965)になるそうです。
ここで出会った「おひけぇなすって」猫。(別に日に撮影)
11:47 なんとか丘陵の西の高いところ、五軒家神社に到着しました。となりが稲荷社で、その向こうに恵比須社が祀られています。
足元にある石はおそらく力石。2つは間違いないと思います。
6月28日の下見の時に発見しました。
富田林のあちこちで発見されています。中野、嬉、下佐備、中佐備、廿山、須賀(願力石)そしてここ五軒家で確認していますが、もっと各村にあると思います。
12:21 五軒家神社で休憩させてもらって、今度は下り坂、五軒家界隈には地蔵が多く存在します。
五軒家の町中、廿山道(旧憶念寺・泣き坂方面)と富田林(寺内町)方面の交差点にある地蔵祠にある舟形地蔵道標。
「右 とんだばやしこんこう山道/左 ふくまちきしのミや道」と記銘されています。
12:24 町中に2つの灯籠。
太神宮灯籠と金毘羅大権現の灯籠です。
太神宮灯籠(皇大神宮、伊勢内宮)は明和九年(1772)、金毘羅大権現は文化六年(1809)の建之です。
12:41 五軒家の町を出て、隣の加太 龍雲寺に着きました。
隠元禅師で有名な禅宗の黄檗宗のお寺で、富田林にはこの黄檗宗のお寺が3つ(甲田 養楽寺、別井 慈眼寺)もあります。
龍雲寺は享保九年(1724)、狭山藩の第5代藩主 北条氏朝が領地の河内長野市石見川にあった真言宗の寺院をここに移設したうえで、黄檗宗に改宗して開山しました。そのため、北条家ゆかりの子女や藩士の墓がたくさんあります。
この時期から夏にかけて蓮の花がきれいです。
蓮の花は何か包み込むようなあたたかさがありますね。白い蓮も咲いていますよ。
禅宗らしいお魚の形をした木魚。これこそ木魚ですね。口に煩悩の珠をくわえています。「開梆(かいぱん)」「魚梆 ぎょほう」ともいい、隠元禅師が伝えたそうです。
魚は目を閉じて寝ないことから、「魚のように寝る間を惜しんで、日夜修行に励むように」という修行僧への戒めとしして、魚の形をしている、と言われています。
ここが北条家のゆかりの子女の墓。戒名の称号が大名や旗本クラスを表す「院殿」号になっているのが驚きです。藩主の墓はここにはありません。藩主の墓は 第1代 氏盛と第11代 氏燕(うじよし)を除き江戸おもて(東京都渋谷区広尾の祥雲寺)にあります。(氏盛は大阪市専念寺。氏燕は堺市美原区今井の法雲寺にあります。
龍雲寺の墓碑には江戸中期より、宝永(1704~1711、お寺ができる前からありますが何故かはわからない。)、寛保(1741~1744)、宝暦(1751~1764)、安永(1772~1781)、享和(1801~1804)などの元号が見られます。
藩士の墓も多くあります。
江馬(家老)、村上(家老)、下山(家老)、朝比奈(番頭格)、植田(用人)など狭山藩の中核となるような藩士の墓が存在します。ここと大阪狭山市狭山の法恩寺に多くあります。
現在は加太に住む方々の墓にもなっています。
12:59 古い木造園舎が残る市立青葉丘幼稚園。覗き込んでいますが、そんなには怪しくないですよ。
大楠公さんがいたはります。珍しい楠木正成公の坐像。
「なんやこれ?感謝、絆...?」
感謝、絆、希望ですが、
感謝→ありがとうございます
絆→つながる
希望→あかるいみらい
と書かれています。読めましたか?
13:23 あとわずか、駅への道。
13:25 大阪狭山駅。参加者解散の後、終わってホッとしたひと時。
当日配布された資料 〈画面をクリックすると拡大します〉
「とんだばやし観光会」の今年度のまち巡りの予定です。
よろしければ、ぜひお申込みください。よろしくお願いいたします。〈画面をクリックすると拡大します〉
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撮影日:2021年6月1日、28日、7月4日
2021年7月9日 ( HN:アブラコウモリH )
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