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大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉牛滝さん~牛を大切にしたあの頃

2021年09月25日 | 民俗

〈リバイバル・アーカイブス〉2023.3.6~3.20

原本:2021年9月25日

昭和30年頃まで見かけた農耕牛。ふつうは性格がおとなしい雌の牛が多かったようです。

 

そして、特に雄の牛は「コッテ牛(うし)」と言って力が強かった。

でも、気が荒く、逃げて来たりしたとか聞きました。

 

総出の田植え。場所は甲田地区。牛さんは耕運機が普及していない昭和30年代まではヒーローでした。田起しには欠かせない存在。

多い村(喜志村)では江戸時代38匹も牛がいました。(馬は0匹)「喜志村様子明細帳 明和6年(1769)」

 

稲刈りが終わり、冬場の二毛作の作業。背景は富田林高校のようです。

 


〈廿山の牛滝さん〉

2018年の写真。左から太神宮灯籠(伊勢灯籠)、牛滝さん、地蔵祠

昔は牛は農耕に欠かせない動物でした。農家は田畑を耕す牛をとても大切にしました。その牛を祀ったのが牛滝さん。

 

牛滝祠

昔は村ごとに祀っていましたが、そのうちに昭和30年頃から耕運機に替わり、農家に牛がいなくなりました。

 

昔の名残、「廿山村牛滝講中...」と書かれています。

 

2021年8月撮影 老朽化にともない、牛滝祠が維持できなくなりました。

 

しかし、昔は家族同様、大切であった牛さんに感謝を忘れず、記念碑として残すことになりました。これで数百年以上残ることになるでしょう。

 

2019年11月に建てられました。

旧毛人谷地区(現富田林市本町)のうちの家でも昭和38年までは藁葺きの家で、離れに牛小屋がありました。となりのお家も牛を飼っていたそうです。

当時は自分の家にはモゥー牛はいませんでしたが、斜め前のお家では牛を飼われていました。遊びに行くと、当時小学校1、2年生だったので真っ黒な牛に見つめられて、とても怖かったです。

 


〈五軒家の牛滝さん記念碑〉

五軒家でも村のはずれ、丘陵の高い所に牛滝の祠がありました。ここも老朽化のために、近年記念碑に替わりました。

 

大切な牛を大事にして、田起しする前に爪を切ったり、楠の大木の周りを3回回らせたりして、健康を祈ったそうです。

その慣わしは各地区でそれぞれのやり方で行なわれていたようです。

廿山、五軒家、錦織で牛滝さんを確認しました。まだ他の場所でもあると思います。

というのも、江戸期の村様子明細帳には以下の記載があります。

錦郡(錦織)村 享和2(1802)石高1397石 人数162人 牛6疋

新堂村 文政11(1828)石高1701石 人数1182人 牛25疋 馬0匹

山中田村 明治2年(1869)石高453石 人数268人 牛10疋 馬0匹

彼方村 元禄14年(1701)石高573石 人数64人 牛4疋 

伏見堂村 宝永2年(1705)石高308石 人数330人 牛16疋

新家村(錦部郡)宝永2年(1705)石高202石 人数185人 牛8疋

向田村 宝永2年(1705)石高800石 人数544人 牛14疋

伏山新田 宝永2年(1705)石高122石 人数162人 牛8疋

喜志村 明和6年(1769)石高1801石 人数1420人 牛38疋 馬0匹

多くの牛が農耕のために飼われていたのがわかります。

これらの村に馬が飼われていないのと対照的ですね。

 

〈錦織 聖音寺〉 

光明山聖音寺 富田林市錦織南一丁目21

楠公の身代わりになったという伝説を持つ本尊の如意輪観音坐像(口伝 矢疵(やし)観音)があります。

享和二年(1802)の「河州錦部郡錦郡村明細帳写」においては、「城州宇治黄檗山紫雲院末寺禅宗」とあります。

 

「西国三十三所名所図会」嘉永六年(1853)にも紹介されています。

 

「人丸之観音(観音菩薩坐像)」のお札 江戸時代の版木を刷ったもの。

 

この立派な仏像は、本尊 如意輪観音坐像で、通称『矢疵(やし)観音』と呼ばれています。室町期の作品で、身代わり観音様として名高く、楠公さんゆかりの伝承が伝えられています。

 

ずらっと並んだ石碑、灯籠や祠。

左から人丸塚、牛滝さん、稲荷大明神、「秋葉大権現」灯籠一基、金毘羅社、「金毘羅大権現」灯籠一基、「太神宮」灯籠、宝篋印塔「法界塔」

少し寄せ集めの感がありますが、心のよりどころ的存在。

ほかにも、地蔵祠、戦国時代の一石五輪塔などもあります。

 

境内には万葉歌人、柿本人麻呂のゆかりといわれる自然石の石碑(人丸塚)があり、「柿本人丸 夜もすがら あかしがてらに たくものは 錦織山の 妻木なりけり 卯月十日健之」と彫られています。

 

これが牛滝さんの石殿。

 

江戸時代以来の農耕の神さまを守り続けておられます。

牛滝さんには牛の置物がよく置かれています。

 

何と古い、「天文二十二年(1553)」の一石五輪塔。何と468年前。

種子島に鉄砲が伝来したのが10年前。(1543)

フランシスコ・ザビエルが日本に来たのが4年前。(1549)

 


〈東池尻の牛滝さんと大楠〉

大阪狭山市の保存樹である大楠。

 

案内板によると、ここで毎年5月に牛滝祭りが行なわれ、着飾った牛を連れてこの楠の周りを3回回らせ、牛の健康を祈ったそうです。(牛廻し)

 

根元に牛滝さんの祠があります。

 

やはり牛の置物。

大事な牛へのおもいやりで、牛の爪を切ったり、お祭りの晴れの日に牛におにぎりや粽(ちまき)をごちそうしたりしていたようです。

 


〈今熊の牛滝地蔵〉大阪狭山市今熊二丁目

西高野街道のおわり坂を降り切った三津屋川のほとりに牛滝地蔵があります。

 

もともと河原にあったということですが、現在ほとりに移されて管理されています。祠の中には大きな地蔵と一石五輪塔があり、「牛滝」さんを連想させるものはありません。

 

この地蔵さんが「牛滝地蔵」で、農家が牛を飼っていた頃に、牛の健康を願い信仰していたと思われます。

 

地蔵は古そうに見えますが、幕末の慶応三年(1867)に建之されたものです。が、横の傾いている一石五輪塔はなんと室町時代、永正十年(1513)の記銘があるとのことです。(確認できませんでした。)

 

祠の横に詳しい説明がされていました。

いままで見てきたように、各村いろんな形で農作業を手伝ってくれる牛を大切に飼っていたことがわかります。今は農家で働く牛はいませんが、機械化が進む前の昭和30年代までは、見かけた風景でした。

写真撮影:2021年6月26日、7月24日

2021年9月25日 ( HN:アブラコウモリH )

 

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