第65回 2014年7月15日 「ぽってりやさしい 家族の器~愛媛 砥部焼~」リサーチャー: はしのえみ
番組内容
今回のイッピンは、愛媛の砥部(とべ)焼き。ぽってりと優しい姿と丈夫さで、今、母親たちに普段使いの器として大人気。おしゃれで、壊れにくいティーポット、とても口当たりのよいマグカップ、カレーがこぼれないお皿、そして幼児がご飯をこぼさずに食べることができる皿も近年生み出された。家族を笑顔にする魔法の器の魅力と、その開発に挑んだ職人たちの感動秘話をイッピンリサーチャーはしのえみさんが探る。
*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201407151930001301000 より
詳細不明につき、勝手に調べてみました。
「砥部焼」
愛媛県の砥部町を中心に作られている陶磁器。一般には食器、花器等が多い。愛媛県指定無形文化財。
後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから、大洲藩の庇護のもと発展を遂げた。
やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。他窯の磁器と比較して頑丈で重量感があり、ひびや欠けが入りにくいため道具としての評価が高い[2]。夫婦喧嘩で投げつけても割れないという話から、別名喧嘩器とも呼ばれる。
砥部焼の多くは手作り成形のため、全国的に見ても決して大産地や有名産地ではないが独特の風合いが愛好家に評価されている。讃岐うどんの器としても砥部焼はよく用いられる。
映画『瀬戸内海賊物語』(砥部町出身の大森研一が監督)においては、重要なシーンのアイテムとして砥部焼が用いられた。
砥部焼は江戸時代中期に陶器を焼く窯として始まったが、大洲藩・九代藩主加藤泰候(かとう やすとき)の時代、藩の財政を立て直すため砥石くずを使った磁器づくりを命じたことに起源を発するといわれている。命じられた杉野丈助(すぎの じょうすけ)が砥部の五本松という所に登り窯を据え、苦労の末に1777年(安永6年)にようやく白地に藍色の焼き物作りに成功したといわれる。焼き物に必要な薪も近くの山々で豊富に採れたうえ、傾斜地に流れる渓流や小川は水車を据えるのに適しており、原料の砥石を砕き陶土にするのに盛んに用いられた。
嘉永元年(1848年)、トンバリと呼ばれるレンガ造の窯が導入される。
明治期に入ると、廃藩置県によって工芸技術者の行き来が盛んになり、それまで各藩が抱え込み門外不出とされた陶磁器作りの技術が流出した。瀬戸や唐津、あるいは京都などの当時の先進地の情報が砥部にもたらされるようになり、砥部焼も量産が可能となった。明治5年頃からは松前(現在の伊予郡松前町)の唐津船で、販路を全国へと広げていった。もともと松前は海に面しており、小船を生かし沿岸の街を行き来する商人が居た。ただ、松前は松山藩、砥部は大洲藩であり住民の交流は乏しかったが松前の商人が砥部焼の商品性に着目し、商品として扱うよう求めたものであり、これも廃藩置県の一つの副次効果といえる。
その後、輸出商品として郡中港(現在の伊予市の伊予港)から出荷された時期もあった。
1976年(昭和51年)12月15日に通商産業省(現・経済産業省)の伝統的工芸品に指定された。焼き物は6番目に指定されている。
今日では独立して窯を開く職人も見られ、または女性作家も増えているなど日用工芸品としての道を歩んでいる。2005年(平成17年)12月27日愛媛県指定無形文化財に指定された。技術保持者としては酒井芳美(雅号・芳人、砥部町五本松)が認定されている。
*Wikipedia より
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/tobeyaki/ より
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