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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 首里織

2021-08-24 20:48:10 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「首里織」

 Description / 特徴・産地

 首里織とは?
 首里織(しゅりおり)は、沖縄本島で織られる織物です。首里織には絣織物と紋織物があります。花織(はなおり)、花倉織(はなくらおり)、道屯織(どうとんおり)、絣(かすり)、ミンサーなどです。
 14~15世紀の琉球王国は中国や東南アジアとの交易が盛んで、たくさんの織の技術を導入しました。首里織の原材料は、絹、木綿、麻、芭蕉などの糸が用いられ、琉球藍、福木、シブキ、テカチ、グールなどの染料が使用されます。
 首里織の特徴は、沖縄の風土に合った多種多彩な織物が見られることです。特に花倉織と道屯織は、首里王府の城下町として栄えた首里のみで織られる王族や貴族専用の織物でした。花倉織は先染め紋織物で、黄地、水地、紺地などの無地や濃淡の配色が主流です。道屯織は琉球王朝時代には男性衣として用いられましたが、現在では着尺帯や小物類に使用されています。道屯織も先染め紋織物で、地色に藍染の配色が多く色彩豊富です。

 History / 歴史
 首里織 - 歴史
 14~15世紀の琉球王国は中国や東南アジアとの交易が盛んで、積極的に染織の技術が取り入れました。沖縄の風土や気候にあった個性が育まれた結果、多種多様な織物が生まれます。
 琉球王朝の古都であった首里では、特に首里王府の貴族や士族のために作られた織物技術が育ち、色柄や優美さ、格調などが追及されました。
 王族や上流階級の女性たちに代々織りつがれてきたのが首里の織物です。首里織は分業せずに全工程を手作業で一貫して生産する、少量多品種の形態です。
 第二次世界大戦で何もかも失いながらも、受け継がれてきた首里織の伝統は、今も後継されています。独自にあみだされた手結い絣の手法によって沖縄の風土を映し出す自然や動植物をモチーフとした絣模様が生まれました。この琉球絣(りゅうきゅうかすり)は、日本の絣(かすり)のルーツのひとつと言われ、他の産地にも影響を与えました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/shuriori/ より

 宮廷文化の流れをくむ格調高い織物
 琉球王府が置かれ、王族や士族が住んでいた首里では多彩な織物が発達した。花倉織、花織、道屯織などの紋織と絣が中心で、洗練された上品な着物である。沖縄県工芸士に認定された渡久山千代さんにお話をきいた。

 
 王妃、王女がまとった花倉織
 首里王府のデザイナーが作った図案帳「御絵図帳」をもとに、琉球王府は宮古や八重山地方の女性に反物を織らせた。とくに上等なものを島津藩と中国に贈り、残りは首里の士族が着た。士族の家では、家族の着るものを女性たちが織っていた。貴族、士族が多く住む首里は、話す言葉も他の地域とはちがっていたという。そんな町で育まれた織物が首里織である。
 渡久山さんの自宅に隣接した工房を訪ねた。首里織は分業ではなく、図案から仕上げまで一人で作る。工房には図案を書いた紙や糸が置かれ、三台の機が並んでいた。そのひとつに、織りかけの花倉織がかかっていた。
 花倉織は、琉球王妃、王女がまとった夏の着物で、首里織の中で最も格式が高い。小さな四角い点を花のように織り込む花織に加え、透けるような絽織を市松やひし形に入れる。絽の透明感が布を軽く涼やかに見せる。


 一枚一枚の布に込められた思い
 廃藩置県後は下火になっていたが、花倉織の高度な技術は戦後に復活した。織りの工程は複雑で、注意しないとすぐに間違えてしまう。織っても進むのは一日に30センチほど。一反織り上げると、織り機の板が当たっていた股の裏側がヒリヒリと痛む。
 「昔の人はこんなにむずかしいものをよく考えたと思いますよ。たいへんなので、織りたがる人は少ないのです。私も午前中2時間、午後2時間くらいしかやりません。長時間織るのはむずかしいですね。」
 渡久山さんは藤製の行李に、30余年の間に織った布の見本を保存している。ほかの作品を見せてもらった。30センチくらいの布を一枚ずつ取り出しては広げてくれる。うすい桃色のかわいらしい花織、深緑や紺色の地に縞の入った男物の道屯織、帯地もある。一枚一枚に、デザインがうまくいった喜び、娘のために織った想い、着た人から礼状をもらったうれしさ、といった思い出が詰まっていた。
 花織や道屯織のような紋織ばかりでなく、首里は絣でもよく知られている。渡久山さんが一番好きなのはティジマ(手縞)。格子の中に鳥などの絣模様が入っている柄で、見ているだけで楽しいという。首里絣は、マドラスチェックを思わせる大胆な配色のものもあり、着物になじみのない人までも引きつける魅力を持っている。


 織り上がると笑みがこぼれる
 若いころ、渡久山さんは人間国宝の宮平初子さんの指導で織りを始めた。
 「先生はとてもおしとやかで、言葉使いや礼儀作法も教えてくださいました。尊敬があったからついていけたんですね。始めますと楽しくなって、やめられなくなりました。今も家事をしないでこれだけしていられれば、と思うんですよ。先生には本当に感謝しています。」
 今も、沖縄の昔の織物や先生たちの作品を見ながら、時間のかかる花倉織をもっと手早くする方法はないか、いい柄はできないかと工夫を重ねている。
 「納品に追われていた若いころより、今のほうが落ち着いて考えながらできます。でも、若い人たちが一生懸命やっているのを見ると、私ももっとやらなくてはと思うんです。」
 染めのときに思いがけなくいい色が出たり、織り始めて思い通りの柄ができたりと、それぞれの工程に喜びがある。織り上がって眺めるときは、ひとりでに笑みがこぼれて止まらないということだった。


 職人プロフィール

 渡久山千代 (とくやまちよ)

 1926年生まれ。沖縄県工芸士第一号に認定される。那覇伝統織物事業協同組合前理事長。


 こぼれ話

 知らないうちに体に染み込む伝統の力

 首里織のデザインは、作り手一人ひとりが考えます。人によって個性が出ますが、首里のものにはみな同じ端正さが感じられるのはなぜでしょうか。
作品に取り組みながら講習生の指導にあたっている理事長の安座間美佐子さんは、「土地や空気、物から伝わってくることがあるのです。」といいます。はじめはみな、織りをやってみたいという気持ちで講習を受けます。数をこなし、何年か続けていると、歴史的なバックグラウンドがわかってきます。首里織のエキスのようなものが、知らないうちに体にしみこんでくるようです。
 「その中から、こういう色を出してみようかな、という考えが生まれてきます。だから同じ花織でも、産地のカラーが出るのです。」
 島の多い沖縄では、地域によって風土も言葉も習慣も違います。違えばしみこんでくるものも違うはず。個性ある織物が各地に発達するわけです。
 そんな話をきいた後、沖縄の美術工芸家が出品する「沖展」で安座間さんの作品に出合いました。フクギで染めた鮮やかな黄色に茶と緑の格子が入った花織の着尺は、首里の上品な華やかさがありました。

*https://kougeihin.jp/craft/0131/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 琉球絣

2021-08-24 20:39:58 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「琉球絣」

 琉球絣とは?
 琉球絣(りゅうきゅうかすり)は、沖縄県で織られている織物です。主に絹糸を使用した織物で、草木を原料とした染料のほか化学染料等が使われています。
 琉球絣の特徴は、およそ600種にものぼる多彩な沖縄の自然や動植物を取り入れた図柄です。図柄を活かして織られた反物が中心で、夏季に使用する壁上布(かべじょうふ)と言われる織物も生産されています。爽やかで美しい独特の幾何学模様の図柄は、琉球王府時代から伝わる御絵図帳の図柄が元です。古来の伝統の図柄に時代の感覚を取り入れて、職人がオリジナル模様を作ってきました。
 糸を染め上げる際は、図柄をもとに模様部分を1カ所ずつ手括りで締め上げていくという手間のかかる作業によって独特の絣模様を作りあげます。
 琉球絣の織りは、緯糸を経糸の間に道具を投げ込んで手作業で織っていくという昔ながらの技法です。日々1~2メートル位ずつを職人が丹念に織り上げていきます。

 History / 歴史
 14~15世紀に中国、東南アジアとの貿易が行われたことから琉球王国へ織物技術が入ってきました。琉球絣は、沖縄王府に収める貢納布(こうのうふ)として織られるようになります。
 貢納布は、首里王府の絵師がつくったデザイン集である御絵図帳(みえずちょう)の図柄を織物に完成させたものです。デザインや染色、織物技術は発展し琉球絣の製造には島の女性たちが従事していました。
 明治時代になると商品として琉球絣が市場に出回り、大正時代から昭和時代の初めごろには沖縄県は多くの織子を養成しました。その後、絣織物の技術者の移住などにより産地としての基盤が固っていき、民間の工場も設立され沖縄県は絣の産地へと発展を遂げました。
 第二次世界大戦が起こると資材の供給が止まり、織物工場は閉鎖されます。産地は戦争の激戦地となり、多くの生産技術者の命と生産設備が奪われました。戦後、琉球絣は先祖から受け継いだ伝統に現代の感覚を加えて復活し、魅力的な多種類の模様と豊かな色柄で様々な服飾品やインテリア用品が作られています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/ryukyukasuri/ より

 祖母と父が残してくれた宿題に取り組む
 東南アジアとの交易によって伝えられた絣は、沖縄から日本各地に広がっていった。沖縄の織物にはたいてい絣柄が取り入れられている。一大産地である南風原町で作られたものを琉球絣と呼んでいる。

 
 絣の柄は暮らしの道具や動植物から
 十種類もの織物がある沖縄で、圧倒的な生産数をほこるのが琉球絣である。秘密は、分業制と合理的な手法を取り入れていること。絣を括るときに「絵図式」という方法をとるので、織り手は絣模様のズレをさほど気にしないですむ。1週間で一反というスピードで織ることができるのである。
 分業は、デザインと絣括り、染め、織りの準備、織り、と分れていて、何人もの人の手を経て完成する。大城織物工場でデザインと染めに取り組む大城哲さんにお話をきいた。
 琉球絣の柄は500種類もある。トウイグワァ(つばめ)、ティズクウン(げんこつ)、ジンダマー(銭玉)、コウリグム(雲)など、身の回りの品や動植物を図案化したものだ。
 「伝統的な柄はくずせないので、配置や大きさを変えたり、組み合わせたりしてデザインを決めます。新しく考えるというよりアレンジですね。祖母や父の時代に作られていた見本があるので、それを見ながら今の時代に合ったものにしていきます。」
 哲さんは90年に父の清栄さんから家業を継いだ5代目。祖母のカメさんも大胆なデザインをする作家としてよく知られていた。
 「うちには、おやじのころ、ばあちゃんのころ、もっと前の見本もある。たくさん物を見ないと新しいデザインは浮かんでこないから、これは強みですね。」という。


 微妙な変化が出る草木染めの魅力
 祖母の血をひいたのか、哲さんの作品は色使いが大胆だ。草木染めが基本だが、それだけにこだわってはいない。
 「私は化学染料を使ってもいいと思っています。草木染めでカバーできる色の範囲は狭いし、最近は染材を手に入れることがむずかしくなってきています。山で簡単に木を切ってくるわけにもいきませんから。」
 黄色が出るフクギの皮が手に入ると、ストックしておく。月日がたつと、染まる色がレモンイエローから渋い色に変っていく。哲さんは、そんな微妙な変化が起きる染めがおもしろくて仕方ないようだった。草木の場合、相思樹、ヤマモモ、イジュ、ティカチ、ゲッキツ、ホルトの樹などを、銅、鉄、みょうばんで媒染して色を出す。染材と媒染の組み合わせ、回数によって何千通りもの色が出る。つきることはない。染めだけで一生かかるという。


 昔の高い技術に追い付きたい
 糸がうまく染まっても、思った通りの作品になるわけではない。
 「色も柄も、自分が思い描いていたものとピッタリ重なることはほとんどありません。いいのができたなと思って織ってみるとアレッとなったり。逆に意外によかった、というときもありますけどね。」
 経糸と緯糸が重なって初めて布は生まれる。括りや染めの成果は、織ってみないとわからないのである。
 「祖母と父の時代に作った、ものすごく細かい絣があるんです。今の目標はこれですね。各工程にプロフェッショナルがいてできたものなんですが、自分の染めの技量がまだ追い付かない。技術というのは、その人が確立していく部分が大きいから、やっぱり経験しかない。昔の技術力はすごい。やらざるをえません。」
と哲さんは力強く話していた。


 職人プロフィール

 大城哲 (おおしろさとる)

 1963年生まれ。日本伝統工芸展に入選。日本工芸会正会員。


 こぼれ話

 琉球絣の町、南風原町で親子3代

 那覇市の隣に位置する南風原町は、琉球絣の産地として知られています。「沖展」などの展覧会に出品している大城廣四郎織物工房の大城一夫さんも、機の音を聞きながら育ちました。子供のころから父親の廣四郎さんの手伝いをし、デザイン、括り、染めの仕事について32年になります。
 「町の人もみんな織りの仕事をしていましたから、ごく当たり前にこの世界に入りました。だんだん物作りのおもしろさにはまっていきました。」といいます。
 南風原町は戦後、織物によって沖縄の中でもいち早く復興をとげました。「沖縄中部、北部は米軍関係の仕事をする人が多かったのですが、ここには基地がなく、昔からあった織物に力が注がれたのです。」
 機や材料は失いましたが、技術は残りました。戦前の産地だった那覇の泊からも技術を持った人が集まってきました。効率のよい分業体制で、絣括りに合理的な手法を取り入れることで、手織りながら生産数を増やすことができました。現在は、年間約5500反が作られています。
 一夫さんは、「作るのは楽しいが、売れないとどうしようもない。職人というのは、売れたときがうれしいんですよ。」と笑います。一緒に仕事をしている息子の拓也さんは、デニム地の絣を作って東京のファッション関係者からも注目を集めています。南風原からは常に新しい動きが出ています。

*https://kougeihin.jp/craft/0130/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 読谷山花織

2021-08-24 20:11:17 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「読谷山花織」

 Description / 特徴・産地

 読谷山花織とは?
 読谷山花織(よみたんざんはなおり)は沖縄県中頭郡読谷村で作られている織物です。
 読谷山花織の特徴は、織り地に先染めされた糸で花のような幾何学模様の文様を織り込んでいることです。素材は絹糸もしくは綿糸を用い、染める素材は琉球藍や福木(ふくぎ)、すおうなどを用いて染められます。
 伝統的な読谷山花織は琉球藍で染められた紺地に赤や黄、白色などで花模様を表します。花模様は基本的な単位の図柄が決まっていて、それぞれに意味があります。「ジンバナ(銭花)」と呼ばれる銭に似せた花模様は裕福になるように、「オージバナ(扇花)」は末広がりの扇の模様が子孫繁栄を表しています。また「カジマヤーバナ(風車花)」は沖縄の風習にならって長寿を祝う風車の形をしています。こうした基本模様に縞や格子を組み合わせ、さらに複雑な模様を生み出した織物は、素朴ながら立体感のある花柄が華やかな雰囲気の織物となっています。
 大変手間のかかる織物なので、琉球王朝時代には王族以外と読谷村以外の庶民は着ることが許されない貴重な織物でした。

 History / 歴史
 読谷山花織 - 歴史
 読谷村花織がいつごろから織られていたかははっきりわかっていませんが、15世紀の頃から織られていたとも言われています。当時琉球王朝は中国や東南アジアと盛んに交易を行っており、琉球には様々な外国の品や技術が伝えられました。
 読谷山花織もその頃南アジアから伝えられたと考えられており、華やかな意匠の為琉球王府の御用達に指定されてからは、更に織りの技術も高められていきました。細かい花模様を織り込む為には大変な手間暇がかかる為、王族、貴族以外は花織が織られていた読谷村の住民だけが身につけられる、大変貴重な布でした。
 明治時代に入ると、廃藩置県によって読谷山花織を身につけられる王族や貴族の身分が廃止になったことで、次第に織物自体も衰退していきます。
 技術が忘れかけられていた頃、愛好家によって再び花織の技術を復活させようとする気運が高まります。こうして1964年(昭和39年)に、90年ぶりに読谷山花織は復活するに至りました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yomitanzanhanaori/ より

 静かな心で織り込む可憐な花グアー
 花織はその名の通り、花の模様を織り込んだかわいらしい布である。濃紺の地に赤や黄色の点が浮き出ているのが伝統的なもの。小さな四角い点々で花を表現しているので、手のこんだ刺繍のようにも見える。

 
 息を吹き返した幻の織物
 地元で「花グアー」と呼ばれる花模様には、ジンバナ(銭花)、カジマヤー(風車)、オージバナ(扇花)の3つの基本パターンがあり、大きさや組み合わせをアレンジして使う。ここに絣と縞を加えると、布に立体感が生まれる。
 読谷は、琉球王国の時代、中国や東南アジアとの貿易の拠点として栄えた。異国の文化が次々と入ってくる中、15世紀ごろに地元に根付いたのが花織だった。御用布に指定されて王府の保護を受けたが、廃藩置県後の明治半ばから衰退し、とうとう幻の織物になってしまった。昭和39年、後に人間国宝となった與那嶺貞さんの努力で花織は息を吹き返した。村が力を入れたこともあって、織り手の数は少しずつ増えていった。


 手も足も、全身を動かして織る
 新垣澄子さんは、染色をしている夫の隆さんのすすめで20年前に始めた。糸の準備はたいへんでも、織り始めれば比較的楽、という織物もあるけれど、花織は織り始めてからも厳しい作業が続く。
 ふつうの平織は、上糸と下糸の間を開けて緯糸(よこいと)を通すため、2枚の綜絖を足で交互に引き下げて織る。花織は、この綜絖(花綜絖)が10枚にもなる。綜絖からたれ下がる10本のひもを順番に足で引っ張りながら織っていく。まるで曲芸のようだ。綜絖の数が増えるほど花模様は複雑になる。
 「15枚から20枚くらいは平気で使いますよ。自分でデザインしているから、どれを引けばいいかわかるんです。両手両足、全身を動かしながら織っています。織るのは時間との闘いでもあるし、自分との闘いでもある。やらないと布になりません。」


 自分の作ったものは何年たってもすぐわかる
 大切なのはただひとつ、気持ちを落ち着けて向うことだ。「むしゃくしゃして気分が悪いと、必ず間違えるんです。ほどくのに1日かかってしまいます。私は20年前に夫婦喧嘩はやめましたよ。自分をコントロールできないなら、その日は仕事をしないことです。」
 今後は、だれにも真似できないものを作っていきたいという。季節感を盛り込んで、自分が着たい色柄をデザインする。
 「自分の作ったものを着た人に会ってみたいですね。20年前のものだって見ればすぐわかりますよ。人と同じものを作っていないから。染めも自分が染めたのと人が染めたのとはすぐわかるんです。」
 同業者の夫は一番身近な批評家である。
 「まだ一度もほめられたことがないんです。ほめられたくてやってきたようなもの。あと何年たったらほめてもらえるのか。」
花織からはまだまだ離れられそうもない。


 職人プロフィール

 新垣澄子 (しんがきすみこ)

 1949年生まれ。数々の賞を受賞するとともに、後継者の指導にもあたっている。

 こぼれ話

 愛する人への想いをこめたティサージ

 手ぬぐいのことを読谷ではティサージ(手巾)といいます。花織のティサージは、昔から贈り物として使われてきました。読谷山花織事業共同組合の理事長、新垣隆さんにきくと、「これはティーバナといって、帯によく使う技法で織ります。紋織りの中では一番原始的な技法です。むずかしくはありませんが、手間ひまがかかります。人の手で糸を入れていくので、織りながらいろいろな模様に変えることができるのです」
 昔の女性は模様に工夫をこらして織り、意中の男性に贈りました。これを「ウムイ(想い)のティサージ」といいます。女性同士が「彼女がそのくらいのものを織るなら、私はそれ以上のものを織ってあげよう」と競い合ったらしく、同じデザインのものはありません。「ウミナイ(祈り)のティサージ」は、中国や本土に旅立つ人の安全を祈って織られました。中国への旅は「唐旅(とうたび)」といい、命を落とす覚悟で出発したものでした。「唐旅」という言葉は、今では人が亡くなってお墓に入るという意味に使われます。そんな危険な旅の無事を祈って、家族や恋人のために心をこめてティサージを織ったのです。

*https://kougeihin.jp/craft/0128/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 久米島紬

2021-08-24 19:43:31 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「久米島紬」

 Description / 特徴・産地

 久米島紬とは?
 久米島紬は(くめじまつむぎ)は沖縄県久米島町で作られている織物です。
 久米島紬の特徴は、素朴でしなやかな風合いと独特の深い色調です。久米島紬の制作は、図案の選定、染色の原料の採取、糸の染め付け(そめつけ)、製織(せいしょく)のすべての工程を1人の織子(おりこ)が手作業で行います。
使用する糸は、紬糸(つむぎいと)か引き糸のいずれかで、島内に自生している植物を使った「草木染め(くさきぞめ)」や「泥染め(どろぞめ)」という手法で染め付けます。紬糸とは、繭(まゆ)から生糸(きいと)を作る際に使用できない屑繭(くずまゆ)を真綿(繭を綿のような状態に引き伸ばしたもの)の状態にして、撚り(より)をかけて手紡ぎ(てつむぎ)した糸のことで、引き糸とは、繭から生糸を手で引き出したものです。
 天然染料を使うことで、織り上がった久米島紬は、洗うたびに染料の灰汁(あく)が抜けていき、色が冴えてますます美しい色合いになっていきます。
 また、絣模様(かすりもよう)に織り上げるために糸に色を付ける部分と付けない部分を細かく染め分けなければなりません。色を付けない部分には、事前に木綿の糸を巻き付ける「絣くくり(かすりくくり)」という工程を行います。非常に繊細で根気のいる作業で、一般的な紬や絣は機械を使用して「くくり」を行う場合が多いですが、久米島紬の場合は、「絣くくり」の工程もすべて手作業で行います。

 History / 歴史
 久米島紬 - 歴史
 久米島紬の歴史は古く、室町時代にはすでに紬が作られていたと言われています。「琉球国由来記」によると、14世紀末久米中城(くめなかぐす)の家来頭・堂之比屋(どうのひや)が明(みん:当時の中国)に渡り、養蚕(ようさん)などの技術を持ち帰ったことが起源だと伝えられています。
 久米島紬の歴史は重い人頭税とともにありました。1511年(永正8年)に琉球王国の支配下になると紬を貢納布(税金)として納めるようになり、1609年(慶長14)に琉球王国が薩摩藩に侵攻されると、ますます税は重くなり、紬の質の向上も求められました。そこで、琉球王府は1619年(元和5年)に、越前から坂本普基(さかもとひろもと)を招聘し、養蚕や真綿の製法などの技術を伝えさせました。
 その後、薩摩の友寄景友(ともよせかげとも)によって染色や紬織の技術が伝えられ、久米島紬の基礎が築かれたと言われています。やがて、久米島の紬は薩摩を経て江戸に送られ、「琉球紬」の名で知られるようになりました。
 貢納布としての紬の生産は1903年(明治36年)に人頭税制度が廃止されるまで続き、1905年(明治38年)頃から始まった改良事業により、ようやく産業として発展するようになりました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kumejimatsumugi/ より

 紬の里に脈々と伝えられる泥染めの技
 久米島は紬のふるさとといわれている。中国から養蚕を学び、17世紀前半には織りの基礎が固まっていた。祖母と母親から受け継いだ技を、若い人に伝えようとしている桃原禎子さんにお話をきいた。

 
 光沢のある黒の地に茶や黄色の絣(かすり)模様が映える久米島紬。この代表的な配色に使われる黒い地色は、泥染めによるものだ。茶褐色でも赤褐色でもない、しっとりときれいな黒を出すのはむずかしく、一カ月もの間、染めの作業を繰り返す。
 桃原禎子さんにおおまかな手順を教えてもらった。糸をただ泥に入れても黒くはならない。その前に、植物染料のテカチ(車輪梅)かグール(サルトリイバラ)で80回も染める。染めて干してを繰り返すから、これだけで25日かかる。
 糸が茶色く染まると、いよいよ泥染めだ。久米島のおばあちゃんたちは、午前3時に起きて作業を始める。山からとってきた泥を大きなポリバケツに入れ、糸をつけて2時間おく。洗って、またつけて、一日7回ほど行なう。
 翌日、またテカチに染める。そして2、3日して泥染め、テカチ……と繰り返す。泥そのものの色は、灰色がかっていて真っ黒ではない。なのに黒く染まるのは、泥の中の鉄分とテカチのタンニンが反応するためだ。
 島では10月の末から一カ月が泥染めの時期になっていて、一年分の糸を染める。一人ではたいへんな作業なので、「ゆいまーる」といって、近所の人が集まって協力する。そのころは庭先に糸が干してある光景がいたるところで見られる。


 作品を広げる桃原禎子さんの表情は明るい

 久米島は紬の島である。集落を歩けば機の音が聞こえてくる。桃原さんも子供のころ、母親の機の音で目を覚ましていた。中学生のころから手伝い始めた。高校を卒業して岐阜で働いていたが、まもなく沖縄に戻って県の工芸指導所で染織を学んだ。以来24年、久米島紬を織り続け、作品は展覧会で入選するなど高い評価を受けている。
 「布の出来は、括(くく)りと染めでほとんど決まります。」と桃原さんはいう。括りというのは、染める前に、糸の染めたくない部分をひもで巻いて染料が入らないようにすること。4反分の糸を2~4週間かけて括るので、糸で手の皮膚が切れてしまう。そんなきつさを口にしながらも、桃原さんはとても楽しそうだ。
 「私、準備の工程が好きなのよ。糸を機織り機にのせて織り始めるとき、模様が出てくるのがとっても楽しみ。あとは人にあげてもいいくらい」と笑う。
 真綿から糸を紡いで、図案を考えて、括って、染める。ここまでに何カ月もかかるから、織りはもうゴールのようなものなのだろう。計算した通りの絣柄が目の前に現れたときのうれしさは、想像にかたくない。
 「小さいときから触っているから、覚えるのに苦労はしなかったんだけど、やっているうちに本当のむずかしさがわかってきました。満足できる作品はまだありません。いい色が出なかったとか、糸が太すぎたとか、どうしても不満が残りますね。」
 桃原さんは今、昔の色柄を再現しようとしている。17世紀、琉球王府が久米島の女性に貢納布として久米島紬を織らせたとき、色柄を指定するために送った図案集「御絵図帳」にのっているものである。
 「昔のほうが色が豊富なんです。手がこんでいるし、柄も今より複雑。おもしろいですよ。」
 次の作品への意欲のほうが大きくて、苦労などものともしていないようだった。


 職人プロフィール

 桃原禎子 (とうばるていこ)

 1954年生まれ。作品は沖縄県工芸公募展などに入選している。指導者としても活躍している。

*https://kougeihin.jp/craft/0126/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 鹿児島 川辺仏壇

2021-08-23 13:20:40 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「川辺仏壇-かわなべぶつだん」

 Description / 特徴・産地

 川辺仏壇とは?
 川辺仏壇(かわなべぶつだん)は、鹿児島県南九州市川辺町周辺で作られている仏壇です。
 川辺仏壇の特徴は、「ガマ戸」と呼ばれる川辺仏壇オリジナルの独特な仏壇があることです。”ガマ”とは、鹿児島県の方言で洞窟を表します。
 浄土真宗(一向宗)が弾圧された時代、洞窟などに隠れて念仏を唱えるようになったため、この場所は「かくれがま」と呼ばれました。ガマの中では、狭い場所でも礼拝ができるようにと台座と仏様本体が一体化した「ガマ壇」という仏壇が造られるようになります。
 また、隠れキリシタンが仏壇にマリア像を隠して信仰していたように、川辺界隈では一見箪笥に見える、扉を開くと豪華絢爛な金色の隠し仏壇が造られていたと言われ、「ガマ戸」にもこのようなガマ壇や隠し仏壇の要素が受け継がれているそうです。
 「ガマ戸」以外には「三法開き」、「胴長」、「半台付」、「別台付」という様式もあります。材料には杉や松が使われ、川辺仏壇は天然本黒塗りと金箔で仕上げた木地に、美しい彫刻が施された小型の仏壇として長い礎を築いてきました。
 この技術は仏壇だけに留まらず、祭事の神輿、近年ではカフェや九州新幹線つばめの内装に活かされ、信仰という域を超えた技術と言えるでしょう。

 History / 歴史
 薩摩半島中部を流れる万ノ瀬川の源流の一つ、清水川ほとりの崖には約500mに渡って仏像が彫り込まれている「清水磨崖仏群(きよみずまがいぶつぐん)」と呼ばれる史跡があります。1264年(弘長四年)から明治時代まで供養塔や仏像、梵字などが彫り込まれ続けたそうです。
 川辺街周辺は古くから仏教信仰の強い地域でした。12世紀初期には仏壇が作られていたと言われており、現存する最古のもので”1336年(延元元年)9月6日”と記された黒塗りの位牌があるそうです。
 1597年(慶長2年)に薩摩藩は、浄土真宗禁制に乗り出しました。加賀一向一揆や石山合戦(浄土真宗本願寺派勢力と織田信長の闘い)の影響で、大名たちが浄土真宗を恐れ始めたためです。約300年続いた弾圧の中で人々は、洞穴や洞窟に隠れ念仏洞と言われる集会所を作り、仏像や六字名号(南無阿弥陀仏)を隠しあらゆる手段で隠して信仰をより強いものにしていきました。
 1876年(明治9年)に信教が解禁されると仏壇製作も盛んになります。1975年(昭和50年)、川辺仏壇は伝統的工芸品として指定され、その技術は全国に知れ渡るようになりました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kawanabebutsudan/ より

 金色(こんじき)に染まるいにしえの技、川辺仏壇
 川辺地方は古くから仏教のさかんな土地で、多くの仏教にまつわる遺跡が残っている。西暦1200年頃から、川辺仏壇の技術、技法は確立されたとされている。1597年に島津藩による一向宗の禁圧などで、仏像や仏壇は焼失したが、その信仰は根強く残り、いわゆる隠れ念仏によって仏壇が小型になった。また、見かけはタンスで、扉を開けると金色燦然とした仏壇が包蔵されたものが作られた。
 明治時代の初めに、信教の自由が許され、初めて技術、技法を継承してきた池田某作が公然と仏壇製作を始め、今日の川辺仏壇の基盤を作った。

 
 熱心な仏教信仰の町、川辺町
 鹿児島市の中心部から、バスに揺られて1時間ちょっと。ここ川辺町は、約700年前に平家の落人が祖先を偲んで追善供養のために刻んだものと伝えられる『清水磨崖仏(きよみずまがいぶつ)』で有名である。源平の昔から仏教への篤い気持ちと歩んできた川辺地区。その川辺町で、伝統工芸である仏壇はどのような歴史を刻んできたのだろうか。川辺仏壇作りの伝統工芸士である、坂口正己さんにお話をうかがった。
 「仏教の盛んな土地に自然と仏壇製造が生まれるのは、市場の原理もある。それと、あらゆる法難に耐えて、その伝統技術・技法を守り抜こうとした、篤信の心が地方民に強かったということです。」と坂口さんは語り始めてくれた。
 「この地方はもともと一向宗(浄土真宗)が盛んで、仏壇も浄土真宗の“金仏壇”が中心となって発展したのです。以前は、他の宗派では唐木仏壇が一般的だったのですが、現在では宗派にこだわらず、金仏壇を使ってもらってますね。金箔貼りも優れた技能ですが、ここ川辺仏壇の特長は、その歴史に裏づけされた伝統と、妥協のない素材選定、微細な彫刻技術など。各工程で職人が分業しながら、誇りを持って、その技術を生かしているということです。」
 長い歴史の風雪に耐えた本物だけが持つ風格を川辺仏壇は感じさせてくれる。


 「塗りは『漆との競争じゃ』」
 分業制が基本の仏壇製作の中で、坂口さんは木地から金箔押し、組立てまでこなせる仏壇作りの達人だが、本来は仕上げ部門の職人である。特に“漆塗り”にかける情熱はすごい。「漆は人間の手でコントロールできない、やっかいな代物なんですよ。おかしなものでね、漆は湿度が高くないと乾燥しないのですよ。わしの1日は天気予報から始まるんです。今日の天気はどうか、漆塗りの作業を一階の作業場でやるか、三階の作業場でやるかってね。まさに『漆と職人との競争』ですよ。」
 「手を抜いたら、すぐ漆に馬鹿にされる。漆のやつが笑って言うんですよ。『ほら、ここやり直し』ってね。」と坂口さんは笑って語る。
 「だから、50数年間漆に馬鹿にされないように、一所懸命、塗りの技術を磨いてきましたよ。」そんな坂口さんも、ある時、壁にぶつかってしまったことがあるという。どうしても従来の川辺の塗りの技法では越えられない水準があった。漆塗りの頂点を会得しなければ、自分の仏壇作りは進歩しないと思ったのだ。そこで坂口さんは、長野県の木曾漆器漆塗りの名人の所まで、教えを請いに行った。何回も何回も木曾まで足を運び、究極の漆塗りを求めたのである。その向上心や恐るべし。
 そしてその熱意に打たれた木曾漆器の職人さんも、わざわざここ川辺まで足を運び、坂口さんに自分の持つ漆塗り技術を伝授してくれた、ということである。
 そんな漆にかける坂口さん情熱の源は、厳しい宗教弾圧にあっても決して屈さず、篤い信仰心を持ち続けた川辺町の不撓不屈の精神にあると感じた。

 職人魂とは
 坂口さんは「わしがこの仕事を始めたきっかけは、信仰心からというよりも、学校を出て満州に行ったのですが、すぐ終戦を迎え、引き上げてきたのです。すぐに師匠の所へ住み込みで修行させてもらうようになりました。」「今から思うと、鍛えられましたわ。朝は6時からそうじを始め、仕事が終わるのは夜の11時。家に逃げて帰っても食えんし、がんばるしかなかったですね。まあ、もともと物作りが好きだったこともあるのでしょうが。師匠も厳しかったですよ。とにかくどれだけ仕事をしても、誉めてくれん。教えてもくれん。師匠の仕事ぶりや作った仏壇をこっそり見て、学んでいったのです。」「でもまだまだ修行中の身ですよ。職人は、一生修行でしょう。一生涯に一回だけでいいです、自分が心から満足できる、すばらしい仏壇を作ってみたいですね。」
 そして「仏壇作りは工芸技術のなかで、一番難しいと思う。」と坂口さんは胸を張る。昨年、岡山のある有名な“仁王仏像”を修復する話が、川辺町に持ってこられたのである。地元の工芸技術者、建築技術者も、尻込みしてしまうほど古く、損傷も激しかった。それが、最後に坂口さんのところに話がきたのである。仏壇作り技術の高さを知っていた人からの依頼であった。
 「仏壇が作れるモンは、なんでも作れる。わしが作れんものは子供だけじゃ」と笑って、この仕事を引き受け、そして見事にその仁王さんの修復を成功させたのである。
 このエピソードにも、川辺仏壇の技術の高さが如実に表れているのではないだろうか。

 職人プロフィール

 坂口正己 (さかぐちまさみ)

 昭和5年5月10日生まれ。
 川辺仏壇を作って54年のベテランの伝統工芸士である。口癖は「自分達の仕事には終点はなく、自分が終わるまでが勉強だ」

 こぼれ話

 仏壇作りの歴史と由来

 ここ川辺地方は古くから仏教の盛んな土地で、多くの仏教にまつわる遺跡が残っています。仏教文化を持つ川辺氏と壇ノ浦の決戦で破れた平家の残党が同町清水の渓谷を中心に伝導にいそしみ、約500メートルの岸壁に数々の塔や墓形、梵字を刻み、供養一途に生きたと伝えられています。このような仏教の隆盛や遺跡から見て、仏壇・仏具が作られたことは歴史の当然かもしれません。以上のようなことから、素朴ながらも、川辺仏壇の技術、技法はこの頃確立されたのです。しかし、これだけの遺物があるのに、仏像・仏壇が全く残っていないのはなぜなのでしょうか。それは島津藩主による、一向宗の禁制(1597年)と廃仏毀釈の布達(明治2年)により、そのほとんどが焼失したためです。ところが、一向宗の禁制や弾圧が強行されても信仰は根強く残り、いわゆる“隠れ念仏”が作られるようになりました。仏教徒の知恵とでも言うべきものです。今でも川辺仏壇に「ガマ(鹿児島では洞窟のこと)」という型のものが作られているのも、洞窟の中で布教して、一向一途に念仏を唱えた頃の名残です。

*https://kougeihin.jp/craft/0816/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 鹿児島 薩摩焼

2021-08-23 13:05:51 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「薩摩焼」

 Description / 特徴・産地

 薩摩焼とは?
 薩摩焼(さつまやき)は、鹿児島県で生産される陶磁器です。白薩摩、黒薩摩、磁器の3種類から形成されます。薩摩焼の特徴は種類が多く、竪野系、龍門司系、苗代川系、西餅田系、平佐系、種子島系と呼ばれる6種類もの種類があることです。
 白薩摩は白もんと呼ばれ、淡い黄色い焼き物に透明の釉薬(ゆうやく)を使い、表面にひびをあしらい、その上から装飾したもので、主に装飾品や置物等です。黒薩摩は黒もんと呼ばれ鉄分の多い陶土を利用しており、釉薬も色味のついたものを利用しています。黒もんは主に焼酎を飲むときに使われる器等です。薩摩焼には主原料を陶石とする磁器も存在しますが、現在は流派が途絶え作られてはいません。
 薩摩焼の産地は主に鹿児島県鹿児島市、指宿市、日置市等になり、現在残っている窯場は、苗代川系、龍門司系、竪野系の3つの窯場です。苗代川系は当初は黒もんを中心に作成していましたが、現在では白もんを中心に制作している窯場となります。龍門司系は黒もん中心で酒器を作成している窯場で、竪野系は白もん中心で主に贈答用の茶器等を制作しています。

 History / 歴史
 薩摩焼 - 歴史

 薩摩焼きの歴史は戦国時代の1529~1598年(享禄2年~慶長3年)に行われた文禄・慶長の役から始まります。これは日本が朝鮮出兵をした戦争ですが、別目「焼き物戦争」と呼ばれ、薩摩藩藩主の島津義弘が朝鮮人の陶工師を80人連れ帰ったことで薩摩焼が誕生しました。
 朝鮮人陶工師の朴平意(ぼくへいい)や金海(きんかい)らは、薩摩藩内に窯場を開きそれぞれの陶工のスタイルで、様々なスタイルの陶磁器の制作を行いました。これが流派や特徴に分かれ、現在の形に昇華した薩摩焼となります。
 現在の薩摩焼は伝統を受け継ぎ、未だに朝鮮の風俗を受け継いでいます。沈壽官(ちんじゅかん)の窯は美山にある窯場で朝鮮の独特の風俗を受け継いだ色絵薩摩の里です。また、朴平意の末裔が引き継ぐ荒木陶窯は朝鮮ならではの左回しのろくろに拘り、独自の天然釉薬を利用し、祖先から引き継いだ伝統を守っています。
 1867年(慶応3年)の江戸時代から明治時代への変遷期には薩摩藩がパリ万博へ薩摩焼を出品し、ヨーロッパの人々に感銘を与えて「SATSUMA」と呼ばれて親しまれました。2007年(平成19年)の平成時代にもフランス国立陶磁器美術館に於いて薩摩焼パリ伝統美展が開催されその名を馳せました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/satsumayaki/ より

 一歩先を行くやきもの産地をめざす薩摩焼
 現在、鹿児島県内には百数十に上る窯元が点在する。数百年の歴史と伝統を受け継ぐ窯元もあれば、始めたばかりという若い窯元もある。それぞれ製作しているものも異なれば製作姿勢も違う。それら多様な製作者たちをまとめる役割を果たしているのが鹿児島県陶業協同組合初代理事長の陶芸家・西郷隆文さんだ。西郷さんに、自身の作品や現在の薩摩焼についてお話をうかがった。

 
 人の縁が導いた陶芸家への道
 薩摩焼は400年以上の伝統を持つやきものだ。その中で西郷さんは30年に渡って製作活動を続けている。陶芸の世界に身を投じる以前は、アパレルメーカーという流行の最先端の業界で働いていた。「時代の先を読みながら、何もないところからものを作り出す」それが西郷さんの仕事だった。仕事は楽しく充実していたが、「いつか帰郷する」というイメージは、長男である西郷さんの中から消えることがなかった。
 「いずれは鹿児島に帰るのなら、やきものでもやらないか」中学時代の美術の恩師の口からでた言葉が、結果的には西郷さんを動かした。恩師である有山氏は、一度は教職に就いたが退職し、実家である窯元を継いだ人物である。この有山氏に連れられて、西郷さんは大学生の時、初めて日展を見に行った。そこで目にした斬新な陶芸作品の数々に、西郷さんは驚き、感動したという。しかし、感動はいつの間にか忘れられ、興味は心の奥にしまわれていた。忘れていたやきものへの興味を呼び覚ましたのが、有山氏の言葉だった。
 「やきものも面白いかもしれない」そんな思いを胸に、帰郷した西郷さんが入社したのは有山氏の実家「長太郎焼本窯」。中学時代の恩師は、今度はやきものの師匠となった。

 

 他人と同じようなものをつくらない
 朱と黒の漆の下には、薩摩焼の伝統技法のひとつである「蛇蝎釉(だかつゆう)(へびの鱗を連想させる立体感のある仕上がりが特徴)」が施されている。漆を塗って焼いた時に下地の「蛇蝎釉」が垂れ、ぽってりとした立体感が出た作品(陶胎漆器)「長太郎焼本窯」は、「黒薩摩」の本家として知られる百年の歴史を持つ伝統的な窯元だ。ここで、西郷さんは「黒薩摩」の製作技術を学んだ。「黒薩摩」は原料に薩摩の土や釉薬を用いた伝統的なやきもので、漆黒の色味としっとりとした肌合いに特徴がある。
 西郷さんは足かけ5年の修業の後に独立し窯を開いた。それが、現在も製作活動の拠点となっている「日置南洲窯」だ。ここで西郷さんは「長太郎焼本窯」仕込みの「黒薩摩」と、オリジナリティあふれる陶芸アートという2つのタイプのやきものを製作している。
 西郷さんの製作ポリシーは「他人と同じものは作らない」ということ。そんな思想が反映された作品のひとつに「陶胎漆器」がある。「陶胎漆器」とはやきものに漆を施して仕上げた漆器を指す。あまり目にする機会のない工芸品のひとつだ。漆器でもあり、やきものでもある。やきもの一種とはいえ、一般には、漆を塗ってしまったものを焼くことはない。しかし、西郷さんは、大胆にも漆を塗ったやきものを再び窯入れし、焼いてしまう。そうすることで、漆はやきものの表面にある微細な孔に入り込み、やきものと一体化する。漆器の制作者では決して思いつかないテクニックである。漆を焼くという発想そのものがアートなのだ。
 「やきものと漆のコラボレーション」と自ら語る作品は、「炎と漆」という、出逢うはずのないものの出逢いから生れた、斬新な力強さに満ちている。


 伝統的な薩摩焼と現代の薩摩の陶芸アートとの接点
 西郷さんは陶芸の可能性に挑むアーティストであり、伝統ある窯元で修業した「黒薩摩」の作り手でもある。自分で窯を開いた後は、若手窯元のリーダーとして、販売活動の拠点づくりにも積極的に関ってきた。こうした背景をもとに、西郷さんは薩摩焼業界を分析する。
 薩摩焼の業界には、非常に高い技術を持つ職人たちと、鋭い芸術的な感性を持つアーティストたちが混在している。これまで交流のほとんどなかったこれらのグループの、それぞれの良いところを組み合わせることで、時代にフィットした薩摩焼が生まれないかと西郷さんは考えている。
 そんな技と感性のコラボレーションを業界内だけでなく、海外でもやってみたい。そうすることで「薩摩焼を弾けさせたい」と西郷さんは語る。


 ブランド戦略を仕掛けるプロデューサー
 薩摩焼を擁する鹿児島県陶業協同組合には、大きく分けて3つのタイプの作り手が参加している。伝統的工芸品の看板を背負う伝統ある窯、薩摩焼をひろく世の中に広める役割をになう量産対応の窯、薩摩焼の未来を予感させる作品を生みだすアーティストの窯。西郷さんは、これら3タイプの窯元たちの得意分野を把握して、適材適所で世の中に薩摩焼をアピールしていこうとしている。それはまさにオートクチュール・プレタポルテ・コレクションといったアパレルのブランド戦略を思いおこさせる。その舵取りをする西郷さんは、さしずめ薩摩焼ブランドのプロデューサーといったところだ。西郷さんは、アパレル業界で鍛えたビジネスセンスを発揮して、最前線で薩摩焼の営業活動を行っている。
 アーティストとして、ビジネスマンとして。西郷さんの多忙な日々はまだまだ続きそうだ。


 職人プロフィール

 西郷隆文 (さいごうたかふみ)

 

 こぼれ話

 窯元めぐりの愉しみ

 エメラルドグリーンの海、青い空、南国鹿児島はやきものの宝庫。伝統的なやきものから、現代的なやきものまで、多種多様な作品が作り出されている。見学者を受け入れてくれる窯元も多いので、ドライブがてら窯元めぐりをしてみてはどうだろう。

 陶芸体験や陶芸教室といった参加型のプログラムを用意している窯元や、美しい眺望に恵まれ、カフェを併設している窯元もある。まったく異なるタイプのやきものに次々と出会えるのは、鹿児島の窯元めぐりならでは。

 鹿児島県陶業協同組合では、「薩摩やきものマップ」を発行している。60以上の窯元の紹介文や所在地が掲載された便利な一枚。マップ片手に南国の自然とやきものを堪能する旅。時にはそんな旅もいいかもしれない。

*https://kougeihin.jp/craft/0430/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 宮崎 都城大弓

2021-08-23 12:55:29 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「都城大弓」

 Description / 特徴・産地

 都城大弓とは?
 都城大弓(みやこのじょうだいきゅう)は、宮崎県都城市周辺で作られている竹工品です。都城市周辺は良質な竹の産地として知られ、古くから都城大弓を含む弓づくりの他に、木刀などさまざまな武具がつくられてきました。
 特に和弓(わきゅう)は日本でトップクラスのシェアがあり、現在でも、国内の和弓の多くが都城市で作られています。このように和弓の産地として名高いことから、都城市では毎年弓道の全国大会が行われるようになりました。
 都城大弓の特徴は、良質な竹で作られた2メートルをゆうに超える長さです。弓を長くすることによって、命中率があがり、遠くまで矢を飛ばせることから古くより優れた武具として全国的に知られていました。
 武具として優れているだけでなく、弓のにぎり部分には鹿の革を使った美しい模様もあしらわれており、和弓としての風格も兼ね備えています。実用的なのはもちろん、美しさも併せ持った工芸品です。

 History / 歴史
 弓は遠い戦国時代などでは武器として、または武術の鍛錬の道具として作られてきました。都城市でも、豊富な竹を利用して古くから都城大弓など竹細工が作られてきたと考えられています。残念ながら現存する資料にいつごろから都城大弓が作られたのかを知ることができるものはありません。
 江戸時代において、都城から鹿児島周辺を治めていた島津藩(しまづはん)の領主によってまとめられた、江戸時代後期の書物「庄内地理志」に都城での弓づくりについての記載が見られます。江戸時代においてはすでに都城での弓づくりが盛んだったということが伺える貴重な資料です。
 さらに、弓道が盛んだった島津藩での弓への需要が高かったことから、都城での弓づくりを島津藩が保護していたという記録も別に残っています。
 明治時代になると楠見善治という人物が鹿児島からさらに高度な技術を持ち寄り、弓づくりの技術を発展させました。その技術はのちに認められ、1994年(平成6年)には、国の伝統工芸品に指定され、現在も高い技術を脈々と受け継いでいます。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/miyakonojodaikyu/ より

 匠の技を継承し、“日本の心”今も息づく、都城大弓
 都城大弓は南北朝の時代からその伝統と技術が伝承され、古来では武士、現代では多くの弓道家から高い評価を受けている。
 尚武の国と言われ、鎌倉武士のの気風を明治になるまで保持していたとされるこの地方では、武道が奨励され、武道具の製造も盛んであった。

 
 「都城大弓」の由来
 都城は、中世に島津荘と呼ばれる国内最大の荘園を治め、後には薩摩藩主となった「島津家」の発祥の地である。古来より尚武の土地柄であった薩摩藩では、武道が奨励され、武具の製造も盛んに行われていた。なかでも、都城大弓の名声は高く、江戸時代初期にはすでにその製法が確立されていたと言われている。
 現在でも都城では、国内の竹弓の約90%以上を生産している。今回は、都城大弓製造の伝統工芸士である、御弓師(ごゆみし)の永野重次(ながのしげじ)さんにお話をうかがった。

 「都城大弓」の歴史
 永野さんの弓の作業場は、都城市街から車で20分ほどの、静かな場所にあった。永野さんは、いかにも伝統の武具を作る職人さんの風情を持つ、寡黙な人であった。その永野さんは訥々と弓の歴史を語ってくれた。「もともと武道が奨励された土地柄もありましたが、ここは良い品質の竹の生産地でもあったのです。江戸時代の文献にもそれは書いてあります。そして明治に入り、鹿児島から弓師、楠見氏が都城に来住し、多くの弟子を養成しました。今の弓職人はすべて直系にあたりますよ。また昭和の初期にはアジア諸国にまで販路を拡大したことで、弓の産地としての都城が確立されたのです。」


 日本の精神と弓の関係
 『てぐすねをひいて待つ』という言葉がある。この言葉の語源、手薬煉(てぐすね)の薬煉とは、松脂(まつやに)と油を練り合わせた粘着材のことで、それを弓の弦(つる)に塗り、強度を高めていた。すなわち手に『くすね』を取り、弓の弦に塗って、敵を待つ様子から来ているのである。他にも、故事成語に弓に関する言葉は多い。それほど日本の文化・精神と弓は深い関係があったのである。永野さんは、「日本の古来からの精神を引き継いでいることに、誇りを感じる。」と語ってくれた。


 「ああ、こんたびは、よか弓ができたあ。」
 弓作りは、もちろんその全工程が手作りである。しかもその工程はすべて、弓師が一人で行う。
 「私も、もちろん、いい竹を求めて竹林に入って行きますよ。弓の内側、外側、その他各部分で使う竹は違います。竹を切り出す時期は、11月から12月頃まで。この時期は、竹の渇水期に入るので、弓作りには最もいい時期なのですよ。そりゃ寒い時期ですが、いい竹を見つけたら、嬉しいし、寒さを忘れるほど燃えてきますよ。」と永野さん。「その後、数多い工程を経て、弓ができるわけですが、弓は生き物ですので、愛情を持って、自分の全身全霊を賭けて作らないと、人様にお見せできるような弓は作れませんね。」
 もし気に入らない弓ができたらどうするのか、質問をしてみた。しばらくの沈黙のあと「叩き割っと。(叩き割るのです)」という返事だった。丹精込めて作った弓には、一本一本製作者の名前が彫り込まれるのである。恥ずかしいものは、世間に出せないという職人の意地なのであろう。
 「では、自分でも納得できる弓が完成したら、どんな心境なのですか?」という質問に対して、それまで、隣で静かに話を聞いていた永野さんの奥さんが、
「『ああ、こんたびは、よか弓ができたあ。』と嬉しそうな顔です。」と笑顔で答えてくれた。


 職人プロフィール

 永野重次 (ながのしげじ)

 昭和12年生まれ。
 先代の跡を継ぎ、今年で大弓作り35年。

 こぼれ話

 都城の歴史と史跡

 都城地方が歴史上に姿を現したのは、8世紀からになります。当時、日向国には郡制がしかれ、都城地方は諸県郡(もろあがたぐん)に属していました。また、11世紀には平季基(たいらのすえもと)の開発により、荘園としての島津荘(しまづのしょう)がおこったといわれています。鎌倉時代の初めには、惟宗忠久(これむねのただひさ)が源頼朝より島津荘惣地頭職に任命され、のちに忠久は島津姓に改めました。この子孫がのちに南九州一体に勢力を持った島津氏です。
 室町初期になると、島津氏四代忠宗(ただむね)の子、資忠が当地を与えられ、資忠は領地にちなみ“北郷(ほんごう)”と改姓しました。以後、北郷氏は勢力を伸ばし、八代忠相(ただすけ)の時には、ほぼ都城盆地を統一。十代時久(ときひさ)の時には、勢力は最大となりました。豊臣秀吉の九州討伐後、北郷氏は配置変えにより、都城を追われますが、慶長4年(1599年)に起こった庄内の乱後、北郷氏は都城に復帰しました。
 近世には、当地方は薩摩藩の私領として都城島津(北郷)氏により、統治され、藩主に次ぐ禄高、また本藩同様の職制機構を持ち、領内に地頭を置いて支配していました。また、幕末の戊辰の役には、本藩に従い、都城隊士182名が参戦しています。さらに西南の役でも1,550名が西郷軍の一員として参戦しました。
 明治4年の廃藩置県に伴い、当地方には都城県が置かれましたが、一年余りという短期間でした。
 明治16年には宮崎県に組み込まれ、明治22年に都城町となり、大正13年4月1日に市制が施行されました。その後、沖水・五十市・志和池・庄内・中郷の各町村を合併、現在にいたっています。

*https://kougeihin.jp/craft/0631/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 宮崎・鹿児島 本場大島紬

2021-08-23 12:47:21 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「本場大島紬」

 Description / 特徴・産地

 本場大島紬とは?
 本場大島紬(ほんばおおしまつむぎ)は、鹿児島県奄美(あまみ)地方で作られている織物です。絹100%の先染め手織りの平織りで、手作業で締機(しめばた)や手機(てばた)で加工されます。
 本場大島紬の特徴は、シャリンバイと泥染による深く渋い風格と、繊細な絣模様です。着崩れせず着こむほどに肌に馴染むので、着心地の良さからも愛されてきました。しなやかで軽くシワにもなりにくく、奄美の自然から生まれた着る人に優しい織物です。
 製造工程は大きく分けて30以上あり、完成まで半年、またはそれ以上かかることもあります。図案作成から織りあげまでの工程一つ一つが大変複雑なため、熟練した高い技術が必要です。
 現在は伝統的なものだけでなく、色大島や白大島などのニューカラー、ニューデザインのものが開発されています。色柄や風合いのバリエーションを豊かにすることで、成人式や結婚式など様々な場面で着用されるようになりました。洋装分野やインテリアの製品化がされるなど、産地は新しい本場大島紬づくりに取り組んでいます。

 History / 歴史
 本場大島紬は7世紀頃に奄美(あまみ)で始まり、18世紀初期には産地が形成されました。鹿児島へも技法が伝わったと言われています。歴史は文献が少なく起源が定かではありません。1720年(享保5年)に薩摩藩が奄美島民に対して、紬着用禁止令を発令した史実が確認されています。
 鹿児島と沖縄の間に位置する奄美大島は、古くから南方との海上交通の要所であり、道の島とも呼ばれ、南北より様々な文化が流入しました。
 1850年(嘉永3年)~1855年(安政2年)に奄美に滞在した薩摩藩士の名越左源太が書いた「南島雑話」には、奄美の衣服や養蚕について絵図と共に記されています。亜熱帯性気候である奄美大島は、養蚕にも適した地であったため、織物が盛んになりました。
 1907年(明治40年)頃からは、締め機(しめばた)によって作成するようになり、世界でも類まれな経緯(たてよこ)の繊細な絣模様が完成しました。
第二次世界大戦では奄美、鹿児島共に多くを失いましたが、1950年(昭和25年)には資金が導入され生産が始まります。
 近年は円高不況やライフスタイルの変化によって、現在の生産数は最盛期の1割以下ともいわれていますが、価値ある島の名産として愛されています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/honbaoshimatsumugi/ より

 大自然の恵みが大島紬の原点である
 本場大島紬は、1300年の歴史と文化に育まれ、古来より高級絹織物として高く評価されてきた。その特長は、世界に類を見ない絣織りの技法と神秘的な“泥染め”にある。

 
 自然の恵みと本場大島紬
 奄美空港から名瀬市内まで車で約1時間。そこからさらに車で20分入った所に、本場大島紬、染色部門の伝統工芸士である、野崎松夫(のざきまつお)さんの工場はあった。 工場の回りには、蘇鉄(そてつ)などの南国特産の草木が茂り、いかにもその雰囲気は盛り上がってくる。染色工場の裏手には、30坪くらいの“泥田”がある。そこで若い修行中の染色職人さんが、熱心に泥染めをやっている最中だった。 工場内の驚くほど大きな煮釜の横で、野崎さんにお話しをうかがった。 「この泥染めは奄美大島でしかできんのです。技術や技法でなく、テーチ木<車輪梅(しゃりんばい)>もこの地方のもんやし、この奄美の泥やないと泥染めはできんとですよ。」 大島紬の命ともいうべき泥染めは、前段階でテーチ木染めが必要である。まずテーチ木の幹と根を細かく割り、大きな釜で14時間煮て、その汁で何十回も繰り返して糸を染めるのである。 テーチ木のタンニン酸によって糸は赤褐色に変わっていく。その赤褐色に染まった糸を今度は泥田で泥染めするのである。泥に含まれた鉄分がテーチ木のタンニン酸と化合し、糸は柔らかくこなされ、大島紬独特の渋い黒の色調に染め上がる。 「あの南国の植物のソテツがあるでしょ。ソテツは漢字で“蘇鉄”。ソテツが自生している土は、鉄分が豊富で泥染めに向いているんですよ。それと奄美の泥は、粒子が丸くとても細やかなので、紬の糸を傷つけず、やさしく染め上げることができるんですよ。」と野崎さんは胸を張る。 野崎さんの横では、テーチ木を煎じる大きな釜が煮立っている。その燃料も実は、煎じ終った後のテーチ木なのである。さらに、残った灰は、藍染め用の藍ガメに入れられる。そして、最後に灰は藍とともに、肥料としてまかれ、奄美の大自然に還る。まさに大自然の中で育まれ、自然に還っていく独特の染色技法だ。 野崎さんは、「本当に奄美の自然が好きだし、自然とともに生活してきたんだ。自然にはいつも教えられることばかりやな。」と笑った。この自然に対する考え方、姿勢は、奄美大島の人たちが共通して持っている概念のようだ。

 野崎さんの“染めの哲学”
 「わしは、30年間泥染めをやってきたけど、これは難しいねえ。原料のテーチ木が成長して使えるようになるまで30年かかる。わしが泥染めを始めた頃に生まれたテーチ木が、やっと今頃使えるようになる。そのテーチ木も、山の中で成長したものか、海風に吹かれて成長したものかで、染め方も変わってくる。その都度、自然の恵みに人間が合わせていかんと、いい染めはできんのですよ。」 工場の裏山でも、天然のテーチ木が採れるというお話しだったので、ぜひ見たいというお願いをしたのだが、野崎さんは破顔一笑「やめとき、ハブにかまれるよ。」 泥染めは、腰まで泥田につかり、何回も何回も染めを繰り返す、過酷な肉体労働である。  「夏の暑さはそりゃ、つらいですわ。奄美の夏はとにかく暑い。泥もお湯のようじゃし、太陽の光はきついし・・。けど、わしらはこの自然の恵みで生活させてもらっちょるわけやから、文句は言えんな。」あくまで、大自然に対して謙虚な気持ちを持ち続ける。 『あなたにとって“泥染め”とはなんですか』という質問に対して野崎さんは、ピンと背筋を伸ばし、こう答えてくれた。「世界に誇れる“大島紬”の生産に携わっておられることがうれしいですね。特に染めの重要性は高いし、紬がご評価いただくのも染めが中心になります。そんな奄美独特のこの仕事を続けていることに、わしゃ誇りを持っています。長いことやっててもそんなに満足のいく染めができたことは少ないですが、思い通りにいった時は本当に嬉しいもんです。」 「着物文化は日本文化であり、永遠にこの伝統は、現代の日本人として継承していく義務があると思うんですよ。若い人ももっと日本文化に誇りを持ってほしいですな。うちでは、泥染めの実体験もできるようにしています。次の世代に泥染めの伝統を体験してもらい、継承してもらいたい。それがわしの夢です。」

 職人プロフィール

 野崎松夫 (のざきまつお)

 昭和16年生まれ。 先代(父親)の跡を継ぎ、泥染めの世界へ入って30余年。 現在は3代目(息子さん)とともに伝統の技法を守り続ける。

 
 こぼれ話

 ネリヤカナヤの神と共に唄い踊る島人たち

 奄美の人々は海の彼方にネリヤカナヤ(神の国)があると信じ、その暮らしは太陰暦で営まれていました。奄美、沖縄の琉球文化に特徴的に見られる「ユタ」「ノロ」と言われる人々の存在も忘れてはならないでしょう。シャーマン的な働きや身の上の相談役として、今なお、島人の支持を得ています。 奄美の各集落には太陰暦により「ユタ」「ノロ」が、つかさどる祭祀や習慣が根強く残っています。古来、島人の暮らしは自然の懐に抱かれ、海の幸に恵まれたものだったのです。太陽や月とともに季節がめぐり、農作業や祭りが行われました。 旧暦の8月には、収穫の感謝と豊作を祈る祭りが多く、なかでも「ショッチョガマ」は400年の歴史を持つ、重要指定文化財指定の行事。早朝、山腹のわら屋根の上で、集落の男衆が祭詞を唱え、屋根を崩す勇壮な祭りです。夜になると生命感あふれる踊りと唄掛けの世界が広がります。 さとうきび地獄といわれた薩摩藩の搾取の時代から、人々は唄うことで労働の苦しみを、紛らわせてきました。唄のそばには必ず踊りの輪があります。そして、島独特の伝統料理と、サトウキビから作った焼酎さえあれば、夜がふけることも忘れて、島人たちは大いに笑い、語り合うのです。

 旧暦の8月に行われる、収穫の感謝と豊作を祈る祭りである「ショッチョガマ」
点と線の精緻な結晶、大島紬
 本場大島紬の命は、絣の細やかさにあり、すべての柄は絣の集合体で表現される。熟練した織工が、たて糸とよこ糸の絣模様が正しく交叉するよう、7~8cm織り進むごとに細い針の先で絣を一本一本丹念に正しく揃えていく。織工には細心の注意と根気が必要とされ、一反織り上げるのに、40日以上の日数がかかる。

 
 はるか南島から伝えられた絣の技は、鹿児島で大きく花開いた
 “大島紬は二度織られる”と言われる。絣文様を染めるのに一度織締され、その後機織りされるためだ。締機は絣糸を綿糸で固く織締するので、織機より大きく、そして強い力を要する。そのため主に男性の仕事であった。この工程での画期的な技法が、明治40年鹿児島で開発され、絣の正確さと生産能率の向上に大きく貢献した。 もっと古く江戸時代、薩摩藩の特産品として手厚い保護を受け、生産を奨励された歴史もある。その後大島紬の人気は全国的となり、奄美大島から移住してきた人たちを中心に、鹿児島本土でも生産されるようになったのだ。 本場大島紬の個性は、“締機(しめばた)による力と技”、“泥染めによる独特の渋み”、“点と線の精緻な結晶、絣模様”であると言える。 今回は、鹿児島地区本場大島紬伝統工芸士会会長で、ご本人も伝統工芸士でもある、菱沼彰(ひしぬまあきら)さんにお話をうかがった。 菱沼さんは「どっからおじゃしたと?(どこから来たんですか)」と明るい笑顔と薩摩弁で迎えてくれた。
 上質の絹糸は本場大島紬の生命である
 「ここ鹿児島で大島紬が盛んになったのは、他にも理由があるのですよ。絹糸の質に当時から職人がこだわってきたのです。素材の良さが光っていないと、本物として歴史の風雪には耐えられんでしょう。」と菱沼さん。大島紬と言うと、どうしても染めや織の技法に焦点がいってしまいがちだが、『着たらわかる』本物を作るためには、絶対視しなくてはいけないと言い切る。 ただでさえ、大変な手間と時間のかかる大島紬だが、素材へのこだわりはゆるぎなく、ご自身でも当地でシルクの研究会を主催しているほど、絹糸にはこだわっている。 「人間も着物もいっしょですよ。本物は素材で決まる。長い工程を経てできあがる大島紬の原料糸には、特に厳しく選定しています。理想の絹糸で大島紬が織れるようになると、さすがに染め上がりがすばらしく、絣模様の色が冴えて、気品が出てきます。」と菱沼さんは力強く語ってくれた。
 「職人の世界は、40年やっても鼻タレやっど」
 「この世界に入って40年になりますが、いや、まだまだ鼻タレ小僧ですよ。この前も、うちの先代からお世話になっている問屋の大奥さんに『あんたもようやく先代の肩くらいまでは成長したかね~』と言われました。60才近くにもなって、そんなことです。まあ先代は、“白大島”を開発した腕もアイデアもあった人じゃったから、逆にその言葉は嬉しかったですよ。」と菱沼さんは笑顔で語った。 「大島紬は、とにかく奥が深い。やってもやっても先が見えん。自分で満足したことは一度もないですよ。ただここまで続けてこられたのは、自分の作った大島紬をわざわざ求めてくださるお客様や問屋さんに、喜んでもらおうという願望だけかな。うん、わしはいつも飢えとるんですよ。常にいいものを作りたい、新しいものをつくりたいとね。」 「妥協はできんですよ。好きですしね、この仕事が。男が好きな仕事をして、笑われたらいかんでしょ。だから、一所懸命やるんですよ。」と“薩摩男子の職人”は迫力ある声で語ってくれた。
 「見つめなさい」
 そんな菱沼さんが、遠くを見ながら、師匠である先代の思い出を語ってくれた。「わしが先代から言われて、今でも忘れられない言葉があるのですよ。それは『見つめなさい』という言葉です。美術でも、人間でも、お饅頭でも何でも『見つめなさい』ということです。つまり、物事の表面だけを見るのではなくて、自分の知識と感性のすべてを使って分析しろ、ということなのです。この年になってやっとその意味が少しわかってきましたな。どの道でももの作りに従事する人で、一流の人が言うことは、ここに尽きるのではないかなあ。だからわしは死ぬまで、大島紬を見つめ続けていくつもりですよ。」 と語ってくれた菱沼さんの向こうから、織機の「トントン」という音が響いていた。
 

 職人プロフィール

 菱沼彰 (ひしぬまあきら)

 【南風(なんぷう)】—本場大島紬伝統工芸士。 初代【南風】の跡を継ぎ、25年。 2代目南風として、その作品のファンは数多い。

 薩摩隼人。菱沼彰さん
こぼれ話

本場大島紬の“染め”の分類

 1.泥染大島紬 (どろぞめおおしまつむぎ) 伝統的なテーチ木と泥土染め方法で染色した糸を用いて織り上げられた、高級な紬です。光沢を抑えた渋みの黒色としなやかな感触が豊かな気品を醸し出します。泥染地に白絣が茶色がかって見えることから、茶泥大島とも呼ばれています。 2.泥藍大島紬(どろあいおおしまつむぎ) 植物藍で先染めした糸を絣むしろにして、それをテーチ木と泥染めで染色したものです。泥染よりさらに深みと艶がました黒地に、藍絣の調和がシックで魅力的に映ります。 3.植物染大島紬 (しょくぶつぞめおおしまつむぎ) テーチ木、藍以外の草や木などの植物から抽出された天然染料で染められたものです。古典的な染色法に、改善を重ねて染めあげたもので、微妙やさしい色調が見直され、彩りも多彩な大島です。 4.色大島紬(いろおおしまつむぎ) 合成染料を使用して、色絣模様に染色したもので、多彩な色調と自由なグラディエーションは、大島紬の無限の可能性を広げました。色使いが自由なので、モダンなものや大胆なデザインも豊富にできます。 5.白大島紬(しろおおしまつむぎ) 白、あるいは淡地色の大島紬です。春の終わり、秋の初めなど単(ひとえ)衣仕立てにしても使えます。明るくお洒落な感覚が好評です。

 


 伝統とモダンの融合、都城 本場大島紬
 宮崎県都城市で作られる本場大島紬は、古来から伝わる伝統技法だけにこだわらず、染めにおいても、自然の草木を使った“草木染め”などを取り入れている。デザイン、販売方法などにも、進取の気鋭が随所に見られる。

 
 伝統と血筋と革新
 霧島連山の麓、都城市の閑静な住宅街の一角に、明るくいかにも現代的な大島紬の展示ギャラリーがある。そこでお話をうかがった都城絹織物事業協同組合理事長の谷口邦彦さんは、自ら大島紬のデザインから織り、品質管理までをする、ダンディーな職人であった。 「もともとここ都城で大島紬の生産が始まったのは、奄美大島で伝統技法を身につけた人々が、よりよい環境、素材、市場を求めて都城にその新天地を見つけたという歴史があります。ただ、その源流は、閉め機(しめばた)工法を開発し、本場大島紬の製造工程を一新、その発展に多大な貢献をした『永江伊栄温(ながえいえおん)』。それがうちの祖先ですから、本場大島紬の本流と言ってもいいかもしれませんね。」 と谷口さんは、温和な口調で語り始めてくれた。 「その家系から、今度は奄美大島で初めて大島紬の撚糸工場を開いた人が、うちの祖父にあたるんですよ。その後も、次々と新しい技法を取り入れ、大島紬に堅牢度や色の深みを与える手法を開発したり、大島特有の“てり”を抑えた渋い風合いの色大島を開発したのも、ここ都城です。つまり私の個人的な意見ですが、“伝統”というものは、“革新・改良”と表裏一体のものだということです。」 その思想は、都城で作られる本場大島紬のすべてを網羅した、現代的なギャラリーへと繋がるのである。
 若い感性を取り入れる
 奥様の啓子さんは、大島紬のよく似合う女性である。啓子さんは「日本の着物文化は年配の人だけのものだという考え方が、この伝統産業を衰退させています。もっと、身近に、気軽に“着物”を考えて欲しいですね。特に大島紬は“おしゃれ着”なのです。肩ひじ張らずに、日本人として着物を着るという文化を広めていきたいです。」と語る。 ここでは、大島紬の織物工房がすぐそばに併設されている。新しいデザインや色目の商品を開発し、定期的にギャラリーで展示会、発表会を開催している。見学に来た若い人たちが、新しい着物文化に触れ、たちまちその魅力に惹かれるのである。 実際そういった形で、本場大島紬の織り技術を学んでいる20才代の若い“紬職人”も多い。その中若手紬職人のひとり、森さんにお話しをうかがった。 「きっかけは、たまたまここへ遊びに来たときに、織物工房を見学させてもらったのです。工房の中では、みなさん一所懸命に織機に向かっていました。もともと洋服は大好きだったんですけど、一本の糸が何十工程も経て、素敵な着物に変身していくのを目にして、すごく感動しました。私もやってみたいと思い、それから工房で勉強させてもらい始めたのです。まだ始めたばかりなので、わからないことばかりなのですが・・・。大島紬は、織物の中でも特に絣の構成も緻密で、高度な技術が求められます。難しいですね。天然素材ですので、その日の気温や湿度にも影響されますし。その日その日で力の入れ具合い、糸の運び方も変わってくるのです。だからこそ、やりがいも感じています。もともと、もの作りが好きだったこともありますが、ひとつの物をていねいに作り上げていくことは、とても楽しいですよ。もちろん私の一生の仕事として考えています。」 「古くからの伝統技法を学んでいることで、精神的にも少しだけ成長したような気がします。『伝統技法を未来に伝える』という大切な仕事を任せられている、という実感がいつもあります。しっかりしなくっちゃって。」と明るく答えてくれた森さん。「まだまだ技術的には未熟ですが、私の夢は、自分の織った大島紬を着て、街を歩くこと。」とはにかんだ森さんの顔は、職人の顔からひとりの女性の顔に変わったいた。ここ都城大島紬の未来は明るい。
  
 草木染め
 元来大島紬は、いろいろな植物で染められていた。ハゼ、車輪梅、さといもがら、藍など染料として多く用いられてきたのである。その後、色落ち止めなどの改良で、堅牢で、色鮮やかな染めができるようになった。特に南九州は、染料の原料は豊富である。霧島連山の麓で、おいしい空気と水と豊穣な土地が、梅、椎、やまもも、矢車、よもぎ、黄ばく、五倍子などの植物を優しく強く育んでくれた。そんな大自然の恵みを生かした植物染め大島紬は、豊かなやさしい色合いで、今日も女性の心を優しく彩っているのである。
 
 職人プロフィール

 谷口邦彦 (たにぐちくにひこ)

 都城絹織物事業協同組合理事長。 現在は主に大島紬のデザインと総合的な管理を主としている。 織物のかたわら、ジャズピアノも弾く趣味人でもある。 囲碁、将棋ともに5段の腕前。

 こぼれ話

 ウェルネス都城

 都城市は、伝統産業はもちろん、古来からの歴史があり、『ウェルネス都城』の宣言をしています。人が元気・まちが元気・自然が元気をキャッチフレーズに、個人の身体的健康から、精神的健康、人間性をも含んだ概念で、平成10年にこのことを宣言しています。今回はその『ウェルネス都城』が自慢できる、観光名所をご紹介いたします。 関之尾(せきのお)公園は、緑したたる関之尾は、大自然の力が作り出した造形美であふれる天然の美術館のようです。特に、世界最大級を誇る甌穴(おうけつ)群が見物。さらにしぶきを上げる3つの滝。四季折々の表情を見せてくれる素晴らしい景観は、大地の力強さと自然のやさしさをたたえています。日本の滝100選にも選ばれた滝は、幅40メートル、高さ18メートルにも及ぶ大滝です。

*https://kougeihin.jp/craft/0125/  より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 大分 別府竹細工

2021-08-23 11:31:14 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「別府竹細工」

 Description / 特徴・産地

 別府竹細工とは?
 別府竹細工(べっぷたけざいく)は、大分県別府市を中心に県内から産出されたマダケを主材料として作られている竹製品です。
 別府竹細工の特徴は、竹ひごを編み上げる「編組」という技法で、全て手作業で作られていることです。四つ目編み・六つ目編み・八つ目編み・網代編み・ござ目編み・松葉編み・菊底編み・輪弧編みの8つの編組を基本とし、編組の組み合わせ次第では200通り以上の編み方が可能と言われています。この8つの基本的な編組は、大分県で唯一、経済産業省より日本の伝統的工芸品として指定されています。
 花籠、飯籠、盛り籠といった昔ながらの日用品に加え、籠バッグやバスケットなど現代風にアレンジされた製品も人気があります。また、美術工芸品として利用されることもあり、別府市内にある旅館の内装に竹編みの技法を施されたことが昨今話題となりました。
 優れた技術による美しい竹細工は、日本だけでなく海外にも多くのファンを持つ工芸品として多くの方に認知されています。

 History / 歴史
 奈良時代の「日本書記」に、景行天皇(けいこうてんのう)が九州南部の熊襲征伐の帰りに立ち寄った別府にて、台所方が良質なシノダケから茶碗籠を作ったことが別府竹細工のはじまりであると言われています。
 室町時代には、行商(商品を持ち歩いて販売する小売商人)用の籠が生産され、別府の竹細工市場が確立していきました。
 別府が日本一の温泉地として知れ渡った江戸時代に入ると、各地から訪れた湯治客の飯籠(炊いた米を入れる籠)などの生活用品に土産物にと人気を博するようになり、竹細工市場はますます活性化して地場産業としても定着します。
 1902年(明治35年)に、別府工業徒弟学校竹籃科が創立されると別府竹細工は単に土産物というだけでなく、優れた技術を要した工芸品へと成長していきました。1967年(昭和42年)には生野祥雲斎が竹工芸初の人間国宝となり、高度な技術の伝承は守られ続けていきました。
 1979年(昭和54年)、通産省(現在の経済産業省)から日本の伝統的工芸品に指定され、現在に至るまで工芸品としてだけでなく芸術作品としても別府竹細工が広く親しまれています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/bepputakezaiku/ より

 湯治客の土産物から美術工芸品へ
 全国的に有名な別府温泉。湯治客のお土産だった竹細工が、やがて文化人など目の肥えた人たちによって美術工芸品にまで高められていった。若い職人たちの育成にもいち早く取組み、別府竹細工の技術は大きく進歩した。

 
 温泉とともに発展した別府竹細工
 日本有数の温泉地として名高い別府。ここ別府に伝わる竹細工も温泉と同様に歴史のあるもので、日本書紀にもその記述が残っているほどだ。温泉観光というものが発展してきた明治になると、お土産ものとして別府竹細工は湯治客たちの人気を集め、その湯治客が持ち帰ったものがまた人気を呼び、全国にその評判は広まっていった。それまで農家の副業として細々と営まれていたものが、専従業者も登場して別府は竹細工の一大産地として発展していったのである。


 優秀な職人を育てる学校の設立
 温泉地として発展してくると、別府には実業家や文化人たちが別荘を持ち、訪れるようになってきた。こういった人たちから土産物としてだけでなく、美術工芸品としての竹細工が次第に求められるようになっていった。そこで明治35年に、別府町浜脇町学校組合立工業徒弟学校が設立され、職人をめざす若者たちにも高度な技術の習得が可能となった。他県からも多くの技術者が移住してきた。
 こうして、明治・大正・昭和と別府温泉の隆盛とともに、竹細工も黄金期を迎えた。職人たちは切磋琢磨し、技術を競い合い、優れた細工師が輩出された。現在も別府には、日本で唯一の竹工芸の専門技術を学べる高等技術専門学校がある。


 ダイナミックな「ヤタラ編み」
 伝統工芸士、油布昌孝(ゆふまさたか)さんは昭和16年(1941年)にここ別府市に生まれた。お父様がやはり竹細工職人だったことから、中学生くらいから自然と見よう見まねに手伝っていたということだ。油布さんの得意なのは「ヤタラ編み」という編み方。ダイナミックで荒く、勇ましい編み方である。お父様もこのヤタラ編み専門だったそう。このヤタラ編みを使った花器を見せていただく。その迫力、力強いエネルギーにただただ圧倒される。こういう個性の強い作品は、欧米でインテリアとしてとても人気が高いそう。


 女性にも似た、竹の魅力
 「そのときの気持ちが作品に反映されるから、作ろうと思ったときの気持ちを大事にしている。」お不動様、滝、海・・・彼の作品に影響を与えるイメージはそういったものから。油布さんはまた、華道や詩吟を愛好する趣味人でもある。「花と自分の作った花器のイメージがピッタリ合ったときは、最高の気分。逆に花を生けてみて、花が負けるようじゃダメ」花への愛情にも並々ならないものを感じる。竹というまっすぐの自然の素材に、人の手をかけ、編み、曲げ、まったく別の曲線的な美しいものが作られる。そこにまた自然そのものの、花を生ける。そこから生まれるハーモニーの妙なること。
 「竹の魅力は、弾力性。それはまるで女性のようで、バネのような強さがある反面、しなやかで、弱いところも見せてくれる。」そう語りながら、油布さんの手からは、あれよあれよという間に、手鞠のようなかわいらしい籠ができあがってくる。そのみごとな手の動きには、ほうっとため息さえこぼれてしまう。


 使う人の愛着で一層の艶
 「次々と注文がきて、忙しいくらいの方が充実していて、いいものができる。」そう語る油布さんは、最近お友達に誘われてゴルフを始められたそう。その他にも、碁や将棋も楽しまれるということだが、「なんでも5番以内になろうとがんばるから、あんまりリフレッシュにはなってないね。」その勤勉さが、次々と精力的に新しい作品を作り出していく源泉となっているのであろう。
 別府竹細工には、長い歴史と職人たちの確かな技術から生まれる信頼性と、本物だけが持ちうる独特の味わいがある。そこには作った職人たちの日々の努力はもちろんだが、それを手に入れた人の愛着によって一層、いい艶を帯びてくるはずだ。


 職人プロフィール

 油布昌孝

 昭和16年(1941年)に別府に生まれる。昭和63年卓越技能士として別府市長表彰を受ける。

*https://kougeihin.jp/craft/0630/ より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 熊本 山鹿灯籠

2021-08-23 11:27:22 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「山鹿灯籠」

 Description / 特徴・産地

 山鹿灯籠とは?
 山鹿灯籠(やまがとうろう)は、熊本県山鹿市周辺で作られている和紙です。熊本県の夏の風物詩、「山鹿灯籠まつり」で、優美に踊る浴衣姿の女性が頭に乗せている「金灯籠(かなとうろう)」もそのひとつですが、灯りをともす灯籠とは異なり、実在の建造物を1/20から1/30ほどの大きさにし、細部まで精巧に再現したものも灯籠と呼ばれています。神殿造り、座敷造り、城造りなどがあり、毎年、山鹿灯籠まつりに合わせ、灯籠師たちの手によって作られた壮大かつ繊細な作品が大宮神社に奉納されます。
 山鹿灯籠の特徴は、材料に和紙と糊だけを使い、留め具なども一切使わずに立体構造を作り上げる点です。定規や小刀、ハサミ、コテなどの道具を使用しますが、曲線部分は、のりしろを作らずに紙の厚み部分のみを使って貼り合わせるなど、すべての工程において繊細な作業が続きます。
 また、建造物を実際に目の前で眺めているかのような臨場感を出すために、縦横の比率も実際の縮尺に、独自の変化を加えるなど、灯籠師の熟練の技によって紙とは思えないほどの重厚さや豪華さを生み出しています。2013年(平成25年)には国の伝統的工芸品として指定されました。

 History / 歴史
 山鹿灯籠の歴史は諸説ありますが、最も語られる一説は第十二代天皇、景行天皇の時代まで遡ります。
 天皇一行が九州を巡幸中、山鹿を流れる菊池川で濃い霧に遭遇した際に、山鹿の里人が皆でたいまつをかかげてお迎えし、現在の大宮神社まで無事に導いたという伝説によるものです。それ以降、毎年大宮神社に灯火を献上していましたが、室町時代に入ってからは、灯火が紙で作られた金灯籠に代わったと言われています。
 さらに江戸時代には、富豪たちがより豪華な灯籠を灯籠師に作らせたことで、座敷造りや五重塔など現在のような灯籠が奉納されたという記録が残されています。
山鹿で紙づくりが行われたことも、山鹿灯篭が発展した理由の1つとされています。1592年(文禄元年)に始まった文禄・慶長の役の際に、加藤清正が高麗より連れ帰ったのが慶春・道慶の紙漉き職人でした。二人は和紙づくりの役職をあたえられ、のちに現在の山鹿市鹿北町芋生に移住した慶春が、山鹿に紙漉きの技術を伝授したと言われています。
 和紙作りは周辺の地域へと発展し、山鹿周辺は重要な紙の産地となってゆきました。これが山鹿灯篭に大きく影響していると考えられています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yamagatoro/ より

 山鹿灯籠とは
 和紙だけで作られる幻想的な明かりの正体

 山鹿灯籠まつりの様子
 写真の灯籠が和紙と糊だけで作られていると知ったら、きっと多くの人が驚くはず。

 「灯籠師」と呼ばれる職人の技術と、金属と見間違えるほど精巧に作られた山鹿灯籠は、いにしえの時代から人々を魅了してきた。

 今回はそんな山鹿灯籠の魅力を掘り下げる。

 山鹿灯籠とは?驚くほど軽い理由
 山鹿灯籠 (やまがとうろう) とは熊本県山鹿市のみに伝わる、手すき和紙と糊だけで作られる立体的な紙細工の工芸品。

 九州の夏の風物詩「山鹿灯籠祭り」で知られる、まるで金属の灯籠のような「金灯籠 (かなとうろう) 」のほか、神殿造り、座敷造り、城造りなどさまざまな様式がある。

 山鹿灯籠の中でも有名な金灯籠
 いずれも「灯籠師」と呼ばれる専門の職人が手がけており、すべて精巧な手作業によって表現されている。

 山鹿灯籠まつりとは?
 熊本県山鹿市では、毎年8月15・16日に「山鹿灯籠まつり」が行われる。2018年には来場者は16万人にものぼった。

 山鹿灯籠まつりの歴史は古い。深い霧が立ち込める中、第12代景行天皇が巡幸した際、山鹿の人々は松明を灯し土地を案内した。それ以来、山鹿の人々は天皇を祀り、松明の代わりに灯籠を用い始めるようになったのが山鹿灯籠祭りのきっかけである。

 室町時代を迎えると、現在も続く金灯籠を頭にのせた浴衣姿の女性が舞い踊る「山鹿灯籠踊り」が生まれる。

 山鹿灯籠まつりの様子
 祭りの代名詞ともいえる千人灯籠踊りは、優美で見る人を魅了し続けている。

 山鹿灯籠の基本
 ○素材は和紙と糊だけ

 山鹿灯籠は木や金具は一切用いず、手すき和紙と糊だけで作られる。

 「骨なし灯籠」ともいわれるように、手すき和紙を折り、糊付けし、内部を空洞化した柱や垂木 (たるき) などの部材を中心に組み上げることを特徴としている。


 山鹿灯籠の制作工程
 熊本県山鹿地方では、江戸時代初期より紙の原料である楮 (こうぞ) の栽培が行われていた。さらに肥後の紙すきの始祖といわれる、慶春 (けいしゅん) ・道慶 (どうけい)が川原谷 (現在の山鹿市) に移り住み、紙すきの技術が子孫にも受け継がれ、藩の保護を受けた。和紙づくりの原料と技術、二つが山鹿に揃ったことにより山鹿灯籠は発展した。

 このように優れた素材が確保されていたからこそ、紙灯籠が作られるようになったのである。

 ○代表作は「金灯籠」

 山鹿灯籠の代表的なものとして、山鹿灯籠祭りで用いられる「金灯籠」があげられる。

 山鹿灯籠
 この金灯籠は、まるで金属のように思える外観に反して、その全てが和紙で出来ているため、見た目からは想像もできないほど軽く、山鹿灯籠まつりではこの金灯籠を頭にのせて、浴衣姿の女性が「山鹿灯籠踊り」を舞い踊る。

 ○山鹿灯籠の伝統を伝える「灯籠師」とは

 山鹿灯籠を語るうえで、「灯籠師」の存在は欠かせない。

 山鹿灯籠の制作技術は、この灯籠師らによって長く受け継がれ、現在、9名の灯籠師 (2018年) がその伝統を守っている。

 一人前の灯籠師になるには、10年以上の修練が必要だと言われ、高度な技術と熟練を要する厳しい世界である。

 ○数字で見る現在の山鹿灯籠

 ・灯籠師の数 : 9名 (男性4名、女性5名)

 ・千人灯籠踊りがはじめて実現した年 : 1964年 (昭和39年)

 ・伝統工芸品指定 : 2013年に国の伝統的工芸品に指定される。

 山鹿灯籠といえばこの人・松本清記 技法を集大成させた伝説の灯籠師
 松本清記 (まつもと せいき) (1880~1972)は山鹿灯籠をめざましく発展させた人物として知られる。

 清記は、1880年 (明治13年) 5月5日、旧山本郡山本村字内村 (現在の熊本県熊本市植木町) に生まれた。

 幼い頃から折り紙や絵を描くことが好きで、絵画の修行に打ち込んだ。

 優れた山鹿灯籠師であり、清記の親戚でもあった木村仙太郎の家に泊まることも多々あり、時に仙太郎の灯籠作りを手伝わされることもあった。

 20歳のとき、清記は木村仙太郎の婿養子となる。清記はその目で仙太郎の技をしっかりと見て学び、創意工夫を重ねながら独力で灯籠制作の技法を習得した。

 仙太郎が他界したのちも熱心に制作活動を続け、ついに清記は生涯の大作とも言われる『熊本城全景』を完成させ、1958年 (昭和33年) 、松本清記は同じく灯籠師である山下辰次 (たつじ) 1905年生まれ) とともに、昭和天皇・皇后の前でその技を披露し、その功績を讃えられ、山鹿市名誉市民となった。

 清記は門外不出とされていた山鹿灯籠の製作法を10数名に及ぶ弟子に丁寧に指導を行い、後継者づくりにも力を入れた。

 このように松本をはじめとする灯籠師の活動によって、灯籠制作の伝統技術は現在まで受け継がれてきたのである。

 山鹿灯籠の豆知識 まつりを彩る「よへほ節」作詞は野口雨情
 「シャボン玉」や「赤い靴」など数々の名作を残した詩人・童謡・民謡作詞家で、北原白秋、西條八十とともに童謡界の三大詩人といわれている野口雨情 ( 1882~1945) 。

 実は、山鹿灯籠まつりを彩る「よへほ節」で歌われている歌詞は、1933年 (昭和8年) に野口が元唄を改作したものである。

 この「よへほ節」の「よへほ」とは、「酔へ+ほ」からきたという説がある。

 「ほ」というのは、肥後弁特有の、他人に何か促すときや、相手の気を惹いたりする意味があり、「よへほ」は「あなたもお酔いよ、ほらっ」といった意味合いであるといわれている。

 山鹿灯籠の歴史
 ○始まりは第12代景行天皇のご巡幸から

 山鹿灯籠の歴史は、第12代景行 (けいこう) 天皇の時代に始まるといわれている。

 景行天皇が菊地川を遡り山鹿に着船するとき、濃い霧がかかっていたため、山鹿の人たちが松明を掲げて道案内し無事にお迎えしたという伝説が山鹿郡の地誌である『鹿郡旧語伝記 (かぐんきゅうごでんき) 』にのこされており、これがのちの山鹿灯籠の原始であったと言われる。

 ○史料が映す灯籠と人々の姿

 山鹿灯籠は室町時代にはすでに作られており、山鹿市にある金剛乗寺 (こんごうじょうじ) 所蔵の『當 (当) 町紙灯籠縁起由来略記』には

 「前年に逝去した宥明 (ゆうめい) 法院の供養のため、新たに住職となった宥恵 (ゆうけい) 法印が末寺の僧都 (そうず) を招集して、4月15日から7月15日に大法会を行った。その時町中が大いに喜び、組頭たちは法印のご恩に報いるため、紙細工で有名な山口兵衛に頼み紙灯籠数百を作らせた。この紙灯籠を7月15日の夜、献じたことに始まる」

 と紙灯籠の由来は1486年 (文明18年) と記録されている。

 山鹿灯籠の史料で確実なものは『嶋屋 (しまや) 日記』 (菊池市教育委員会蔵) の記事である。『嶋屋日記』には、1674年 (延宝2年) 7月16日に山鹿湯町で灯籠見物という記事があることから、少なくとも17世紀中頃には山鹿灯籠が制作され、それを人々が確かに見物していたということがわかる。

 ○江戸の頃には藩主のもてなしに

 『鹿郡旧語伝記』の「湯町灯籠ノ謂 (いわ) レ」によれば、1754年 (宝暦4年) 9月、

 「藩主細川重賢 (しげかた) より灯籠をご覧になりたいと仰せがあったので、細工人たちが制作し、熊本御花畑屋敷に納品し銀15枚を拝領した。この時、細工人13人は屋敷内の佐野の間に入ることを許され、灯籠を納め帰った」

 とある。その後、重賢は山鹿で狩りをする際、たびたび灯籠を見るようになった。

 天保年間末期から文久元年 (1843頃~1861) に作成された、肥後の名所や名物を相撲の番付形式で記した『名所名物東肥名寄 (めいしょめいぶつ とうひなよせ) 』 (個人蔵) では、山鹿灯籠は「幕内の五」とかなり上位に登場し、当時の評判がうかがえる。

 ○灯籠師、松本清記の登場

 明治に入ると、灯籠の種類も増えていく。

 1897年 (明治30年) 8月20日の『九州日日新聞』の記事には従来の宮造りや座敷造りの他に、軍艦や情景をモチーフにした作品が登場したことも書かれている。

 伝統を受け継いできた山鹿灯籠は、灯籠師・松本清記の登場により、その技法が集大成され、後継者の確保や育成がなされたことから、近代的な伝統工芸品として普及していったのであった。

 現在の山鹿灯籠
 2012年 (平成24年) には山鹿灯籠振興会が結成され、県・市・振興会が協力し合い、後継者の育成や販売拡張などに積極的に取り組み、現在では9名の灯籠師によって精巧で美しい山鹿灯籠作りが行われている。

 2013年 (平成25年) には、経済産業省の伝統的工芸品に指定された。

 また近年、山鹿灯籠の認知度をより上げるため、4名の女性灯籠師によって明治日本の産業革命遺産に登録された熊本県宇城市の「三角西港」が再現された。

*https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/116684 より

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