茶山守廣・隠岐三味線ブログ

名残尽きぬに 銅鑼が鳴る今宵

西郷港は 小雨も降らぬに 袖しぼる

        (隠岐民謡・しげさ節)

高橋竹山語録

2008年01月18日 | 気まぐれ日記
芸事に限らず何でもその道を極めた人の話(語録)は面白く、為になることそしてなるほど!と頷ける
ことが多いものだが、ここでは高橋竹山師の語録を紹介したいと思います。

“おらの三味線 食うための三味線だ!”

三味線で苦労するのは音色だ。音色にもいいわるいがある。どうすればいい音がでるかということは
やはり勉強だ。これだけは習ったってできるものでない。
手は習うことができてもいい音をだすのはその人の力と、考えと仕事で研究しなければならないことだ。

三味線の音色は自分の気持ちと指でつくっていくものだ。気持ちと指と一致させるのがたいへんだ。
音はおなじ師匠からならっておなじ手でも人によってちがう。そこが面白いところだ。
師匠から習ったことばかりで、いいというものではない。師匠のいい音色を頭にいれるということは、これは
音だから眼でみてわかるものでない。

おらの師匠は三味線は下手だったが、曲の筋道ははっきりしていた。師匠はいくら上手でも筋道しか教え
られないし、また、上手は習われるものでない。それは自分でやることだ。
師匠というものはまちがいのない基本を正しく教えれば、いい師匠だ。

学校の先生も同じだと思う。先生のように生徒にやれ!といってもできるものでない。基本をしっかり覚え
れば、あとはその生徒に頭があれば、先生以上にやりたければやればいい。その筋を忘れないで勉強させ
れば教わったものは生きた力を出していく。

芸もその通り、師匠の教えた筋、規則を守らないで、早くうまくなろうと思って基本からはずれたり、自分の
やりやすいものをやるのではろくなものにならない。そういうのはいつまでたっても同じで、なるほどという
ところがなにもなくて終わってしまう。

才能のある人は、同じに習ってもたいへんうまく師匠から習った型を生かしてやる。
才能のない人は師匠から型を習っても、型を忘れてしまって手前勝手にやる。
こうした人はうんと努力しているのに何年やっても上達しない。どうでも努力すればいいというものではない。


            ~(「自伝 高橋竹山 津軽三味線ひとり旅」より)~

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