じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

浜千鳥の哀しみ

2005-03-27 | 歴史(history)
 鹿島鳴秋のことです。彼は小学卒後に商家に奉公に出、いくつかの職業を経ながらも童話を書いていました。そして大正五年に小学新報社という雑誌社の創設に参画し、編集の中心となって「少女号」「少年号」を発刊します。ちょうどその時期に清水かつらも新報社の本体であった文具商の中西屋から移ってきたのでした。鳴秋は26歳、かつらは19歳のときでした。同じ職場には後年の作家・山手樹一郎(テレビ映画化された「桃太郎侍」など)もいました。鹿島鳴秋が戦後の昭和29年6月に亡くなったのは白子村の清水かつらの家でしたから、いわば二人は終生の友だったのです。
 鳴秋によって「浜千鳥」の詩がつくられたのは大正8年、新潟の柏崎海岸でのことでした。幼くして病没した娘を偲んで、友人と散歩しているときに、鳴秋の哀しみが月夜の国に消えてゆこうとする「銀のつばさ」の浜千鳥に託されたのでしょうか。
 同じ年に清水かつらも「靴が鳴る」(弘田龍太郎・作)を書きます。弘田が「浜千鳥」に曲をつけたのは翌年の1月のことでした。この時期は児童文学・芸術運動が隆盛期を迎えていました。鈴木三重吉の「赤い鳥」創刊は大正7年です。清水・弘田のコンビで「靴が鳴る」が出たのは9年。そして翌10年に同じ二人でつくられたのが「雀の学校」だったのです。
 この時代は「大正自由教育」期と称されます。