昨日(3月13日)、知人の葬儀で練馬区大泉学園町まででかけました。二十年以上前にはある事情でしばしば訪れたところです。日曜日、しかも晴天。久しぶりに佐倉から東関東自動車道、京葉道路経由で首都高速の池袋線を高島平まで行き、そこから笹目通りを谷原にでました。埼玉県の和光市をとおりながら、静かに懐かしさがあふれてきました。今は光が丘という地名になっていますが、そこには戦時中の昭和18年まで一風変わった私立花岡学院がありました。その学園は戦時下に壊されて飛行場になったのです。ここに飛行場をつくる、だから立ち退け、というえらそうで理不尽などこかの国の態度は変わらないね。(写真は「奉安殿」)
がらにも似ずに、時には童謡を口ずさんではげしく動揺したりすることがあります。本日はスズメの学校の先生(創立者)の話をしようとしているのですが、なぜだか背後から「叱られて」という唄がかすかに聞こえてくるのです。
叱られて しかられて 叱られて しかられて
あの子は町まで 口には出さねど
お使ひに 眼になみだ
この子は 坊やを 二人の お里は
ねんねしな あの山を
夕べ さみしい 越えて あなたの
村はずれ 花の村
コンときつねが ほんに花見は
なきやせぬか いつのこと
作曲は弘田龍太郎さんで作詞は清水かつら(桂)さん。その清水さんが長く住んでいたのが成増(板橋区になります)と境を接している白子町(和光市)だったのです。その近くにあった花岡学院には音楽や文学の教師役みたいにして清水さんは出かけていたことがあったんですね。
それはともかく、この「叱られて」(大正9年)の詞をじっくりと読んでみてください。大正9年という時代はどんな世の中だったか。今から85年前の「あの子」と「この子」。時は移り、今にもサクラが咲きだしそうな春。「あの子」と「この子」はどこでなにをしているのでしょうか。「叱られて」いないかな。あるいは偽札をつくったり、つかったりしていないかな。
がらにも似ずに、時には童謡を口ずさんではげしく動揺したりすることがあります。本日はスズメの学校の先生(創立者)の話をしようとしているのですが、なぜだか背後から「叱られて」という唄がかすかに聞こえてくるのです。
叱られて しかられて 叱られて しかられて
あの子は町まで 口には出さねど
お使ひに 眼になみだ
この子は 坊やを 二人の お里は
ねんねしな あの山を
夕べ さみしい 越えて あなたの
村はずれ 花の村
コンときつねが ほんに花見は
なきやせぬか いつのこと
作曲は弘田龍太郎さんで作詞は清水かつら(桂)さん。その清水さんが長く住んでいたのが成増(板橋区になります)と境を接している白子町(和光市)だったのです。その近くにあった花岡学院には音楽や文学の教師役みたいにして清水さんは出かけていたことがあったんですね。
それはともかく、この「叱られて」(大正9年)の詞をじっくりと読んでみてください。大正9年という時代はどんな世の中だったか。今から85年前の「あの子」と「この子」。時は移り、今にもサクラが咲きだしそうな春。「あの子」と「この子」はどこでなにをしているのでしょうか。「叱られて」いないかな。あるいは偽札をつくったり、つかったりしていないかな。
他の日のブログをじっくり読めておりませんが、上記の驚きと嬉しさによって、コメントを投稿します。
花岡学園についてコンパクトにまとめておりますので、URLから
「花岡学院と花岡和雄・忠男父子」育療、25号、p56-59、日本育療学会 2002年6月
をご覧になっていただければ幸いです。