何をしなくても、時間は過ぎる。永遠というが、それはまるで時の鏡のようで、いつどこで覗いても、「時」は同じ表情をしているのだ。十年前には今日を想像できなかったように、十年後もやはり想像に余るだろう。
その時、ぼくはきっと姿かたちを消しているに違いない。いまだって、時の陰に寄り添う亡霊のごとくで、まるでつかみどころのない生活に深沈しているというほかない。誰の目にもとまらぬように、そっと密かに独り言を . . . 本文を読む
いつものようにラジオ深夜便を聞き流していたら、元宝塚のトップだった瀬戸内美八(ミヤ)(徳島県在住)さんのインタビューが聞こえてきた。その生き方たるや、すごいというか、肩肘はらないというか。中学校くらいまではタカラヅカに興味をもっていた前科のせいで、彼女の名前は知っていました。退団後のアメリカ留学やその後の生活を明るく語っておられたが、その内容は中途半端じゃないものでしたぜ。一攫千金を夢見たか、讃 . . . 本文を読む
来年の五月から裁判員制度が始まるらしい。法律制定から五年が経過し、いよいよ本番だというのである。しかし課題は山積している。制度の根本のところに大きな欠陥があるのは否定できない。二十歳以上の選挙権を有する者(日本国籍をもつ)を裁判員候補の有資格者としているが、それがどうして七十歳までなのか、腑に落ちない。
七十ともなれば、どんな人間も判断力も体力も著しく落ちるのだから、そんな存在に裁判員になって . . . 本文を読む
虹の足
吉野 弘
雨があがって
雲間から
乾麺みたいに真直な
陽射しがたくさん地上に刺さり
行く手に榛名山が見えたころ
山路を上るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
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四季の移ろいなどというのは、はるかな昔の風情でした。今では自然界も人心も変調の極北に向かっているようなもので、わが身一つのしまつにさえ手を焼いているのです。
政治の世界も無責任の一列縦隊です。職を賭して入院されたのが総理大臣なら、職を賭けて不正を働くのが企業人であり、役人でした。不正なら、だれにも負けないぞとばかり、いやにまめまめしく、悪事を働こうというのだから、性質が悪すぎますな。老いも若き . . . 本文を読む
行乞は雲のゆく如く、流れるやうでなければならない、ちょっとでも滞ったら、すぐ乱れてしまふ、与へられるまゝで生きる、木の葉の散るやうに、風の吹くやうに、縁があればとゞまり縁がなければ去る、そこまで到達しなければ何の行乞ぞやである、やっぱり歩々到着だ。・・・
夜は禄平居で句会。(写真は緑平さん)
乞ふことをやめて山を見る
いつまでいきる蜻蛉かよ
もう一度よびとめる落葉
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山頭火は大学ノートの裏表にめいっぱい書き、それが一冊になると緑平さんに送りつけて保管を頼んでいた。こうして彼の句や随筆をわたしたちが読めるのもそのおかげだ。
「緑平さんの深切に甘えて滞在することにする。緑平さんは心友だ。私を心から愛し てくれる人だ。腹の中を口にすることは下手だが、手に現して下さる。そこらを歩いて 見たり、旅のたよりを書いたりする、奥さんが蓄音機をかけて旅情を慰めて管さあ留 . . . 本文を読む
『当然』に生きるのが本当の生活だらうけれど、私はたゞ 『必然』に生きてゐる。少なくとも此の二筋の『句』に於ては『酒』に於ては―
燃えてしまったそのまゝの灰となってゐる
風の夜の戸をたゝく音がある
しんみりぬれて人も馬も
昭和五年も暮れかけている。明くる六年は大変な年となりますが、山頭火先生には浮き世の風は吹き寄せてはこないような雰囲気です。しかしいつででも、あちこちの友人知人から . . . 本文を読む
(都城にて)九時の汽車にのる、途中下車して岩川で二時間、末吉で一時間行乞、今日はまた食ひ込みである。
年とれば故郷こひしいつくつくぼうし
海は果てなく島が一つ
一きれの雲もない空のさびしさまさる
こころしづかに山のおきふし
(著作集Ⅰ「あの山越えて」) . . . 本文を読む
大堂津で藷焼酎の生一本をひっかけて、ほろほろ気嫌でやってくると、妙な中年男がいやに丁寧にお辞儀した。そして私が僧侶(?!)であることをたしかめてから、問うて曰く『道とは何でせうか』また曰く『心は何処にありますか』道は遠きにあらず近きにあり、趙州曰く、平常心是道、常済大師曰く、逢茶喫茶、逢飯食飯、親に孝行なさい、子を可愛がりなさいー心は内にあらず外にあらず、さて、どこにあるか、昔達磨大師は慧可大師 . . . 本文を読む