じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

一人の巨人がいた

2007-01-06 | 歴史(history)
 ここに一人の巨人を立たせます。小砂丘忠義(ささおか・ただよし)。
 この人もまた、いまでは「忘れられた日本人」です。高知県の出身。生年は一八九七(明治三〇)年。後年、「生活綴方の父」と謳われた人物です。大正二年、高知師範学校に入学。この当時、宮本常一さんは六歳でした。
 「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気分のぬけきらぬ、そして、自然主義前派の馬鹿偶像礼拝の気の濃い時だったので、今考えて、まだまだ修業の足りない教師のいたことは事実である」(『私の綴方生活』)
 大正六年四月にみずからの出身校であった杉尋常高等小学校に赴任します。たった一学期間いただけで、短期現役制度により現役入隊(六週間)することになりました。
 「イヤナ軍隊。殺風景ナ軍隊。軍隊ハ非常ニ殺風景ナリ。今夕フットカウ感ジタ。上官ハ大声ニカミツク様ニ叱リツケツツ呼バハリタリ。喧タリ。戦友何レモ無造作ニ大声ヲタテツツアリ。価値ナキモ馬鹿言ヲ繰リ返セルナリ。ソレデ平気ナリ。聞キ居ル人モ平気ナリ」(「軍隊日誌」)
 かならず上官が検閲することになっていた「日誌」にこのように書くのです。六ヶ月のあいだそれは一貫していました。中尉からは「日誌ハ最劣等タルヲ免レズ」と酷評されたのですが、時代がよかったのかいっさいのお咎めはなかった。「作字文章共ニ不可 然レドモ永久重宝トナスベシ」と書いたのは連隊長だった。これはどういうことだったのか。 かれはいさんで学校にもどります。
   不寝番 立ちてたまたま持つチョーク
           思い出さるる教え子どもら