じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

出る杭は打たれる

2007-01-27 | 歴史(history)
「小砂丘などのいうことは他人の悪口ばかしで三文の値打もないと附属の一先生がいっている。しかしそれが何だろう。値打があるかないか、それはその先生などの頭で考へられる性質のものではなく、もっと高いものである。私は云うべきことをいい、聞くべきことをきいてゆく。世間がどう云ったってよいことだ」
 「私を教育界の危険人物、不良児だとして罵る者も沢山ある。それが何です。つまり私がいることも一つの事実だし、その人々の云うこともすでに一分一秒過去になりつつある出来事です」(「雪隠哲学」)
 出る杭は打たれる。小砂丘さんは師範時代から打たれつづけていたといっていい。「しかしそれが何だろう」という姿勢は生涯にわたって失わなかった。なぜか。いわずと知れていることです。腐りきった教育界を根底から崩そうとしたからです。
 かれは足かけ九年の教師生活中に学校を七回も変わりました。変えられたというのが本当でしょう。あまりにも器量が大きかったからで、その器量を嫌うばかりで、使いこなす校長や視学がいなかった。
 大正十二年三月、今回はみずからの意向で転任します。妻の父親が病気になったので、その看病の都合をかんがえてのことでした。その際、視学との間で「契約」を交わします。
 1、雑誌「極北」をやめること(教育界のゴミ掃除のための雑誌でした)
 2、吉良、中島(友人)とは絶交すること
 3、頭髪をのばさないこと
 4、中折帽をかぶること
 このような「契約」をどうみればいいのか。同時期に師範学校に在学していた妻の妹に対して学校当局は「小砂丘たちとはつきあうな」と注意したそうです。
 さて、小砂丘と義理の妹は、それぞれの「契約」「注意」に対してどう出たでしょうか。(写真・前列左が上田庄三郎、右は小砂丘。昭和十一年十月)