じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

忘れられた日本人(承前)

2006-12-30 | 歴史(history)
 『忘れられた日本人』が公刊されたのは1971(昭和46)年4月。それから十年後の81年1月30日に、宮本さんは亡くなられました。74歳でした。その宮本さんもまたいつしか「忘れられた日本人」となる。人間が歴史をつくるのではなく、悠久の時間が紡ぎだすものだからです。  どのようなねらいをもって『忘れられた日本人』は書きとめられたのでしょうか。「これらの文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いてみた . . . 本文を読む

隣の家に倉がたつと腹がたつ(承前)

2006-12-23 | 歴史(history)
 生産単位としての家をつぐことは、共同体としての村の一員になることでもあった。小さな個々の生産体が集合して村落共同体は成立したのである。  村の中の耕地面積は一定している。それをある一人が買い集めたとすれば、その周囲には貧しいものが出て来るのが当然の姿であった。一人が富むことによって周囲もうるおうというようなことのないのが日本の村の姿であった。「隣の家に倉がたつと腹がたつ」とか「隣の家の没落は鴨の . . . 本文を読む

寄合(承前)

2006-12-16 | 歴史(history)
 私は、かつて村々をさかんにあるきまわっていたころ、村の集会によく出会ったことがある。戦前の集会には意見の対立による論争はほとんどなかった。集会の話しあいそのものが一つの物語であった。多くの古風をのこす対馬西岸のある村で、昭和二五年に見た村寄合は朝早くからはじまって夕方までつづいていた。…話と話が縄をなうようにないまぜられていって方向を見出すのである。…  それが戦後になると、ずっと変わって来た。 . . . 本文を読む

信仰の起源?

2006-12-09 | 歴史(history)
 宮本常一の故郷でのことです。  村にひとりの大工がいた。旅暮らしをしている間にひとりの女ができた。大工は女を置いたまま村に帰った。そこには女房がいたからである。女は大工を恨み狐を仕掛けたというのです。まもなく男は足を病んでしまった。大工はじぶんにとりついた狐を丘の畑の松の下にまつったが、ついに足が腐って死んでしまった。  その後、このほこらにはときどきお参りする人もあったが、だんだんと忘れられて . . . 本文を読む

歩く、それが考えるだ

2006-12-02 | 随想(essay)
 …私の仕事は民俗の研究ということになっているが、私自身の仕事はむしろ、私の周囲で働きつづけている人たちの生活が少しでも充実し向上し安定することのための協力につとめて来た。  …何よりも大切なことは人間一人一人がもっとかしこくなることであり、お互いがただ自己の権利を主張するだけでなく、共通の分母を見出してゆくことだと思う。(『日本を思う』「あとがき」)  宮本さんは通算で十二年余の教師生活をされて . . . 本文を読む