じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

春のうらーらーの 隅田川

2005-03-17 | 歴史(history)
 昨日は上野にでかけました。不忍池側から公園を横切り、ゆっくりと科学博物館となりの寛永寺輪王殿まで歩きました。ホントに久しぶりのこと。親戚のお通夜があったからですが、彰義隊のことや帝室・帝国などという歴史の形見のような言葉とともに、東京音楽学校などという和魂洋才にまみれた古くさい明治の幻影が頭をよぎりました。明治12年に文部省に音楽取調係がおかれ、御用掛に伊澤修二がつきます。(伊澤については後述)学校教育に音楽が導入される端緒が開かれたのです。それ以後ずっと、音楽が一つの旗になりました。
 「叱られて」を作曲した弘田龍太郎は高知県の出身で、明治38年に東京音楽学校に入学。清水かつらとのコンビで「靴が鳴る」(大正8年)、「叱られて」(大正9年)などを作曲しています。
 弘田は鈴木三重吉が創刊した「赤い鳥」(大正7年)にも参加していましたから、児童詩や童謡には強い関心をもっていたことが理解されます。ほぼ同じ時期に、鹿島鳴秋の詞にも曲をつけ優れた童謡を残しました。「金魚の昼寝」(大正8年)、「浜千鳥」「桐の雨」(大正9年)、「お家忘れて」(大正11年)などなど。