最近、なぜ、長く聞ける音楽に出会わなくなったか、考えてみて、ふと思った。
3秒で「あっ、あいつだ。」「あのバンドだ」と思うようなシグネチャーサウンドが、無いのだ。
70年代までは、バンドごとにグルーブ、楽器の音色、作曲センス、歌う歌詞の方向が、明確に聞きとれ、
全く違ったバンドだとすぐ分かった。
今,FMから流れてくるサウンドは、非常にトレーニングされた体操の規定演技を見ているようだ。
スタジオミュージシャンが、シーンをひっぱっているようでは、ダメだ。
音楽の匿名性が高くなるだけだ、と感じているのです。
リズム感は、コンピューターと共演することで、非常にソリッドになった。30年前に比べて、もの凄いタイトだ。しかし、踊る肌触りが、一緒だ。ギターの音色一つとっても、Jポップのギターの音は、これです。ソロの音は、これです。と、プリセットしたような音に感じる。
もし、アートとして、抜き出るものを考えるならば、人と違ったことをするべきでは、と思っています。
で、僕が、提案したいのは、
で、明らかに自分しか出ないサウンドで、バンドの各楽器が鳴っていること。
シンプルなアンサンブルに生まれる味わいを大事にすること。
憧れとともに、自分の生活感を大事にすること。
そして、バンドのサウンド自体に、一つのカラーが生まれていること。
オリジナルな空気感を生み出していること。
を大事に出来ないだろうか?
それを考えている。シカゴのサウンドや、デトロイトのサウンド、LAのサウンド、
ロンドンのサウンドがあるように。京都のサウンドを眺めて見ている。
「俺たちの音を聞きたいならば、京都に来い」で良いのではないか?
意外にこれから音楽シーンを切り開いて行くのは、
そう言った音楽の「地産地消」ではないかと、考えているのです。
3秒で「あっ、あいつだ。」「あのバンドだ」と思うようなシグネチャーサウンドが、無いのだ。
70年代までは、バンドごとにグルーブ、楽器の音色、作曲センス、歌う歌詞の方向が、明確に聞きとれ、
全く違ったバンドだとすぐ分かった。
今,FMから流れてくるサウンドは、非常にトレーニングされた体操の規定演技を見ているようだ。
スタジオミュージシャンが、シーンをひっぱっているようでは、ダメだ。
音楽の匿名性が高くなるだけだ、と感じているのです。
リズム感は、コンピューターと共演することで、非常にソリッドになった。30年前に比べて、もの凄いタイトだ。しかし、踊る肌触りが、一緒だ。ギターの音色一つとっても、Jポップのギターの音は、これです。ソロの音は、これです。と、プリセットしたような音に感じる。
もし、アートとして、抜き出るものを考えるならば、人と違ったことをするべきでは、と思っています。
で、僕が、提案したいのは、
で、明らかに自分しか出ないサウンドで、バンドの各楽器が鳴っていること。
シンプルなアンサンブルに生まれる味わいを大事にすること。
憧れとともに、自分の生活感を大事にすること。
そして、バンドのサウンド自体に、一つのカラーが生まれていること。
オリジナルな空気感を生み出していること。
を大事に出来ないだろうか?
それを考えている。シカゴのサウンドや、デトロイトのサウンド、LAのサウンド、
ロンドンのサウンドがあるように。京都のサウンドを眺めて見ている。
「俺たちの音を聞きたいならば、京都に来い」で良いのではないか?
意外にこれから音楽シーンを切り開いて行くのは、
そう言った音楽の「地産地消」ではないかと、考えているのです。