グラの気ままに徒然日記

日々の菜園アクティビティ、旅先での思い出コレクッションetc.

津市・河内渓谷~限界集落(十箇村)五ケ寺一社

2019年03月17日 22時48分27秒 | 旅行
津市芸濃町雲林院より安濃川源流部に分け入る先は河内渓谷と呼ばれているが、昭和初期には10集落、千数百人の住民が暮らしていたという。それが現在では私の素人調査によると、5集落はほぼ消滅し、残る5集落での住民数も40人前後と思われる。文字通り限界・消滅集落である。そんな集落へ、私の前職場の同僚を案内することとなった。その同僚は住職ということもあり極めて感慨深げであった。

最初に立ち寄った字・雲林院の長徳寺では、住職さんから、境内の‟龍王桜”にまつわる伝説についてのお話を伺った。
厳密にいえば、この寺は河内渓谷入口にあたるが、十箇村には含まれていない。



1.梅ケ畑(うめがはた)集落 安濃ダムの真下に位置していて、5~6世帯が生活している。
浄得寺境内の‟五色椿”は ちょうど今が見頃だ。




車で枝谷を上流へ2~3分で次の集落だ。

2.宝並(ほうなみ)集落 民家は10軒ほどだが住まわれているのは2世帯だと思う。入口に栗の木があって、毎年ひらいに行っていたら側溝にマムシがいて驚いたことがある。もっとも蝮の方が仰天の体で落ち葉の間をスルスルと逃げて行ったが。右手の一段高いところにある願了寺



2つ目の橋の先は林道で行き止まりだ。
引き返してトンネルを出たところで右折して安濃ダム展望所に案内した。正面の山が錫杖ケ岳だ。



3.杖立(つえたて)集落 残念だが案内できなかった。何故ならば、目の前の湖の底に沈んでしまったから。
しかし私はこのダムの建設中に津市に引っ越したので、湖底に沈む前の集落の姿が今も脳裏にしまわれている。
ただしこの錫杖湖上部の集落には河内小学校が現在も車道沿いに湖水荘となって残されている。勿論外形から当時をしのぶことは無理だが、すぐ隣に二宮金次郎像が残されている。

4.下之垣内(しものかいと)集落 もう私は五百回以上このお寺の横を通らせていただいている。
本法寺は錫杖ケ岳の登山口にあたる。



5.落合(おちあい)集落 この集落は壇ノ浦で敗れた平家の一族が隠れ住んだ里だ。
その中心が成覚寺だ。小松三位中将平維盛の墓が寺の裏にある。
この寺の住職の名もも小松さんと言う。長徳寺の住職は直系かどうかは定かではないと仰せられていたが。また、この河内集落の入り口付近には、源氏側の見張り役人もいたらしいが、当時はお互い認知し合っていたらしい。大らかでよかったなあと思った。





6.北畑(きたはた)集落 落合と北畑はほぼ隣り合わせているが、間に小さな御墓がある。以前通りがかりに、墓石を順番にきれいに拭いている老婆に遭遇した。前から疑問に思っていたことを伺ってみた。墓石はすべて落合家なのに一軒だけ違った名前が刻まれていたことに気付いていたからだ。老婆は躊躇せずに、「ここに住む者は皆、流れ着いてきた者たちだから、いまでもいるわさ。」
河内渓谷に住む人はほとんどが落合さんだ。落ち合うか、成程ね。このエピソードを彼に話すと、それに似た話は昔からよくあるよと言うことだった。4~5世帯。

7.南之垣内(みなみのかいと)集落
民家は4~5軒残存してるが現在住人はゼロ。消滅集落となってしまった。
しかし、数年前5箇寺目の澄源寺は耐震設備が施された。
この寺は高田派だから、津市の本山の力か、檀家がしっかりしているからか? 寺の裏山には石段が何段も組まれている。往時には耕作地だったのだ。耳を澄ますと河原から野山から大勢の子供たちの嬌声が聞こえてきそうだった。



8.六呂屋(ろくろや)集落 完全消滅集落だ。以前(一昨年まで)番犬のように黒犬が繋がれていて、下之垣内から一人住まいの男性が、毎日自転車に乗って、食べ物と牛乳を届けていたのだがこの日には姿が見えなくなっていて、古い鎖が叢に放られていた。彼にそのことを話すと、森の中に石が立ち何か祀られている痕跡に向かって合掌した。私も倣った




9.覚ケ野(がくがの)集落 この集落には一人知人となった人がいる。
もう20年ばかり住み着いている方で、久しぶりに訪れたが不在だった。



10.峠集落 覚ケ野の先で通行止めとなっていて峠までは入れない。峠集落が伊勢の国と伊賀の国の境界となっている。


10集落に5つの寺と河内神社があるが、淨得寺の松井さん以外は無住となっている。






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