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全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神の発表「神を知ることこそ、神を畏れ、悪を避ける道」抜粋 6

2018-08-17 00:00:47 | 全能神の発表

 

 本物の被造物は創造主が誰か、人間はなぜ創造されたか、被造物としてどう責任を果たすか、万物の創造主をどう礼拝するかを知り、創造主の心、望み、要求を理解し、把握し、知り、大切に扱わなければならない。そして創造主の道、つまり神を畏れ、悪を避ける道に従って行わなければならない。

 神を畏れるとは、どのようなことか。またいかにして悪を避けるか。

 「神を畏れる」とは、得体の知れない恐れや恐怖でも、回避することでも距離をおくことでもなく、偶像化でも迷信でもない。「神を畏れる」とは、敬慕、尊敬、信頼、理解、思いやり、服従、奉献、愛情であり、無条件かつ不平を言わない礼拝、報い、帰服である。神に関する真の認識なくしては、人類に真の敬慕、真の信頼、真の理解、真の思いやりと服従は存在せず、単に不安や恐れ、疑い、誤解、回避、逃避があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類に真の奉献や報いはあり得ない。神に関する真の認識なくしては、人類に真の礼拝や帰服はあり得ず、盲目的な偶像化と迷信があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類は神の道に従って行動することも、神を畏れることも、悪を避けることもとうてい出来ない。反対に、人間のあらゆる活動や行為は神に対する不従順や反抗、中傷的なそしりや批判、そして真理や神の言葉の真の意味に反する悪行に満ちる。

 

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全能神の発表「神を知ることこそ、神を畏れ、悪を避ける道」抜粋 5

2018-08-14 21:22:54 | 全能神の発表

 

 ある者が長年にわたり神に従い続け、神の言葉による備えを長年享受してきた場合であって、この者による神の定義が、要するに偶像に服従してひれ伏す人々の定義と同じである場合、この者が神の言葉の実際を得ていないことが示されている。こうした状況の原因を調べると、この者は神の言葉の現実に入ったことが無く、そのために、神の言葉に含まれる実際、真理、神の心、そして人類に対する要求は、この者にとって全く無関係なものとなっていることが分かる。つまり、こうした者が神の言葉の表層について、いかに熱心に努力したとしても、全く無益である。なぜならば、この者が追求しているのは、単なる文字であり、したがってこの者が得るのも必然的に文字のみだからである。神の言葉は、外見上平易であるか難解であるかを問わず、人がいのちに入るには全て必要な真理であり、人間が霊と肉により生きることを可能にする命の泉である。神の言葉は、人間が生きてゆくために必要なことがら、日常生活を送るための教えと信条、救いを得るために進むべき道、目標、方向、神により造られた者としてもつべき真理の全て、そして神に服従し、神を礼拝する人間のあり方に関する真理の全てを与える。神の言葉は、人間が確実に生きることを保証するものであり、人間の日々のパンであり、人間が強くあり、立ち上がることを可能にする頑強な支えでもある。神の言葉には、人間が正常な人間性を生かし出すための真理、人間が堕落から解き放たれサタンの罠を避けるための真理、創造主が創造した人間に授けた、不断の教え、訓戒、励まし、慰めが豊富に含まれている。神の言葉は、肯定的な事柄のすべてを人間が理解するよう導き啓く指針となる光であり、正義のこと、善良で美しいことを生かし出し、獲得できるようになるとの保証であり、人、出来事、物事を評価する基準であり、また人間を救いと光の道へと導く道標である。人間は、神の言葉の実体験の中でのみ、真理といのちを与えられ、正常な人間性とは何か、有意義な生涯とは何か、本物の被造物の姿とは何か、神への真の服従とは何かを理解する。そうしてはじめて、人間がいかにして神を思うべきか、被造物の人間としての本分をいかにして成し遂げるか、真の人間らしさをいかにして身につけるかを理解するに至る。そうしてはじめて、真の信仰や真の礼拝とは何か、天と地と全てのものを支配する者は誰かを理解する。そして全ての創造主である者がいかにして万物を支配し、導き、備えを与えるかを理解する。人間は、神の言葉の実体験の中でのみ、全ての創造主がいかにして存在し、現れ、業を行うかを理解する…。神の言葉を実際に経験することなくして、人間には神の言葉と真理に関する真の認識と洞察が一切存在しない。そうした者は、まさしく生きる屍であり、抜け殻であり、また創造主に関する認識は、その者とは一切無関係である。神の目から見て、こうした者は神を信じたことも神に従ったことも一切無く、したがって神は、この者を信者とも従う者ともみなさず、本物の被造物とはみなさない。

 

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全能神の発表「神を知ることこそ、神を畏れ、悪を避ける道」抜粋 4

2018-08-11 00:04:41 | 全能神の発表

 

 神の言葉を日々読み、場合によっては代表的な言葉を、最も貴重な財産として注意深く覚えようとしたり、その上随所で神の言葉を説教して言葉という手段で他者に備えを与え、援助することさえする人々が大勢居る。この種の人々は、こうした行動が神や神の言葉に対して証しすることであり、神の道に従うものであると考えている。さらにこの種の人々は、こうした行動が神の言葉に従って生きることである、神の言葉を実生活に活かすことである、こうした行動により、神の称賛を得て、救われ、全き者とされると考えているのだ。しかるに、この種の人々は神の言葉を説教する一方で、実践では神の言葉に従うことも、あるいは神の言葉により示されているものに従うように努めることも、一切ない。この種の人々は、むしろ策略により他人からの敬愛と信頼を得て、自らの経営の中に入り、神の栄光をかすめ取るために神の言葉を用いている。この種の人々は、神の言葉を広めることにより得られる機会を利用して、神の働きと称賛を得ることを、むやみに願っている。この種の人々は神の言葉を説教する過程で神の称賛を得ることもできず、神の言葉を証しする過程で従うべき道を見いだすことも出来ず、神の言葉により他の人に霊的に与えたり助けたりする過程で自分たちに霊的に成長したり助けられたりすることもなく、これらの行動の過程で神を知ることもできず、真に神を畏れる心に目覚めることも無い。それだけでなく、それとは反対にこの種の人々の神に関する誤解が深くなる一方であり、神に対する不信感がつのるばかりであり、神に関する想像が膨らむばかりである。こうした状況のまま、何年の歳月が過ぎ去っていったことであろうか。この種の人々は、神の言葉に関する理論に裏付けられ、方向付けられて、水を得た魚のようであり、何の苦もなく問題を解決しているようだ。自分の人生の目的や使命を見出し、新しい命を得て救われ、神の言葉を歯切れ良く説明することで真理に辿り着き、神の心を理解し、神を知る方法を見出し、また神の言葉を説教する中で神と対面することがしばしばあるかのようである。さらに、この種の人々は、しばしば感極まって涙を流し、しばしば神の言葉にあるその「神」に導かれ、また神の心からのご配慮と優しいお心を常に理解していると同時に、人間に対する神の救いと経営を理解し、神の本質を知るにいたり、神の義なる性質を理解しているかのように見える。こうした事柄に基づき、この種の人々は、神の存在をより強く信じ、神の誉れについて熟知し、神の偉大さ、超越性をより深く理解しているように考えられる。この種の人々は、神の言葉に関する表面的理解に耽溺し、信仰が深まり、苦難に耐える不屈の精神が強まり、神に関する認識が深まっているかのように見えるかもしれない。この種の人々は、神の言葉を実際に体験するまでは、自分たちの神に関する認識や、神に関する考えは、すべて自分たち自身の願う想像と推測から生まれたものであることに、殆ど気付かない。この種の人々の信仰は、いかなる神の試練にも耐えず、この種の人々のいう霊性と背丈は、神の試練にも検分にも耐えることは無い。この種の人々の決意は、砂上の楼閣以外の何物でもなく、この種の人々の神に関する認識もまた、自分自身の空想による虚構にすぎない。事実、この種のいわば神の言葉に対して多くの努力をした人々は、真の信仰、真の服従、真の思いやり、あるいは真の神に対する認識とは何かを理解することが全くない。この種の人々は、理論、想像、知識、賜物、伝統、迷信、人類の道徳的価値観さえ採り上げ、それらを神への信仰や神を求めるための「投資資産」や「武器」に改変し、そしてついには神への信仰や神を求めるための基盤へと改変する。同時に、この種の人々はこうした資産と武器を取り上げ、神を知ること、また神による検分、試練、刑罰、裁きなどへの対策となる、魔法の護符へと作り替える。最終的に、この種の人々が蓄えたものは、信仰や忠義の迷信が深く染みわたり、空想的で怪奇で謎めいた事柄で満ちた、神に関する結論でしかなく、この種の人々が神に関して知り、神を定義する方法は、蒼天や、天の神のみを信じる人々と同じ型に嵌まったものである。一方で、神の実際、本質、性質、神であるすべてと神の持っているものすべてなど、真の神自身に関する事柄すべては、この種の人々の認識で把握出来ないことであり、全く無関係な、正反対の事柄となっている。こうして、この種の人々は、神の言葉による施しや育みにより生活しているにもかかわらず、神を畏れ、悪を避ける道を、本当にはたどることが出来ない。こうしたことは、この種の人々が神を全く知らず、また神と真に接する、あるいは交わったことがなく、したがってこの種の人々にとって、神との相互理解を達成することが不可能であるか、あるいは神を真に信仰し、神を求め、礼拝することを、自ら目覚めることができないことが、その真因である。彼らはこのように神の言葉を見なし、神をこのように見なす―そうした見方や態度により、この種の人々は努力の末に何も手に入れることが出来ず、また神を畏れ、悪を避ける道へと進むことが永遠に出来ずに絶望させられているのである。この種の人々が目指す目標と進んでいる方向性により、この種の人々は永遠に神の敵であること、永遠に救いを得られないことが示されている。


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全能神の発表「神を知ることこそ、神を畏れ、悪を避ける道」抜粋 3

2018-08-08 02:02:50 | 全能神の発表

 

 神の存在をどれほど確信していようと、その確信は神に関する認識や神に対する畏敬の念に代わるものとはなり得ない。どれほど多く神の祝福と恵みを享受してきたとしても、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。どれほど喜んで神のために全てを捧げて費やしていようと、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神の言葉に精通し、暗記していて反対から読み上げることさえ出来るかもしれないが、そうであったとしても、それが神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神に付き従う意向がいかに強かったとしても、神との真の交わりや神の言葉を真に経験することが無かったとしたら、神に関する認識は皆無であるか、終わりのない幻想に過ぎない。たとえどこかで神とすれ違ったとしても、神と直接対面したとしても、神に関する認識は皆無であり、神への畏敬は実質の無い標語や理想に過ぎない。 

  

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全能神の発表「神を知ることこそ、神を畏れ、悪を避ける道」抜粋 2

2018-08-05 00:34:33 | 全能神の発表

 

 神であるすべて、神が持っているすべて、神の本質、神の性質は、全て神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間が神の言葉を実行する過程において、神が述べている言葉の根底にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、意図されている効果を理解するようになる。こうした事柄は全て人類にとって、真理といのちを得て、神の心を認識し、性質が変えられ、神の支配と定めに従うようになるために、経験し、認識し、把握する必要があるものである。人間がこうしたことを経験し、認識し、把握すると、人間は同時に神を徐々に理解し、その時様々な程度で神に関する認識を獲得するようになる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた物事から生まれる。人間がこうした物事を自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた後、初めて人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識が初めて現実的なものとなり、本物となり、正確なものとなる。そして神の言葉を体得し、経験し、感じ、確かめることにより神に関する真の理解と認識を得る過程が、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の心を真に理解し、深く知り、神であるすべてと神の持っているものすべてを理解し、知り、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知り、あらゆる創造物に対する神の支配という事実に対する真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位に対する本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考え方が徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、すなわち神への疑念を勝手に膨らませたり、誤解したり、非難したりしなくなり、あるいは神を評価したり、疑ったりもしなくなる。結果として、人間の神との議論、神との抵触が減り、神に反抗することが減る。それとは逆に、人間が神を思い、神に従うことが大いに増え、神に対する畏敬は、より実際的で深遠なものとなる。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを得るだけでなく、同時に神に関する真の認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の性質が変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物の神を畏敬し礼拝する念が強くなる。こうした交わりの後、人間の神に対する信仰は、何も記されていない白紙の状態、あるいは甘い言葉だけの約束、盲目な追求や偶像化の形態では無くなる。またこうした交わりのみにより、人間のいのちが成熟に向かって日々成長し、人間の性質が次第に変えられ、神への信仰が段階的に漠然とした不確実なものから真に従い、神の心を思い、真に畏敬するものへと変化する。また人間は神を求める上で消極的立場から積極的立場へ、受け身の立場から能動的立場へと移行する。こうした交わりのみにより、人間は神に関して真の理解と把握、真の認識に達する。大部分の者が神と真に交わることが無いので、大部分の者にとって神に関する認識は理論的段階、文字の教理の段階に留まる。つまり、大部分の者は、神を信じてきた年月の長さを問わず、神を知ることに関する限り、初歩的段階から進歩せず、伝統的色合いと封建的迷信を伴う伝統的な形で敬意を表するに留まる。こうした者の神に関する認識が初歩段階に留まっているということは、神に関する認識が事実上不在であるということに等しい。人間による神の身分と地位の肯定とは別に、人間の神に対する信仰は未だに漠然とした不確実な状態にある。こうした状況において、人間は神に対する真の畏敬の念をどれほど持ち得ようか。


 

全能神の発表「神を知ることこそ、神を畏れ、悪を避ける道」抜粋 1

2018-08-02 05:15:46 | 全能神の発表

 誰もが神を信じて生きる自らの生活を顧み、神を求めるにあたり神を真に理解しているか、真に把握しているか、そして真に神を知るに至っているか、様々な種類の人間に対し神がどのような姿勢で臨むかを知っているか、また神は自分にどのような業を施しているか、神は自分の行為を、それぞれどのように定義しているかを理解しているか確認する必要がある。あなたの隣にあり、あなたを進むべき道へと導き、あなたの運命を定め、あなたに必要なものを授ける神。よく考察してみた結果として、その神について、あなたは本当のところ、どの程度理解し、どの程度知っているであろうか。神があなたに対して毎日どのような業を施しているかを、あなたは知っているか。神のあらゆる業の根底となる原則と目的を、あなたは知っているか。神があなたをどのようにして導いているかを、あなたは知っているか。神がどのようにしてあなたに授けるかを、あなたは知っているか。神があなたを導く方法を、あなたは知っているか。神があなたから得たいと思っていること、そして神があなたの中で達成したいと思っている事柄を、あなたは知っているか。あなたが取る様々な姿勢に対して、神がどのような態度で臨むかを、あなたは知っているか。あなたが神に愛される人間であるかどうかを、あなたは知っているか。神の喜び、怒り、悲しみ、楽しみの根源と、その背後にある思いや考え、そしてその本質を、あなたは知っているか。究極的に、あなたが信じる神とはどのような存在であるかを、あなたは知っているか。このような問題は、あなたが全く理解できたことがないもの、考えたことのないものではないだろうか。神を信じることを追求する上で、神の言葉を真に体得すること、経験することで、あなたの神に関する誤解がとけたことは、かつてあるだろうか。あなたは、神の懲らしめ、鍛錬を受けた後に、真に神に従い、神を思うようになったことが、かつてあるだろうか。あなたは、あなたが神の刑罰と裁きを受けている時に、人間の反抗、人間のサタンのような本性を知り、神の聖さの片鱗を理解するようになったことは、かつてあるだろうか。神の言葉による導きと啓きによって、あなたが新たな人生観を得始めただろうか。あなたは、神から授かった試練のなかで、人間にとっての神の不可侵さや、神があなたに要求していること、いかにして神があなたを救っているかを感じてきただろうか。神に対して誤解するというのはどういうことか、そしてその誤解をとく方法を知らないのであれば、今まであなたには神との真の交わりが一切無く、神を全く理解していないか、少なくともあなたが神を理解したいと望んだことは一切ない、と言える。神の懲らしめと鍛錬が何かを知らないのであれば、神に従うこと、神を思うこととはどのようなことかを知らないこと、あるいは少なくとも神に従うこと、神を思うことがかつて無かったことは確実である。かつて神の刑罰と裁きを受けたことが無いのであれば、神の聖さとは何かを知らないこと、またそれ以上に、人間の反抗とは何かをよく知らないことは確実である。未だに正しい人生観あるいは人生の目的を持っておらず、自分の人生の将来について迷い、優柔不断で、前に進むことを躊躇さえしているのであれば、あなたが神の導きと啓きを真に受けていないことは確実であり、また神の言葉により備えられた、あるいは再び満たされたことも無いと言える。今まで神からの試練を通ったことが無いのであれば、人間にとっての神の不可侵さが何なのか、神があなたに要求していることは、究極的には何かについて理解していないし、ましてや、人間を経営し救う神の業とは究極的には何かを知らないことは、言うまでもない。ある者が何年間にわたり神を信じているかに関わらず、その者が神の言葉を経験することも認識することもかつて無かった場合、その者が救いへの道を歩んでいないこと、その者の神に対する信仰は実の無いものであること、そしてその者の神に関する認識が皆無であることは確実であり、またその者は神を畏れることとは何かについて、全く見当もついていないことは言うまでもない。


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全能神の発表「真に従順な者は必ず神のものとされる」抜粋 6

2018-07-30 00:01:32 | 全能神の発表

 あなたが霊的に前進するに伴って、あなたは常に、新たなる入りと、各段階で深みを増す新しくそしてより高い洞察力を持たなければならない。これは、全ての人が入っていくべき道である。交わりを持ったり、メッセージを聞いたり、神の言葉を読んだり、物事に対処したりすることを通して、あなたは新たなる洞察力と導き、示しを獲得することができる。あなたは、古い規則と古い時代の中では生きていない。あなたはいつも新しい光の中で生き、神の言葉から離れない。正しい道をたどっているとみなされるのは、このようなことである。単に表面的なレベルで代価を払うことではない。神の言葉はより高くなり、また新しいものが日々現れる。毎日、霊的いのちが新たに成長することも必要である。神は自身が話した地点まで完成させる。もしあなたがついていけないのなら、あなたは霊的に落ちていく。あなたの祈りは深くならなければいけない。神の言葉をより多く食べて飲み、受け取る啓示の理解を深め、否定的なものを減らさなければいけない。あなたは、あなたが洞察力を得ることができ、霊の中にあることを理解することによって、外の世界の事柄への洞察力も獲得でき、さらに問題の中心部にあるものを理解することができるように、あなたの判断力を強めなければならない。もしあなたが、そのような能力をもたないなら、あなたは教会をどのようにして導くことができるだろうか。もしあなたが、現実性や実践の方法もなく文字や教義について語っているだけなら、あなたは、短期間、何とか生きていくことしかできない。これは、新しい信者には、ぎりぎり受け入れられるかも知れないが、時が経ち、新しい信者が実際の体験をすれば、あなたはもはや、彼らに与えることができないだろう。あなたは神の役に立つのだろうか。あなたは新しく啓かれることなしに働きを及ぼすことはできない。新しく啓かれることのない者は、経験することができず、そのような人は新しい認識あるいは経験を得ない。そして、彼らはいのちを与える機能をこなすことがけっしてできず、神の用途にも適さない。このような者は、無駄で役に立たない。事実、そのような者は働きにおいて自分の機能をこなすことが全くできず、全く何の役にも立たない。彼らは、自分の機能をこなせないだけでなく、彼らは教会に不要な負担をかける。わたしは、「古い人」であるあなたが急いで教会を去り、他のものがもうあなたに会う必要がなくなるように勧告する。そのような人は、新しい働きを全く理解しないで、古い観念だけで満たされている。そのような人は教会では何の機能も提供していない。むしろ、扇動的な行為をし、否定的なことを広めている。教会の中であらゆる種類の違法行為や騒動にさえ従事し、分別がつかない者を混乱させ、不協和音をもたらしている。このような生きた悪魔、悪魔の霊は、教会が、結果として荒廃しないように、できるだけ早く教会から出るべきである。あなたは今日の働きを恐れていないかもしれないが、明日の正義の処罰は恐れていないのだろうか。神の自然な働きを妨害することを求める数多くの狼に加えて、教会にはたくさんの居候がいる。これらの人たちは、悪魔によって送られた悪魔であり、悪巧みなどしない羊を貪り食うような凶暴な狼である。このような「人間」と呼ばれる者が排除されないのなら、彼らは教会の寄生虫そして、ささげものを食い荒らす蛾となるだろう。このような軽蔑に値する、無知で、忌まわしく、不快なウジ虫は、いつか近いうちに罰せられることとなろう。



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全能神の発表「真に従順な者は必ず神のものとされる」抜粋 5

2018-07-27 13:01:16 | 全能神の発表

 聖霊の働きを経験する全ての人がいのちを受け取ることができるわけではないし、この流れの中にある全ての人がいのちを受けることができるわけでもない。いのちは、全ての人によって共有される共有財産ではないし、性質の根本的変革は、全ての人によって容易に達成されるものではない。神の働きへの従順さは、触ることができ、実現できるものでなければいけない。表面的な従順さでは、神の承認は受けられない。また、あなたが自らの性質の根本的変革を求めることなしに神の言葉の表面だけに単に従うのでは、神の心は喜ばない。神への従属と神の働きへの従順さは、一つであり同じものだ。神にのみ従属し、神の働きに対してそうしないのなら、従順であるとはいえない、また、真に従順でなく、外見的にこびへつらうのももちろん同様である。神に真に従うものは、神の働きから何かを得ることができ、神の性質と働きの理解を達成することができる。そのような人だけが、真に神に従順である。そのような人は、新しい働きから新しい認識を獲得でき、その同じ新しい働きから新しい変化を経験できる。そのような人だけが、神の承認を得られる。このような人だけが、完全にされた人であり、彼の性質の根本的な変革を経験してきている。神に承認される者は、彼の言葉や働きだけでなく神に対しても喜んで従順である者である。そのような人こそ義の中にある。このような人こそ真に神を望み、求めている。そして、自らの神への信仰をただ話すだけで、実際には神を呪うものは、自らの本性を隠すものである。彼らは悪意に満ち、人間の中で最も不誠実な者どもである。このような悪党は、いつか、その汚い仮面を剥ぎ取られることになるだろう。それが今日、為されている働きではなかろうか。不道徳なものはいつまで経っても不道徳であり、罰が下る日を逃れられない。善良なものは、いつも善良であり、働きが終わった頃にどちらも明らかにされるだろう。不道徳な者は誰一人として、義であるとは思われず、義なる者は、一人として不道徳とは思われないだろう。わたしは誰かを間違って非難される立場に追いやろうとしただろうか。


全能神の発表「真に従順な者は必ず神のものとされる」抜粋 4

2018-07-24 01:08:21 | 全能神の発表

 あなたは神を信じているのだから、あなたは神の全ての言葉と働きに信仰を置かなければならない。すなわち、あなたは神を信じているのだから、神に従わなければならない。あなたがこれをすることができないのなら、あなたが神を信じているかどうかは重要ではない。あなたが長年に渡り神を信じていたとしても、神に決して従わず、神の言葉のすべてを受け入れず、代わりに、神に自分に従うように頼み、自分の観念に沿うようにさせるとしたら、あなたは数ある信者の中でもっとも反抗的であり、不信心者である。このようなものが、人の観念に準じない神の働きと言葉にどのようにして従うことができようか。最も従順でない者は、意図的に神に刃向かい、抵抗する者だ。彼は神の敵であり、反キリスト者だ。そのような者は常に神の新しい働きに敵意を保持して、従順になる意図は示さず、自ら喜んで従うことは決してなく、謙虚になることはなかった。彼は他の人の前で自画自賛し、決して他の人に従属しない者である。神の前で、彼は、自分自身が説教する能力が最も高く、他の人に働きを及ぼす技能が最も高いと思っている。彼は、彼がすでに所有する宝を決して破棄せず、それらを崇拝されるべき、他の人に説教すべき、そして彼を称賛するような愚か者へ講義するのに用いられるべき、家宝とみなしている。実際、教会にもそのような者がいる。彼らは「不屈の英雄」であり、何世代にも渡って神の家にとどまっていると言われている。彼らは、かの言葉(教義)を説教することが、彼らの最高の義務だと思っている。何年にも亘り、何代にも亘って、彼らは彼らの聖なる、神聖な義務を果たす。誰も敢えて彼らに触れようとせず、誰も敢えて公に彼らをとがめようとしない。彼らは、神の家で「王」となり、時代を経て独裁者のように振る舞った。これら悪魔たちは、手を取り、わたしの働きを壊そうとする。わたしの前でこのような生きた悪魔が存在することがどうして許せようか。気持ちの半分しか従順でない者でさえ、最後まで歩くことはできないのに、従順な気持ちが微塵もないこれら暴君などもってのほかだ。神の働きは、人によって容易に獲得できない。人が、能力の全てを使ったとしても、ほんの少ししか獲得できず、最後にやっと完成をみるということになるだろう。それでは、神の働きの破壊を求める大天使の子供達はどうだろうか。彼らは、神による獲得に対して希望を少しも持ってこなかったのか。わたしの征服する働きの目的は、征服のためだけでなく、義と不義が露呈するように征服をすること、人の罰の証拠を取ること、不道徳な者を糾弾することであり、そしてさらにわたしは従順なる気持ちを持つ者を完全にするために征服をする。最後に、全ては種類により分類される。そして完全にされた者は全て、従順さに満たされた思想を持つだろう。これが、為された働きの最後の結果となる。反抗心に満たされた者は罰せられ、火打ちの刑に処され、永遠に呪われるだろう。その時が来たら、これら元「偉大で不屈な英雄」は、もっとも底辺で、嫌われる「弱くて役に立たない臆病者」となるであろう。このことだけが、神の義の全てを説明し、神の性質は、その性質を犯し、神の怒りに触れることを許さないことを説明する。このことだけが、わたしの心の憎しみを鎮めることができる。これはとても理にかなっているとあなた方は同意しないだろうか。


全能神の発表「真に従順な者は必ず神のものとされる」抜粋 3

2018-07-21 10:35:14 | 全能神の発表

 聖霊は、実践的な経験を通してあなたを啓蒙し、信仰を通してあなたを完全にする。あなたは本当に、神によって完全にされたいと思っているのだろうか。もしそう思っているなら、あなたの肉を投げ捨てる勇気を持ち、神が述べる通りに行動でき、受け身にも弱くもならないだろう。あなたは神から来る全てのものに従うことができるだろう。そして、神の前で行う、行わないに関係なく、あなたの行動全ては、神に見せることができるものとなるだろう。正直であれ。そして、全てのことにおいて真理を実践せよ。そうすれば、あなたは完全にされるだろう。神の前ではあるやり方で行動し、神の見えないところでは別のやり方で行動するようなずる賢い人は、完全にするに忍びない。彼らは、完全に破滅と破壊の子である。彼らは神ではなくサタンに属する。彼らは、神に選ばれる種類の人間ではない。もしあなたの行動と振る舞いが、神の前で見せられるものではない、あるいは神の霊により見られるようなものでないなら、これはあなたにおけるある問題を露わにしている。あなたが神の裁きと刑罰を受け入れて、あなたの性質を根本的に変えることに重きをおく場合のみ、完全にされる道へあなたは置かれるであろう。あなたが本当に神により完全にされたいと思い、神の意志を実行したいと本当に思うのなら、神の仕事全てに従うべきで、文句を一言も言わず、神の働きを好き勝手に評価あるいは判断したりすべきでない。神によって完全にされるためのまさに基本的条件がある。神によって完全にされることを求める者に対する要求は以下である。すなわち、神への愛を基に全てのことをせよ。神への愛を基に行動することの意味とは何だろうか。これはあなたの全ての行動や振る舞いは、神の前に見せられるということを意味する。正しい意志を貫けば、あなたの行動が正しかろうと間違っていようと、神あるいは兄弟姉妹にあなたの行動が露わにされることをあなたは恐れない。あなたは、神に進んで誓いができる。あなたのあらゆる意図、思想、考えは、審査されるために神の前に見せることができる。もしあなたがこのように実践して、入っていくならば、あなたのいのちの成長は速くなるだろう。