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全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 5

2018-09-16 16:25:02 | 全能神の発表

 

 人間が真に経営の業の結晶となるのであれば、腐敗した人間の反抗を完全に駆逐する必要がある。それには、人間が様々な場合に適した実践を行い、それに対応する業を神が人間に対して行う必要がある。こうして初めて、最終的に、経営の業の結晶たる人々の集団を得ることが出来る。神の人間に対する業は、それだけでは、神自身の証しに立つことが出来ない。そうした証を実現するためには、生きていて、神の業に適した人間も必要である。神は、まずそうした人々に対して業を行い、そうした人々により、神の業が表現される。そのようにして、創造物に対して、そうした神の心の証しがなされる。そして、この点において、神は業の目的を達成されたことになる。神は独自に業を行ってサタンを倒すことが無い。なぜなら、神はあらゆる創造物に対して、直接的に自身の証しに立つことが出来ないからである。もし神がそうしたならば、人間を完全に確信させることは不可能であり、したがって神は、人間を征服するために、人間に対して業を行う必要があり、そうして初めて神は全ての創造物の証を得ることが出来るようになる。神が単独で業を行い、人間の協力が無いとすれば、あるいは人間が協力することを要求されていないとすれば、人間は決して神の性情を知ることができず、神の心に永遠に気付かないであろう。このような場合、それを神の経営の業とは呼べないであろう。もし人間だけが懸命に努力して求め、しかし人間が神の業を理解しなかったとしたら、人間は悪ふざけをしているようなものであろう。聖霊の業が無ければ、人間の業はサタンのものであり、人間は反抗的であり邪悪を行う者である。腐敗した人間が行う事全てにサタンが示され、神の味方となる事は一切無く、全てサタンの表れとなる。述べられた物事全てのうち、ビジョンと実践が含まれていない物事は一切無い。人間は、自らの観念を捨てて従来備えて居なかった物事を得ることが出来るように、ビジョンの基礎の上に実践を確立し、また服従の道を確立する。神は、人間が神に協力すること、人間が神の要求に完全に服従することを求め、人間は神自身が行う業を目の当たりにすること、神の全能の力を経験し、神の性情を知ることを求める。概括すると、これが神の経営である。神の人間との同盟が経営であり、最大の経営である。


全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 4

2018-09-13 10:19:18 | 全能神の発表

 経営の業は、人間が原因となって行う。つまり、それは人間の存在により生み出される。人間が登場する以前、あるいは天と地と万物が造られた時、経営は存在しなかった。神の業全てにおいて人間に有益な実践が無かったならば、すなわち神が腐敗した人間に適切な要求を行わなかったならば (神が行った業に人間の実践に適した道が無かったならば)、その業は神の経営とは呼べないであろう。神の業全体に含まれるのが、腐敗した人間に対して実践の取り組み方を伝えることだけで、神が自身の企てを行わず、神の全能性や知恵を少しも示されなかったとしたら、神の人間に対する要求がどれほど高度であったとしても、神が人間の中でどれほど長く生活したとしても、人間は神の性情について何も認識しないであろう。そうした場合、この種の業は尚更、神の経営と呼ぶ価値が無いであろう。簡単に言えば、神の経営の業は、神が行う業であり、神の導きの下で、神のものとされた者により行う、全ての業である。そうした業は、経営としてまとめることが可能であり、人間に対する神の業と、神に付き従う者全員による神への協力を指す。こうした物事の全てを、経営と総称できる。ここでは、神の業をビジョンと呼び、人間の協力を実践と呼んでいる。神の業が高度であればあるほど (つまりビジョンが高度であればあるほど)、神の性情が人間にとって一層明瞭となり、人間の観念と一層異なるものとなり、人間の実践と協力も一層高度になる。人間に対する要求が高度であればあるほど、神の業は人間の観念とは一層異なるものとなり、その結果、人間の試練と、人間が満たす必要のある基準もまた一層高度になる。この業の最後には、全てのビジョンが完遂されており、人間が実践することを要求されている物事は、完全を極めるであろう。この時は、各人が分類される時でもある。なぜなら、人間が知ることを要求されている物事は、この時既に人間に示されているであろうからである。したがって、ビジョンが絶頂に達する時、業もそれに従って終わりを迎え、人間の実践もまた絶頂を迎えるであろう。人間の実践は、神の業に基づき、神の経営は、人間の実践と協力のおかげがあって初めて、完全に表出される。人間は神の業の傑作であり、神による経営の業全ての目的であり、また神の経営全体の成果でもある。もし、神が単独で、人間の協力無く業を行うとすれば、神の業全体の結晶化として機能するものは不在であり、その意味で神の経営には少しも重要性が無いであろう。神の業以外にあり、その業を表現し、その全能性と知恵を証明することが出来る、適切な対象を選択することによってのみ、神の経営の目的を達成し、この業全てを用いてサタンを完全に打倒するという目的を達成することが可能となる。したがって、人間は神の経営の業において不可欠な部分であり、人間は神の経営を結実させ、その最終目的を達成することが出来る唯一の存在である。人間以外には、そうした役割を果たせる生物は無い。


全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 3

2018-09-10 00:05:30 | 全能神の発表

 ビジョンには、実践すべき道が多数ある。ビジョンには、人間に対する実践的な要求や、人間に知られるべき神の業も含まれて居る。従来は、各地で開催された特別な集会や大規模な集会において、実践の道の一側面しか語られなかった。そうした実践は、恵みの時代に実践すべきものであり、神に関する認識とは、ほぼ無関係であった。なぜなら、恵みの時代のビジョンは、単にイエスの磔刑のビジョンであり、それ以上のビジョンが無かったからである。人間が知るべき事は、イエスの磔刑による人間の贖いの業だけであったので、恵みの時代においては、人間が知るべきビジョンは、それ以外に無かった。このように、人間は神に関して乏しい認識しか無く、イエスの愛と慈しみに関する認識以外に、人間が実践すべき物事は、ごく少数の簡単な、ささやかな物事、今日とは全く異なる物事しか無かった。従前は、どのような集いであるかを問わず、人間は神の業の実践的認識について議論することが出来ず、いわんや人間が真摯に取り組む最適な実践の道はどれかを名言することは出来なかった。人間は、単に慎みや忍耐の基礎に関する簡単な内容を加えたのみであった。人間の実践の本質には全く変化が無かった。なぜなら、同じ時代において、神はそれよりも新しい業を何も行わず、神が人間に要求したのは、慎みと忍耐や、十字架を負うことのみだったからである。そうした実践以外には、イエスの磔刑以上のビジョンは無かった。従来は、その他のビジョンについて全く述べられなかった。なぜなら、神はそれほど多くの業を行っておらず、人間に対して限られた要求のみを行ったからである。このようにして、人間は、何をしたかを問わず、この人間が実践すべき単純で浅薄な物事だけの境界を越えることは出来なかった。現在、他のビジョンについて話している。なぜなら、現在は一層多くの業、律法の時代や恵みの時代の数倍の業が行われているからである。人間に対する要求もまた、従前の時代の数倍多い。人間がそうした業を完全に理解できなければ、その業には大きな重要性が無いであろう。人間は、自分の生涯にわたる努力をそうした業を知るために捧げなければ、それを完全に知るのは困難であろうと言える。征服の業において、実践の道について話すだけでは、人間の征服は不可能であろう。人間に対する要求を除いたビジョンの話だけでも、人間の征服は不可能だとみなされるであろう。実践の道以外に何も話をしなかったとしたら、人間のアキレス腱を突くことも、人間の観念を払拭することも、そして人間を完全に征服することも不可能であろう。ビジョンは人間の征服の主要手段であるが、ビジョン以外に道が無ければ、人間には進むべき道が無く、ましてや成長する手段など無いであろう。これが神の業の最初から最後までにおける原則である。ビジョンには、実践出来るものや、そうした実践からは除外されたビジョンもある。人間のいのちと性質の変化の度合いは、ビジョンの変化が伴う。人間が自らの努力のみに依存するのであれば、人間がそれほど大きな変化を実現することは出来ないだろう。ビジョンでは、神自身の業や神による経営について述べられている。実践とは、人間の実践の道、人間の在り方を指す。あらゆる神の経営において、ビジョンと実践の関係は、神と人間の関係である。ビジョンが除去された場合、実践に関する話無しでビジョンについて述べられた場合、あるいはビジョンのみが存在し、人間の実践が除去されている場合、そうした物事を神の経営と見なすことは出来ず、ましてや神の業が人間のためであるとは言えないであろう。このように、それは人間の本分が除去されたものとなるだけでなく、神の業の目的を否定するものともなるであろう。最初から最後まで、神の業を関与させることなく、単に人間が実践することのみ要求され、そのうえ人間が神の業を知ることを要求されていなかったとしたら、尚更に、そうした業を神の経営とは呼べないであろう。人間が神を知らず、神の心を知らず、曖昧で抽象的な方法により盲目に実践していたとしたら、人間が完全に資質を伴う創造物となることは決して無いであろう。ゆえに、この2つの事柄は、両者とも不可欠である。神の業のみが存在し、つまりビジョンのみが存在し、人間の協力や実践が存在しなかったならば、そうした物事を神の経営とは呼べないであろう。人間の実践と成長だけが存在しているならば、人間がどれほど成長したかを問わず、そうした状況もまた容認出来ないものである。人間の成長は、業とビジョンと共に、段階的に変化する必要があり、気分によって変えることはできない。人間の実践の原則は、自由で無制限なものではなく、一定の範囲内のものである。そうした原則は業のビジョンの段階と共に変化する。このように、神の経営は、結局、神の業と人間の実践ということになる。


全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 2

2018-09-07 00:05:20 | 全能神の発表

 従前の時代に比べて、神の国の時代における神の業は一層実践的であり、より人間の実体や人間の性質の変化を対象とし、神に付き従う者全員にとって、一層神自身の証しに立つことが可能なものである。つまり、神の国の時代において神は業を行って自身に関して従前よりも多くを示されており、それは人間が知るべきビジョンがそれ以前の時代よりも高度になっていることを意味する。神の人間に対する業は嘗て無い領域に入ったので、神の国の時代に人間が知っていたビジョンは、経営の業全体において最高に達している。神の業は嘗て無い領域に入っており、人間が知るべきビジョンは、あらゆるビジョンのなかで最高に達しており、その結果となる人間の実践もまた、従前の時代よりも高度である。なぜなら、人間の実践は、ビジョンと共に段階的に変化し、ビジョンの完遂は、人間に対する要求の完遂でもあるからである。神の経営が止まるとすぐに、人間の実践も止まり、神の業無しでは、人間は従前の教義を維持するほかなく、それ以外に方向性は無い。新たなビジョンが無ければ、人間には新たな実践が無く、完全なビジョンが無ければ、人間の完全な実践も無い。一層高度なビジョンが無ければ、人間の一層高度な実践も無い。人間の実践は、神の足取りと共に変化し、同様に人間の知識と経験もまた神の業と共に変化する。人間がどの程度有能であるかを問わず、人間は依然として神と不可分であり、神が一瞬だけ業を止めたとすると、人間は神の怒りのため即刻死ぬ。人間には何も誇るべき事が無い。なぜなら、現在において人間の知識がいかに高度であっても、人間の経験が如何に多かったとしても、人間は神の業と不可分だからであり、人間の実践と、人間が神への信仰において求めるべき物事は、そのビジョンと不可分だからである。神の業のあらゆる場合には、人間が知るべきビジョンがあり、そのビジョンの後に、神の人間に対する適切な要求がある。こうした基礎となるビジョンなくして、人間は明らかに実践不可能となり、確固として神に付き従うことは出来ないであろう。人間が神を知らない場合、あるいは神の心を理解しない場合、人間の行いは全て無駄となり、神により認められることが出来ない。人間の賜物が如何に豊富であったとしても、人間は神の業や導きと不可分である。人間の行為がいかに優れているか、多いかを問わず、それらの行為は依然として神の業に代わることが出来ない。ゆえに、いかなる場合も、人間の実践をビジョンと切り離すことは出来ない。新たなビジョンを受け容れない者には、新たな実践が無い。そうした者の実践は真理と全く無関係である。なぜなら、そうした者は教義と死んだ律法を遵守しているからである。そうした者には新たなビジョンが一切無く、その結果そうした者は新たな時代に何も実践しない。そうした者はビジョンを失っており、その過程で聖霊の業と真理も失っている。真理の無い者は偽りの子孫であり、サタンの化身である。どのような者であっても、神の業のビジョン無しで居られることは無く、聖霊の存在を奪われることはなく、つまりビジョンを失うと、人は即座にハデスへと落ちて闇の中で暮らす。ビジョンが欠如している者は、むやみに神に付き従う者であり、聖霊の業を欠いている者であり、陰府で暮らしている。そうした者は真理を求めず、神の名を看板のように掲げる。聖霊の業を知らず、受肉した神を知らず、神の経営における3段階の業を知らない者は、ビジョンを知らず、したがって真理が欠如している。そして、真理を備えて居ない者は、皆邪悪を行う者ではなかろうか。真理を実践することを望み、神に関する知識を求め、神と真に協力する者は、その者のためにビジョンが基礎として機能している者である。そうした者は神により認められる。なぜなら、そうした者は神と協力するからであり、これが人間が実践すべき協力である。


全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 1

2018-09-04 00:08:11 | 全能神の発表

 人間に対する神の業は、人間と不可分である。なぜなら、人間はこの業の対象であり、神の創造物のうち、神の証しに立つことが出来る唯一のものだからである。人間の生活とあらゆる活動は、神と不可分であり、神の手により支配されており、神から独立して存在出来る人間は一人も居ないとさえ言えるであろう。これは事実であるので、否定出来る者は居ない。神が行う全ての業は、人類の利益のためであり、サタンの謀に対するものである。人間が必要とする物事の全てが神から与えられ、神は人間のいのちの根源である。したがって、人間は神から離れられないことは明らかである。さらに、これまで神に人間から離れる意図があったことは無い。神が行う業は、全人類のためであり、神の考えは常に親切である。したがって、人間にとって、神の業と思想(すなわち神の心)は、両者とも人間が知るべき「ビジョン」である。こうしたビジョンは、神による経営(救い)でもあり、人間には実行不可能な業でもある。その一方で、神の業の中で神が人間に対して行う要求は、人間の「実践」と言われる。ビジョンは神自身の業であり、すなわち人間に対する神の心であり、神の業の目標であり、重要性でもある。また、ビジョンは経営の一環であるとも言える。なぜなら、この経営は神の業であり、人間を対象とするものであり、つまり神が人間に対して行う業だからである。この業は、人間が神を知った証拠であり、手段であり、また人間にとって最も重要なものである。人間が、神の業に関する認識ではなく、神への信仰の教義や取るに足らない詳細事項にのみ留意するならば、明らかに人間は神を知ることは無いであろうし、それ以上に神の心を追求しないであろう。神の業は、神に関する人間の認識に大いに役立ち、それはビジョンと呼ばれる。こうしたビジョンは神の業であり、心であり、神の業の目的と重要性でもある。これらの物事は全て人間に有益である。実践とは、人間が実行すべき物事、神に付き従う創造物が実行すべき物事を指す。それは人間の本分でもある。人間がすべき事は最初から人間が理解している事では無く、神が業の中で人間に対して行う要求である。これらの要求は、神が業を行うに従って、次第に深く、かつ高度になってゆく。たとえば、律法の時代には、人間は律法に従う必要があった。また恵みの時代には、人間は十字架を負う必要があった。神の国の時代は、それと異なる。つまり、人間に対する要求は、律法の時代や恵みの時代よりも高度である。ビジョンが高度化してゆくにつれ、人間に対する要求も次第に高く、明瞭で現実的になってゆく。同様に、ビジョンもまた次第に現実的になってゆく。こうした多数の現実的ビジョンは、人間の神への服従を促進するだけでなく、それ以上に神に関する人間の認識も促進する。


全能神の発表「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」抜粋 5

2018-09-01 01:51:47 | 全能神の発表

 これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

 

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全能神の発表「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」抜粋 4

2018-08-29 00:49:03 | 全能神の発表

 裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用いて彼らに真理を全て明らかにする。これが、神による裁きの働きだ。多くの者が、神の二度目の受肉について受け入れ難いものを感じる。なぜなら、神が受肉して裁きの働きを行うことは、人には信じ難いからだ。しかしわたしはあなたに告げなければならない。神の働きは往々にして人の予測をはるかに超えるもので、人の頭がそれを受け入れるのは難しいのだと。というのも、人は地上のウジ虫にすぎないが、神は宇宙を満たす至高の存在だ。人の頭は、ウジ虫しか生み出さない汚い水たまりに過ぎないが、神の考えに支配されたひとつひとつの働きは、神の知恵による結晶だ。人は、常に神に敵対することを望む。それなら結局誰が負けることになるかは自明だと、わたしは言おう。わたしは強く勧める、あなたがたがみな自分を金より重要だとみなさないようにと。もし他の人たちが神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたはできないのか。彼らに比べてあなたがどれほどの高みにいるというのか。もし他の人たちが真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたも同様にできないのか。神の働きの偉大な潮流を止めることはできない。神は、あなたの「功績」のために裁きの働きを繰り返すことはなく、あなたはそんな好機を逃したことを痛烈に後悔するだろう。もしあなたがわたしの言葉を信じないなら、天の偉大な白い玉座があなたの上に「裁きを下す」のを待つが良い!あなたは、全てのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したにも関わらず、イエスによる人類への贖罪はいまだに世界の果てまで広がっているという事実を知るべきだ。これは、神がはるか昔に実現した事実ではないのか。もしあなたがまだイエスによって天に引き上げられるのを待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]だとわたしは言おう。イエスは、あなたのように真理に忠実でなく、祝福だけを求める偽の信者を認めないだろう。それどころか、神は容赦なく、何万年も焼かれるために火の湖にあなたを投げ入れるだろう。


脚注:

a. 一片の枯れ木:中国の成語で、「望みのない事例」を意味する。



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全能神の発表「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」抜粋 3

2018-08-26 23:17:12 | 全能神の発表

 貴重な時間を使ってこんな忌まわしく嫌な話をするのは止めよう。それより、どのようなことが裁きを構成するかについて話そう。「裁き」という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。もしあなたがこうした真理を重視せず、避けたり、別の道を考え出そうと常に考えたりしているなら、あなたはひどい罪人だとわたしは言おう。もしあなたが神を信じていても、神の真理やその心を追求せず、あなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている者だとわたしは言おう。あなたは、偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者で、神は自分の目から逃れようとする反抗者を誰ひとり容赦しない。そうした人は、更に重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来たもので清められている者は、永遠に神の国に住むことになる。もちろん、これは将来のことだ。


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全能神の発表「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」抜粋 2

2018-08-23 00:56:05 | 全能神の発表

 以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。人の想像がどのようなものであろうとも、神の働きの本質は変わらない。人の想像は、人の思考による構築物にすぎず、人の脳に由来しており、人が見聞きしたものから組み立てられている。だから、いかに素晴らしくイメージが構想されていたとしても、それはやはり絵画にすぎず、神の働きの計画の代替物にはなり得ない。結局のところ、全ての人はサタンにより堕落しているのだから、どうして神の考えを推し量ることができようか。人は、神による裁きの働きを特に素晴らしいものと想像する。人は、神自身が裁きの働きをするのだから、とてつもない規模の、人間には理解出来ないようなものに違いないと考える。天に鳴り響き、地を揺らすはずだ、そうでなければ、神による裁きの働きにはなり得ない、そう考える。これは裁きの働きなのだから、神の働く様子は特に堂々と威厳のあるもので、裁かれている者は泣き叫び、ひざまずいて哀れみをもとめるに違いない、そう考える。そしてその光景は厳粛で熱気を帯びる…。誰もが神の裁きの働きは伝説的なものだと感じる、そのようなもののはずだと。しかし、神が人の間で裁きの働きを始めてから長い時間がたっても、あなたはまだ眠りを貪っていることを知っているか。あなたが神の裁きの働きが正式に始まったと思う時には、神が天と地を変える時が既に来ていることを、あなたは知っているか。その時、もしかしたらあなたは人生の意味をようやく理解したところかもしれないが、容赦ない神の懲罰の働きが、まだまどろんでいるあなたを地獄に送る。その時あなたは、神の裁きの働きが既に終わったことに突然気づくのだ。

 

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全能神の発表「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」抜粋 1

2018-08-20 00:00:10 | 全能神の発表

 終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。神はその国に入った者、すなわち神に最後まで忠実であった全ての者たちを神自身の時代に連れて来る。しかし、神自身の時代が来る前に、神がしたい働きとは、人の行為を観察したり、人の生活について尋ねたりすることではなく、人の神に対する背きを裁くことである。なぜなら、神は自分の玉座の前に来る者全てを清めるからである。今日まで神に付き従ってきた全ての者は、神の玉座の前に来た者であるから、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神によって清められる者である。すなわち、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神の裁きを受けることになる者である。


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