~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

天つ日を 灯す拠り代 嗣ぐ拠り代

2009年05月31日 | society

個人的な意見だが、歴史、伝統、権威を蔑ろにする、それが戦後世代の流行、「雰囲気」だったような気がする。

例えば、皇室を語れば「贅沢してる」とか、「開かれてない」とか、何ともこれまでの(みかど)の労苦など知らぬ存ぜぬの、まるで駄々を捏ねる反抗期の子供のような言葉を良い大人から聞くことがある。
まあ大体、そんな人間に天皇が「天皇」になるためには皇太子の御修道があり、また天皇になられてからも祭儀のための御修養を毎日欠かさずおやりになられている。

そんな厳しい修行を、あんたら毎日欠かさず出来るか?
寧ろ、毎日やっているのなら、そんな蔑ろな事は云えまい。

また天皇が何故「天皇」たるか、神武天皇を通しての話を語ると、知らなかったと眼を皿のように丸くして驚く。
何も知らないで、さも知ったような口を利く。だからつまり、蔑ろにする「雰囲気」なのだ(※1)(※2)。


まあさておき、最近気になったニュースが2つある。

真言宗と天台宗 1200年ぶり交流 天台座主、高野山を来月訪問

織田、6・1本能寺で必勝参拝/フィギュア


この2つの記事は日本の特殊性と歴史の連続性というのを垣間見るものである。
前者は、秘教的には、ここでもしかしたら修養の方法としての新たな指針が出来上がる可能性もあるし、また更なる精錬を期待しうるかもしれない。
顕教的には、世界の不良思想に対しての超然たる態度で以て臨む、そういった覚悟が出来つつあるといった感じにもうかがえる。
まあ何はともあれ、めでたき事だろうと思える。

後者に関しては、言わずもがな織田氏の系統である。しかも、血筋として信長由来が明らかなところに、人間ロマンを感じる(我々はどこから来たのか知っている。それは先祖から来ている)。
しかも、その子孫がかの本能寺で必勝祈願とは、全く以て感慨に至るばかりである。

そういえば、ある織田家家臣の末裔の方の話、その方が比叡山延暦寺に故あって訪れたときの事、そこで言うも言わさず、鳥獣の攻撃にさらされた事があるといったのを聞いた事がある。
時代は流れゆき、その容は変わろうとも、眷属たる鳥獣らは決してその警戒を忘れずといったところか。
各云う私も、刀を振っては、妙な落ち着きがある事に気がつく。
この心象面での現象は、遺伝、和魂、生まれ変わりなど、色々と妙な事を、つくづく思い浮かべる。

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※1:こういった話に興味が出始めた20代の半ば頃、私に対して「そんなの他国の王室もやってる。日本の皇室なんぞ大した事は無い」とのたもうた人が居た。
外国こそ「力」の皇室であるというのを分かっていない、無頼漢とはこういう人のことを言うのであろうと、今では思う。
※2:参照リンクを検索中にこのような記事に出会う。
私はこの手の話を面白がって話している人間が不快に思えてならなかったので、これまであまり言及はしてこなかった。
しかし、「国民の支持のために離婚のご決断を」とは、全く以て日本の皇室を理解していない。
寧ろ、この問題に関しては、神話の世界に立ち戻って考えるべきで、ただ只管、説得あるのみである。
また、「天津日嗣(あまつひつぎ)」の伝統の体現者である天皇のお住まいである皇室を、卑賤の自身と同じく論じようとするところは、全く以て不理解か、賊の感覚である事だという事を自省して頂きたいものである。
天皇を武装させ、卑賤のそれに落とそうとした者たち(天皇を選別しようとする人々)とはこのような事を云う人々である。


現代人の抱える難病

2009年05月22日 | society

朝の満員電車、気持ちは家、行く先は会社、そしてここ家?

写真「ボロ市」より

昔、NHKのドキュメンタリースペシャルに「アインシュタインロマン」というのがあった。
アインシュタインという歴史的人物をモチーフに、スタイリッシュに、面白おかしく、そして平易に相対性理論を紹介し、視聴者の科学的好奇心をくすぐる良作であった。
しかし今回、話をするのはその番組のレビューではない。
寧ろ、語りたいのはミヒャエル・エンデの指摘した「現代人の分裂症」についてである。

アルバート・アインシュタイン
 
ミヒャエル・エンデ

エンデのいう「分裂症」とは、アインシュタインの「平和」への態度であった。
掻い摘んで話せば、戦争や核兵器を嫌悪する「平和の使者アインシュタイン」と、同胞をこれ以上ナチスドイツに殺させないために「核兵器開発の連名者になったアインシュタイン」が同時に存在することである。

ちなみに、こう書いて、直ぐにこれが当然の事であると反応したのなら、それは既にエンデの云う「分裂症」にかかっていると云える。
今世代の我々の多くなら、アニメや漫画などの作品の中で「平和のためにやむなし」といった無頼漢が、大概、善とは云えない事を知っているはずである。
本当の正義の味方なら、そのときに「いや、誰一人として・・・!」と信念を持っていたはずである。

しかしながら、こういった態度というのは稀有になった。
他にもこういう事例がある。

「オフィスに椅子が無い」「早く歩かないと警報が鳴る」 恐怖のキヤノン工場 (「痛いニュース」より)

この記事は、『本当に「いす」がなかった,キヤノン電子のオフィス』を受けて、ネットユーザーの意見を読むことが出来る。
その中で痛快なのは以下の風刺であろうか(以下)
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816 : シュッコン・バーベナ(アラバマ州):2009/05/19(火) 14:44:24.24 ID:nOfEeFQx
こいつ座ってるじゃんw
http://www.canon-elec.co.jp/aboutus/ecology/message.html
1











847 : ユリオプスデージー(東京都):2009/05/19(火) 14:49:32.11 ID:eg8ZjPC+
>>816
あっ!座ってる…。

トップは率先すべき人物じゃないとなあ。

296 : スズメノヤリ(千葉県):2009/05/19(火) 15:57:56.37 ID:vqeVFGsC
http://www.kenja.jp/fukabori_details.php?tar=257
1








社長めちゃめちゃくつろいでるじゃないか


(中略)

357 : レンギョウ(長屋):2009/05/19(火) 16:04:03.30 ID:kl2sDusz
>>296
1







社長室で天井を見ながら音楽を聴きます



ひとしきり爆笑したあと血の涙が流れた
何様だよこいつ

592 : カロライナジャスミン(大阪府):2009/05/19(火) 16:35:32.35 ID:7VAayvdg
>>357
すごすぎワラタ
下を見ないキリッ

334 : 菜の花(埼玉県):2009/05/19(火) 16:01:50.16 ID:HEWYC4hc
wwwwwwwwww

11








345 : ハハコグサ(神奈川県):2009/05/19(火) 16:02:51.99 ID:4Uz2WX9N
>>334
これはひどい

349 : ストック(東京都):2009/05/19(火) 16:03:04.56 ID:/VjeDCf5
>>334
まさに天国と地獄w

353 : ドデカテオン メディア(静岡県):2009/05/19(火) 16:03:36.69 ID:Khsf75KU
>>334
きっと「お前らも座りたければ社長になってみろ!」って無言の叱咤激励なんだよw

400 : ムラサキナズナ(東日本):2009/05/19(火) 16:09:28.61 ID:i/yY6byP
資本主義の搾取構造の例

持つ者
1







持たざる者
11








(中略)

566 : ハナズオウ(dion軍):2009/05/19(火) 16:32:40.85 ID:Wz+iGKvz

1















580 : ストック(東京都):2009/05/19(火) 16:34:13.30 ID:/VjeDCf5
>>566
ワラタ

607 : ウィオラ・ソロリア(長屋):2009/05/19(火) 16:38:00.38 ID:ZiyChnwB
>>566
酒巻のせいで地球が危ないww

711 : ノゲシ(愛知県):2009/05/19(火) 16:55:20.19 ID:LxKJsF7n
11







     ('A`)___
  ('A`)(/_(A` )                    <(・ω・)>
  (ヽ/  ヽ__ノ ) カタカタ・・・               ノ  ノ
  ノ | | ̄ ̄| |ノ |                    //~||


723 : ヘビイチゴ(北海道):2009/05/19(火) 16:58:10.64 ID:LFEg3yqv
>>711
     ('A`)___ .。о〇(娘の運動会にも行けない…)
  ('A`)(/_(A` )                    <(ω・)> ~♪
  (ヽ/  ヽ__ノ ) カタカタ・・・               ノ  ノ  地球が滅ぶので立ったまま働き続けろや
  ノ | | ̄ ̄| |ノ |                    //~||


726 : ヒサカキ(大阪府):2009/05/19(火) 16:58:43.93 ID:kdgRmBZL
>>723
これぞ資本主義って光景だな

729 : トサミズキ(アラバマ州):2009/05/19(火) 16:59:38.39 ID:to2bzQPZ

1









キヤノンの素晴らしい経営努力をまとめてみた
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無能にも記事をそのまま引用させてもらった。
ちなみに、この「とある」有名な経営者氏は、今までで一番影響を受けた人物に、足尾銅山鉱毒事件に一生を捧げた田中正造を挙げている(参考)。
足尾銅山鉱毒事件とは、企業側エゴが近隣住民を蹂躙した典型例であるが、それに立ち向かった田中正造を、効率化となんやらかんやらで算盤勘定を率先してる人物が挙げるのは、何となくおかしい。
まあ私はこの企業の社員でも何でもないので、この状況が本当なのかは窺い知れないが、もしそうなら、この経営者はやがて現代の田中正造してやられるという事になろう。

恐らく、先の某経営者も私的には凄く良い人、魅力的な人なんだろうと思う。
しかし、「知らないうちに悪役を演じてしまう」といったところに、現代人の「分裂病」の問題があるとも云える。


現代における古典的戯劇の提案

2009年05月19日 | sub-culture

ちょっと前に「ツンデレ」というのが流行ったが、つまりはまあ、特別興味をもった人物に対してワザとつらく当たるといった幼児的反応なんだろうと、当時から思っていた。
またそれを追ってか、次には「ヤンデレ」とか、色々な「デレ」が溢れ出した訳だが、思うに、どれも「性善」的な人間の反応ではない。
このような「未熟さ」が、現在の俗物的「」に相当するのだろうが、しかし、それは現実生活においてはただの気まぐれに起こりうるアクシデントに収まってもらいたいものだ。


ときに、人の感情というのを大別するに「」、「」、「」、「」と区別することが出来る。
これは一般的に良く知られた事柄であるが、しかし、その内容については皆、考えたことがあろうか?

私見として、

・・・喜びを面に顕にした状態
・・・怒りを面に顕にした状態
・・・哀しみを面に顕にした状態
・・・善なる面を顕にした人の状態

となるが、ちなみに、この4つのポイントというのは、全て感情を面(表情や態度)に顕す事にある。

色々と物議を醸し出しそうなのは「」に関わる事柄であろうが、これはよくいう「何だか楽しそうな状態」ではない(もしそうすると、「」と被るではないか!)。
またこれに「善なる」と記しているが、それはつまり「理想人の通常の状態」といった意味合いで用いている。
もっと噛み砕けば「普通の状態」なのであるが、それが一体何であるのかは「性善」的な状態であるとしかやはり言いようが無い。

そして、これらの相関を表してみる。
-----------------
     

     ↑
 ←  → 

-----------------

この相関を見る限り、「」はそれぞれ感情表現の出発点となる。
ともなれば、ある表現において、「」の状態は重要になる。
例えば、「」を伴う「」の場合

------------------------
      

       ↑
怒怒 ←  → 

------------------------

このような相関が生じることになる。
具体例を示せば、普段「」の状態から怒りが面に顕れている人は、それぞれ感情表現に「」が伴う訳である。
先の「ツンデレ」の場合、また別に「尊大」とか付する事が出来ようが、まあこれが云わば、普段我々が思い込んでいる「性格」というものを形成する。


さて、ここまで書いて何が一体申したいのかというと、結局のところ、「」の状態の重要性、殊更、それが「性善」的、若しくは「自然の状態」であるべきである事が一つ。
そして、各それぞれの感情表現を、この本来の「」の状態から的確に顕にする事の必要性である。
またこれには受け手の状態というものも含まれ、つまり、ポイントはこの3つである。


そしてこの3つを成長させるのに、適当なある戯劇を提案する。
それはこれまで我々がしてきた、所謂「人形遊び」なのだが、重要なのはこの「4つ組み」を意識する事である。
ちなみに、「人形劇」といっても、それは必ずしも人形でやる必要は無い。
それこそ、何の変哲も無い透明ガラスのコップや、またナイフ、スプーンでも良い。
しかし、意味合い的には、感情を込める器が適当かと思える。
というのも、人の形をある器に例えるならば、用いる道具も、やはり「中身を込められる」ものである方が良い(※)。


とまあ、これは儀礼的な見地から書いたものだが、しかし、余興として皆に見せる試みを通して、その演技者の向上を図る上ではもっとも適当ではないかと思う。
勿論、戯劇を観覧するものも、その目的を以てる人、若しくは感性の鋭い人など、気がつくこともあろうが、ともかく、試みとしては使い古されたある種の古典である。
しかし、この古典的作業こそ、今立ち返るべく事柄なのではと思うところがある。

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※「人形劇 三国志」を思い出した。何故ならば、人形は常に「」の状態であるからだ。またその人形が、卓越した創作主に由って、自然に近い、慈愛に満ちた「」の面を見せるならば、戯劇の本質も伝わってこよう。
Marionette Zhaoyun-01


心霊的自己防衛

2009年05月18日 | sub-culture

先に書いた記事の起因となったものは、実は最近、私の関心事のうちに入ったある女性のためである。
正確には女性でなく女子なのだが、何故にかような些細なことに、あるとき突然、苛烈極まりない心理状態に陥るか思索を巡らせていた。
すると先ほど、ある印象が私の心の奥底から這い上がってきた。

その心象とは彼女の「両眼」である。
ほんの一瞬の、挨拶をして顔を見上げたときに私の目端に映った光景であったが、その2つ眼が強く、鋭い光を放っていた事に気がついた(※1)。

そしてその後、私の心に思い浮かんだのは、ダイアン・フォーチュンの「心霊的自己防衛」である。
ちなみに、この著書に関しては未読であるが、その内容の一部について、確かコリン・ウィルソンが触れていたのを読んだ事がある。
それは無意識のうちに「魔術」を使う事のある人の存在であった。

ときに、”無意識のうちに「魔術」を使う事のある人”とはどういうものであろうか?
こればかりは体験を通して気がついた者同士でしか実感出来ない事柄であろう。
私は大学時代に、ひどくこれを用いている人物に出会う幸運(不幸か?)(笑)に巡り合わせたが、現在の関心事にあるその少女とその学友らというのは共通項がある。

その共通項をあげるとするならば、

1、獣のように鋭く光を放つ両眼
2、場の雰囲気を作り出す
3、人格破綻

である。
1については先に書いた通りである。
2に関しては、私というイレギュラー要素が入ったその当日、初めてその場で反乱が起こった事が(目撃当事者から聞いた事)、過去の体験の裏づけとなる。
最後については、現在の関心事にある人物は少女であるため的確とは云えないが、もし彼女に魔法力が認められ、また且つ、そのままの状態で成長してゆくならその可能性は無きにしもあらずである(事実、これまでの人物は、慢性的な嘘つきをはじめ、精神的疾患と思しき態度を現す事が多かった)。

さて現在、私は彼女の術中下にあるわけだが(事実、動悸が激しい。他、この記事の第一の投稿を阻止されている)、この対抗策は「笑うことこそ、最大の防衛」であるそうだ(参考)。
何というか、フォーチュンの腹の強さが現れるかのような言葉だが、実はこれは修験の諸流ではよく知られている。

まあともあれ、フォーチュンの「心霊的自己防衛」を読むべきかと思った。
また他に、幼児期に施す修養の危険性についても気がつくことも出来た(※2)。

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※1:さながら「光る眼」である(笑)(原作:ジョン・ウィンダム「呪われた町」)

パッケージは新しいものだが、実際は瞳が赤くなったり、光線を放ったりはしない。
寧ろオリジナル版の方が近い。

Village of the Damned (Original Trailer)
Village of the Damned (Original Trailer) (from Youtube)

※2:ルドルフ・シュタイナーについて次のようなエピソードがある(以下)。

『自身(シュタイナー)が40歳になるまでは霊的な指導を引き受けなかったのは、40歳までに霊的な指導を引き受けると誤謬に陥り易くなるためだとも言う(発明は40歳までのは人類の道徳を退行させ、40歳以後は人類の道徳に貢献するものにもなる、と主張されている。)。』

(Wikipedia:ルドルフ・シュタイナー霊的な知識精神科学)」より)


月の水面に 顕りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

2009年05月18日 | diary
私は偏に、烈し易い性格である。
これは父親譲り、いや恐らく、先祖から引き継いだ資質なのであろう。

しかしながら思うに、それは多く、尊大なる自尊心故の未熟な資質であるのだろう。
事実、私の父親は、今は退職したが、重責なる役職に就いていたし、また一々カリカリしていたのでは、私の先祖も何かやらかして、この世の中に数多ある系譜の一つから外れていたであろう。

思うに、やはり私は未熟なのだ。
風が吹けば、心の水面は直ちに揺らぎたち、また、しかもその揺らぎはいつまでも続く。
それまで折角、偉大なる月姿(※太陽の反映としての)を浮かべていたというのに、これでは全く修行の意味がない。

世の中というのは、つまり、心の水面を揺らがせようとする、作為にしろ無作為にしろ、そういった作用に満ち溢れている。
それだから、この心の水面に映る月姿を失ってしまうのだ。
だからこそ、その心の波を沈めるために修養というものは存在するが、性善なる在り方はかくも得がたしものなりかと。


女神よ、御身姿を、我が心の水面に、どうか留まり給え。


仁義

2009年05月17日 | diary
最近、地元の駅前が改装工事のため、タクシーの待機駐車スペースが一時的に移動されているのだが、歩行者にとっては至極不便になった。
というのも、これまでの歩行ルートをぶった切って、待機スペースを回り込むようにガードレールが敷かれているためだが、工事終了までは仕方が無いことかもしれない。
しかし、慣習というものはなかなか直せないもので、というより寧ろ、迂回ルートをわざわざ歩かせる事に問題があるため、一向に歩行者は待機駐車スペースを横切って歩行する。これは仕方が無いことだ。

ときに先日、そこである事に出くわす。
それは私も当然のようにその待機駐車スペースを横切ろうとしたときである。
恐らく、そこら界隈をねぐらにしているホームレスであろうか、ひどく薄汚れたおじさんに怒鳴られた。
「何だろう?」と思い、おじさんの言うことに耳を傾けると、「ここを横切るんじゃねえ。事故にあったらどうするんだよ!」と言っていた。
私は直ぐ「成程」と思い、迂回ルートを歩いてゆくことにしたが、そのまた直ぐ後、そのおじさんに感心した。

というのも、ホームレスに身の安全を指摘されるなんぞ、なかなか無いことである。
勿論、そのおじさんはタクシーの運ちゃん連中と懇意で、おじさんはそのように注意する事を頼まれたのかもしれないし、またそれによっておじさんに何らかの見返りがあるのかもしれない。
しかしながら、それでもおじさんの注意は的を射ている。
迂回ルートを渡りきったとき、振り返っておじさんを見たが、同じように注意していた。


世間一般では絶対、おじさんに怒鳴られたことで、キチガイの言うことと蔑むであろう。
だが私には、こういうのも「仁義」なのかもしれないと、しみじみと思ったのである。

眩しく光ったロックンロールも錆びる

2009年05月06日 | diary
新聞を読めと伯父に勧められた。
世の中の流れを知って、もっと賢くなれという事なんだろう。
またもしかすると、以前の田母神批判の続きなのかもしれないが。


新聞を読んでいれば一応の世事には明るくなるだろうという事は分かる。
しかし、不要なごみ情報が多いのは、新聞もネットも変わりはしない。
また寧ろ、正確な情報があったとしても(確実な不正確な情報もある)純朴、素朴な凡夫、一般市民に政治や経済の何某が簡単に分かるだろうか?
せいぜい分かりえるのは、「近所の犬」の話、「人が殺されました」とか、「~法が変わって、今度から負担が増えます」とか、そういった類のものだろう。

後者に関しては、新聞とは、ある面、ある権力面からの通知書みたいなものとも云える。
勿論、そのようなあり方に反対する報道者もいるが、しかし、その思惟というのは、現代においてはネットの方が多種多様、また優れたものも種々ある。


伯父は大学こそ出ていないが、教養のある人だった。
その向学心が、今も若さを保ち続けられている理由だろうが、しかしそんな伯父も、時代の推移に乗れるほど、もはや若くはないのだなと思った(※)。
だから私は、伯父が「新聞を読め」と云った時、素直にそれに応じようと思う。

私の時代感覚も、一体いつまで通じるのか?
それは今世代の我々全てにも、将来に向かって云いえる事柄ではなかろうか。

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布袋寅泰の「Upside Down」(GUITARHYTHM III)を思い出した
布袋 寅泰
(from "Youtube")

「愛した奴はみんな消えてく」のである(歌詞)。

決め付けの心理

2009年05月03日 | diary
「決め付け」というのはステレオタイプの事なんだろうか?
まあ「かくあるべし」とある人には、その事は分からないのだろうなと思うところがある。

例えば「幸せ」という状態について、それはそもそも、ある人の内外の状態についていえる事なんだろうが、大きなお世話と感じるのは「外の状態」云々に関して触れられたときだろう。
経験上、大体その「外の状態」をとやかく云うのは、相対的価値観によるもので、さらにそれに発言者個人の感覚的要素が加わって、私としては畢竟、具合が悪い。

「幸せそう」とか「不幸せそう」とか、正直、他人がとやかく言うべきものではない。
「幸せそう」に見えて、内心大きな不安を抱え潰れてしまった人なんて星の数ほどいるだろう。
また己自身が「不幸せ」と感じるから、その哲を他人が踏まないようにさせるようにしようとするのも、本当の意味での思いやりではない。
「やってやる」事で、自分の満足、若しくは「不安の解消」をしようとしている事があるからだ(※)。


まあともかく、精神活動も多く、単純なルーチンワークに陥りやすい。
それが云わば、決め付けの心理であろう。

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※例えば親が小さな子を叱るとき、その心理というのは現れる場合が多い。
本来、子供を正すべき「叱る」という行為が、いつの間にか「ストレス」の解消になるからだ。
しかもこの場合、子供が歴然として態度を改めないようであれば、延々とそのルーチンワークを繰り返すことになる(!)。

呼気のリズム

2009年05月01日 | music
クラシックを伝える人とポピュラーのそれの隔たりというのを考えるに、一般的にはリズム、メロディ、ハーモニーの表面上の異なる様相を指し示しがちであるが、しかし、ポピュラーもやがて格式化してゆくのを看るに、それでは一概に云うことは出来ない。
クラシックも元々は流行音楽であったためだ。
ではポピュラーとクラシックの隔たりを考えるに、一体、何がそうさせているのか?
それは結局のところ、修養の部分ではないかと思う。

ポピュラーというのは、所詮は野の音楽である。
野性味のある音楽というか、まあ実験的企画モノといっても良いか。
そのため、あらゆるミスも音楽として許される事がある。だから実験的なのだ。
センスが全て、またその音楽は1代限りの、刹那の音楽であり、またこういった感覚で音楽をやっている人は驚くほど多い。

また修養の部分、先にセンスと述べたが、例えば「Groove」の問題、これは理解不能とされているし、またそうしている、若しくはそう思い込んでいる。
それは敢えて定義を嫌うポピュラーの性質上のものであるが、そもそも定義とは、一般化する上で教育上必要な感覚、方法を共有する上で不可欠な事柄であるのだが、これがなかなか広まらないのは残念な事である。
少なくとも、例えば武道にある「流派」は、始祖、宗家のまねびを延々と繋げ、発展させ加筆してきた性質のものとも言い得るが、ポピュラーにはそのようなものが畢竟、少ない。
だから一代限りのものなのだ。

他にリラックスの問題もある。
リラックスとは、音楽においては楽器を弾く上で余計な力の入らない自然な姿勢を学んだ上で実現可能であるが、ポピュラーにはそのような指摘も無い。
そのため、私もここ10年間、半ば騙され、運指に余計な力を入れるための訓練を余儀なくされた。
いうなれば、「堕落」(※1)させられたといっても過言ではない。


ときに最近、リラックスを心掛けて運指の訓練や演奏をしていて気がついた事がある。それは「呼吸」の問題である。

ある日、電車の中でウォークマンで大好きなギタリスト、三宅庸介先生(※2)の音楽を聴いていたときだが、曲中、複雑なパッセージとかになると、聴き手である私が全く無呼吸になる事があることに気がついた。
後に、自分で演奏しているときにそれを意識してみると、やはり音楽を聴いているときと同じように呼気んもリズムを喪失していた。これは悪い癖だ。

一見すると、何でもないことのようだが、呼気のリズムというのは、楽器演奏に関しては重要なものである。
前に知り合いの若手ジャズギタリストが、アドリブをとっている際、そのパッセージそれぞれにハミングしていたのを思い出したが、つまり、そういう事なのである。



※1:性善説とは、本来修養的用語であろうと考える。
本来、「善」である人間は、余計な姿勢をとらされることによって「悪」の状態となる。
不自然な姿勢や余計な力は人間の体を歪ませ、また且つ、精神をも歪ませてゆくのだ(類義語:健全な肉体に健全な精神は宿る)。

※2:この方は本当に別格なギタリストで、是非、リンク先音楽を聴いてもらいたい。
神のGrooveを理解している、日本では数少ないギタリストではないかと感じている。