クラシックを伝える人とポピュラーのそれの隔たりというのを考えるに、一般的にはリズム、メロディ、ハーモニーの表面上の異なる様相を指し示しがちであるが、しかし、ポピュラーもやがて格式化してゆくのを看るに、それでは一概に云うことは出来ない。
クラシックも元々は流行音楽であったためだ。
ではポピュラーとクラシックの隔たりを考えるに、一体、何がそうさせているのか?
それは結局のところ、修養の部分ではないかと思う。
ポピュラーというのは、所詮は野の音楽である。
野性味のある音楽というか、まあ実験的企画モノといっても良いか。
そのため、あらゆるミスも音楽として許される事がある。だから実験的なのだ。
センスが全て、またその音楽は1代限りの、刹那の音楽であり、またこういった感覚で音楽をやっている人は驚くほど多い。
また修養の部分、先にセンスと述べたが、例えば「Groove」の問題、これは理解不能とされているし、またそうしている、若しくはそう思い込んでいる。
それは敢えて定義を嫌うポピュラーの性質上のものであるが、そもそも定義とは、一般化する上で教育上必要な感覚、方法を共有する上で不可欠な事柄であるのだが、これがなかなか広まらないのは残念な事である。
少なくとも、例えば武道にある「流派」は、始祖、宗家のまねびを延々と繋げ、発展させ加筆してきた性質のものとも言い得るが、ポピュラーにはそのようなものが畢竟、少ない。
だから一代限りのものなのだ。
他にリラックスの問題もある。
リラックスとは、音楽においては楽器を弾く上で余計な力の入らない自然な姿勢を学んだ上で実現可能であるが、ポピュラーにはそのような指摘も無い。
そのため、私もここ10年間、半ば騙され、運指に余計な力を入れるための訓練を余儀なくされた。
いうなれば、「堕落」(※1)させられたといっても過言ではない。
ときに最近、リラックスを心掛けて運指の訓練や演奏をしていて気がついた事がある。それは「呼吸」の問題である。
ある日、電車の中でウォークマンで大好きなギタリスト、三宅庸介先生(※2)の音楽を聴いていたときだが、曲中、複雑なパッセージとかになると、聴き手である私が全く無呼吸になる事があることに気がついた。
後に、自分で演奏しているときにそれを意識してみると、やはり音楽を聴いているときと同じように呼気んもリズムを喪失していた。これは悪い癖だ。
一見すると、何でもないことのようだが、呼気のリズムというのは、楽器演奏に関しては重要なものである。
前に知り合いの若手ジャズギタリストが、アドリブをとっている際、そのパッセージそれぞれにハミングしていたのを思い出したが、つまり、そういう事なのである。
※1:性善説とは、本来修養的用語であろうと考える。
本来、「善」である人間は、余計な姿勢をとらされることによって「悪」の状態となる。
不自然な姿勢や余計な力は人間の体を歪ませ、また且つ、精神をも歪ませてゆくのだ(類義語:健全な肉体に健全な精神は宿る)。
※2:この方は本当に別格なギタリストで、是非、リンク先音楽を聴いてもらいたい。
神のGrooveを理解している、日本では数少ないギタリストではないかと感じている。
クラシックも元々は流行音楽であったためだ。
ではポピュラーとクラシックの隔たりを考えるに、一体、何がそうさせているのか?
それは結局のところ、修養の部分ではないかと思う。
ポピュラーというのは、所詮は野の音楽である。
野性味のある音楽というか、まあ実験的企画モノといっても良いか。
そのため、あらゆるミスも音楽として許される事がある。だから実験的なのだ。
センスが全て、またその音楽は1代限りの、刹那の音楽であり、またこういった感覚で音楽をやっている人は驚くほど多い。
また修養の部分、先にセンスと述べたが、例えば「Groove」の問題、これは理解不能とされているし、またそうしている、若しくはそう思い込んでいる。
それは敢えて定義を嫌うポピュラーの性質上のものであるが、そもそも定義とは、一般化する上で教育上必要な感覚、方法を共有する上で不可欠な事柄であるのだが、これがなかなか広まらないのは残念な事である。
少なくとも、例えば武道にある「流派」は、始祖、宗家のまねびを延々と繋げ、発展させ加筆してきた性質のものとも言い得るが、ポピュラーにはそのようなものが畢竟、少ない。
だから一代限りのものなのだ。
他にリラックスの問題もある。
リラックスとは、音楽においては楽器を弾く上で余計な力の入らない自然な姿勢を学んだ上で実現可能であるが、ポピュラーにはそのような指摘も無い。
そのため、私もここ10年間、半ば騙され、運指に余計な力を入れるための訓練を余儀なくされた。
いうなれば、「堕落」(※1)させられたといっても過言ではない。
ときに最近、リラックスを心掛けて運指の訓練や演奏をしていて気がついた事がある。それは「呼吸」の問題である。
ある日、電車の中でウォークマンで大好きなギタリスト、三宅庸介先生(※2)の音楽を聴いていたときだが、曲中、複雑なパッセージとかになると、聴き手である私が全く無呼吸になる事があることに気がついた。
後に、自分で演奏しているときにそれを意識してみると、やはり音楽を聴いているときと同じように呼気んもリズムを喪失していた。これは悪い癖だ。
一見すると、何でもないことのようだが、呼気のリズムというのは、楽器演奏に関しては重要なものである。
前に知り合いの若手ジャズギタリストが、アドリブをとっている際、そのパッセージそれぞれにハミングしていたのを思い出したが、つまり、そういう事なのである。
※1:性善説とは、本来修養的用語であろうと考える。
本来、「善」である人間は、余計な姿勢をとらされることによって「悪」の状態となる。
不自然な姿勢や余計な力は人間の体を歪ませ、また且つ、精神をも歪ませてゆくのだ(類義語:健全な肉体に健全な精神は宿る)。
※2:この方は本当に別格なギタリストで、是非、リンク先音楽を聴いてもらいたい。
神のGrooveを理解している、日本では数少ないギタリストではないかと感じている。
当時の民にとっては大衆音楽ですよね。
(Wikiでは、クラシックは当時、身分が極めて高い方や、国家を支配している王の支配下にあり、大衆には広まらない・また、機会が少ない等の独占とありましたが・・・どうなんでしょうね?)
西洋音楽は古代音楽が存在しなければ
確立されていなかったと思います。
そして、西洋音楽が無ければ
Bluesと融合したJAZZも存在しないとなりますよね。
JAZZが無ければ、イギリスのロックも
生まれなかったとも言えます。
こうやって音楽は進化していく物と解釈しておりますが
例として、
ポピュラー音楽=現代の大衆音楽
ポップやアイドル、ですね。
僕的には、進化していると言うより
意味をはき違えた上で
劣化し衰退している様に感じますが
いかがでしょうか?
例えば
戦後間もない頃のスクリーンミュージックの多くは、一発聴いたら、「それ」と分かる強烈なインパクトがありますよね。
もちろんその後も素晴らしい作品はあるのですが
「何処かで止まり始めた」
この様に感じてなりません。
僕の解釈ですが
ビートルズのYesterday以降
微妙なスピードで、劣化していって
いる様に聴こえてなりません。
まして
現在の流行音楽にそれを求める自分が居るのですが、どうしても理解できないんです。
最初は「僕も歳なのかなー」と、
思ってましたが
やはり劣化していると、最近になり
思えて来ました。
ここは人によって解釈が分かれると
思うのですが、僕はそう感じます。
話が変わります
余談ですが、トップページにある
O∴ELさんのギターを聴かせていただきました。
かなりの完成度の高さ
特にフレーズや、それに伴うアクセント
的なリックが非常に楽しめましたし
アプローチも面白いです!
未熟な僕が言うのも、申し訳ないと思うのですが
リードのGainが多少高いので
6連符のスピーディーなフレーズが
若干濁って聴こえたので、もったいなかったかなと。
ほんと間違っていましたら
ごめんなさい^^;
>僕的には、進化していると言うより意味をは
>き違えた上で劣化し衰退している様に感じま
>すがいかがでしょうか?
いや、寧ろ2極化しているんじゃないかなと思うところがあります。
というのも、ゲームミュージックやアニメのBGMを聴いている限り、これらの音楽事業に関わっている人たちというのには実験的野心が伺えるからです。
しかしその逆、メジャーシーンにある音楽にはそれが無い・・・としか云いようがない。
劣化という点においては後者がそうだと思います。
つまり、進化しているものとそうでないものの二極化といった感じです。
まあ後者においても頑張っていると思える奴もあります。
9mm Parabellum BulletはPVで聴いたとき、素直に「新しいな」と思いました。
>リードのGainが多少高いので
ああ、これは確か意図的にやってます。
この時はギンギンな音にしたかったためですが、ミックスはよく分からないので。
まあそうでなくとも、自分の音源をwmpで遅再生した際に独りで氣持ち悪がってます・・・orz
ともあれ、ご指摘有り難うございますb