先日、とある酒席で「ガンダムファンは根暗だ」という話題になった。
その理由に、「観ていない者は人に非ず」のような感じがある、といったものがあったが、最も納得がいったのは、そういう人に限って「Zガンダム」を勧めてくるということだ。
またこういった人は、「エヴァ」とか「ギアス」とか、きっと好きだろう。
別に悪いことではないが、これらには「堕ちてゆく快感」といった共通のものがあるように思える。
さて、かくいう私も「堕ちてゆく快感」の分かるガンダムファンなのだが、「Zガンダム」を勧める人たちと違うのは、映像監督の富野由悠季氏に対するアウトサイダー的理解があるところにある。
またこれは作品に対する理解というより、富野氏に対する理解といった意味で、特定の作品を一身に伝えようとする人たちとは違っている。
正直、富野由悠季氏は既にアウトサイダーを克服している。
アウトサイダーであったころ、彼は不名誉にも「皆殺しの富野」とか、そういった二つ名を与えられていたわけだが、しかし、氏の現在における作風は大分、過去のものと違ってきているように思える。
決定的なのは、やはり富野ガンダムの最後の作品である∀ガンダムであろう。
私がこの作品で衝撃的に感じたのは、ガンダムで牛を捕まえたり洗濯をするシーンでなく、ディアナの存在である。
存在というのは「働き」という意味合いであるが、彼女はこの作品における最重要人物である。
そして全ガンダム作品を終焉させる人物でもあるわけだが、この「働き」を理解できている人はどれだけいるだろうか?
その「働き」というのは、作中に、私が印象的に感じたのは、月の暴動を、その暴徒が近いところを行幸し、鎮めたシーンだった。
次にあったのは、地球に降下し、反乱を起こした自身の軍団が、再び彼女の姿を見た途端に再び恭順するというシーンだった(※)。
また、驚くことに、彼女は彼ら反乱者に特赦を与えて再び参与に加えている。
※ちなみに、我々日本人は現実にこのような経験をしている。昭和天皇行幸である。
ときに、ガンダムがシャアとアムロの死によって終わらなかったのは、彼らの存在が、作品背景に流れる本質的な部分を総括しえなかったことにある。
所詮はライバル同士、端的に、作品に住まう人類すべてを包むような存在ではなかったのだ。
しかしながら、ディアナは違うわけである。
ディアナには私心がない。いわゆる、我々と同じような私心がないのである。
神格化された存在として、彼女自身それを自然に受け入れ、いや、やはり神格をもった存在なのだと思う。
それを考えると、次の話を思い出す。
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”伝承の中の神武天皇は、道々賊を平げられ、大和の橿原(かしはら)に至って、これを伏(まつろ)わない者はもう無くなったとして、それまでまとっておられた御軍装を解いて、初めて天皇の御位につかせられたのである。
天皇の御位に即かせられた時の言葉として、
「八紘をおおいて宇となす、また楽しからずや」
と仰せられたと伝えられている。
この言葉の意味は世界一家などという征服的な意味ではない(注:「八紘一宇」とは、本来、軍国主義の侵略的スローガンとは相容れない)。
宇は人間が個々の生活を営む豚の住む家ではなくて、宇宙に連なる軒なのである。
平和に櫛比(しっぴ:櫛 (くし) の歯のようにすき間なくぎっしりと並んでいること。)してゆく軒(※この場合、「宇」の「軒」)は、泰平な万民の繁栄を意味するもので、もはやこの世に敵はいないという境地の述懐にほかならない。
したがって、これはこれからの世に武装は無用と見た軍備撤廃の大宣言に当たっている。”
引用:山岡荘八「徳川慶喜」〔6〕(75項14行~76項7行)
※下線、太字はO∴EL
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富野由悠季氏がディアナ・ソレルに与えた「働き」というのは、「八紘一宇」の思想なのではなかろうかと。
そして最終回、その神格化されたディアナも交代の時期を迎える。
還俗するきっかけは、かつて地球の男に愛されたことであったと思う。
密かに新たな女王を迎えるが、その新女王もまた私心がない。
しかし、それをすることによって、ディアナ・ソレルという存在、つまり「八紘一宇」の思想は永遠となる。
そういったテーマが、ガンダムの締めくくりとして、∀ガンダムにはあると感じている。
前に母親と「タバコを吸う人」について語り合う事があった。
押井守と鈴木敏夫のイノセンス対談を観ながらであったが、母親の言葉がが印象的だった。
「この人達って、何かしら恰好をつけないとタバコが吸えない。というか寧ろ、恰好を付けないとタバコが吸えないほど内面的なものがあふれ出てる」
という感じだった。
さて昨今、禁煙ブームである。
いや、寧ろそれがエスカレートして嫌煙ブームにまで発展しているようだが、上述のこういった類の人からも喫煙を奪うのは如何であろうか?
別に私は喫煙を推奨する云々の話をしているわけでは無い。止めようと思えば止めれば良い。
私も喫煙者だからといって、そこら辺を擁護する氣は全くない。
ただ私の問題とするのは、行き(生き)場所の問題である。
ある予言に「2つの太陽」を示唆する事柄が伝えられている。
平たく云えば、この兆しが見えたときに氣を付けろ、といったものだが、近時の動向を看るに、あながち外れでは無いと思うところがある。
2つの太陽・・・これと思われる事柄は次のようなものがある。
1:幻日(げんじつ)
・・・太陽と同じ高度の太陽から離れた位置に光が見える大気光学現象のことである。 なお、月に対して同じような光が見える場合もあり、この場合は幻月 (げんげつ) と呼ばれる(wikipediaより引用。以下wiki)。
(photo from wiki)
これは割と多く見られる自然現象であろうか。
なので、これが兆し云々とか云うつもりは無いが、こういった「2つの太陽」がある。
但し、そうとも思えないような奇妙な幻日もある(→参考サイト『中国の不思議な「2つの太陽」』)。
2:超新星の爆発
こういった話がある↓
『2012年ベテルギウス大爆発か? 2つ目の太陽となる可能性も』(fromロケットニュース24)
(photo from ロケットニュース24)
ちなみにこれに関して、再び先の参考サイトを参照頂きたい。
『ペアの太陽 - 「2012年ベテルギウス超新星爆発の予測」に関しての大騒動』
ここの記事後半ではペテルギウス以外の超新星爆発の可能性を紹介している(HR 8210)。
ともあれ、外宇宙の天文学的な「2つの太陽」である。
3:太陽系9番惑星
つい最近まで太陽系9番惑星とは「冥王星」とされてきた。
しかしながら現在、この天体は準惑星というカテゴライズに区分けされている。
そんな「冥王星」に「2つめの太陽」になる資格があるのだろうか?
冥王星の発見の経緯というのには、ちょっと興味深い話がある。
そもそもこの惑星の発見の経緯としては、かいつまんで云うと、天体の運行上の計算の上で想定された星なのである。
実際の発見はその後になるわけだが、しかし、冥王星の発見があっても計算上の矛盾というのは解決しきれなかったようだ。
それもそのはず、太陽系外縁には冥王星クラスの重力、大きさをもった天体というのはゴロゴロあるという話。
となると、真なるドミネーターがオールトの雲の中に隠れていると考えるのが自然の成り行きだそうだ。
真の支配者とは?
・ネメシス
・・・ネメシス(Nemesis)とは、オールトの雲以遠の、太陽から50000から100000天文単位の軌道を回っているとされる仮説上の赤色矮星、または褐色矮星。地球史上の周期的な生物の大量絶滅を説明するために仮定された。(from wiki)
ちなみに上記に関して『伴星ネメシス』の記述も興味深い。
※伴星ネメシス
・・・ネメシス (Nemesis) 仮説は、太陽に伴星が存在するのではないかという説。(from wiki)
・惑星ニビル
思うのだが、古代人は我々と違った文明を発展させていたのでは無いかと思うところがある。
少し脱線するが、我々の文明を機械文明と例えるのなら、その後に残るのは膨大な鉄くずの山である。
それを後世の人間は遺跡から発掘するのである。
我々より古代の人間場合、遺跡からは粘土板しか発見されないのである。
しかしながら、それには今でも通じるような天文学的知識や学問的なテーマが描かれているのである(太陽系に10の惑星とか)。
これはどういう事か?
話を戻すと、『ニビルとティアマトの伝説』というものがある。
考古学者ゼカリア・シッチンの提唱した説だそうだ。
※ニビルとティアマトの伝説
・・・シッチンのシュメール宇宙論の解釈によれば、太陽系内に、長い楕円形軌道をした3,600年周期の仮説上の天体が存在するという。
この惑星は「二ビル」(バビロンの宇宙論では惑星マルドゥクに伴っている惑星として表現)とよばれていた。
シッチンによれば、二ビルは、火星と木星の間に存在していたと考えられる惑星ティアマトと衝突し、地球、小惑星帯、彗星を形成したという。
なお、ティアマトはまた、メソポタミア神話の文書のひとつエヌマ・エリシュにおいては、女神として描かれている。
あるとき、二ビルの月のひとつと衝突し、ティアマトは2つに割れた。
続いて、ニビル本体が衝突し、ティアマトの1つ目の破片は小惑星帯となった。
そして2つ目の破片はニビルの月のひとつと再び衝突し、新しい軌道に押し出されて、現在の地球となった。
分かるのは、火星と木星には確かにアステロイドベルトが拡がっている。
ちなみに以前、ウケモチの首を刎ねる月読尊の記事(1,2)を書いたが、それを思い出す。
宛ら月読大神は「2つめの太陽」のようである(もっと云うと、月読尊は本来、太陽なのかもしれない)。
補足的に記述するが、9番目惑星に関する記事はまたまた同じサイトに詳しい。
※太陽系9番目の巨大惑星の存在についての公式アナウンスが近いという報道
木星は太陽のなり損ねとも云われるが、この9番目惑星が木星クラスであるとしたら、これもある意味「2つめの太陽」である。
さてこれまでは自然界における「2つの太陽」について記述してきたが、ここからは人間社会におけるそれを挙げて行こうと思う。
1:民主党旗
民主党旗について顕著なニュースが『切り刻まれた日本国旗』であろうか。
参照サイト:麻生首相 「民主党の党旗、日の丸を切り刻み作成…」→鳩山氏「神聖マーク、きちんと作らねば」→民主HPから写真削除
なるほど、民主党の党旗というのは「分断旗」に見える。
また現実に日本国旗を2つに裂いてそれと掲げたこの事件はその意味合いを更に深長なものとしている。
更に現在与党閣僚が国旗に敬意を称しないとか、またこの総理大臣が「君が代」を歌わないとか枚挙に尽きない。
ときに震災があってその後、氣がついた事がある。
それは東京電力のマークである。
東京電力のマークも「2つの太陽」がある。そしてそれは3つの太陽の下にある。
いや、一つの太陽が2つの太陽を孕み、3つの太陽を生み出すという感じだろうか。
それとも、2つの太陽を孕んだ太陽が3つの太陽に支配されている、もしくは3つの太陽のように輝いている・・・か?
個人的には最初の、1が2、2が3といった段階の解釈と受け取っている。
つまり、個人的な感想としては、民主党旗の「分断旗」と東京電力のロゴというのは象徴的にシンクロしているのではないかという事である。
こういった感想は、他に誰かしているであろうか?
「東京受胎」とは云わずと知れた名作、「真・女神転生Ⅲ」のテーマである。
真・女神転生Ⅲ-NOCTURNE(アトラス)
プレイ当時を思い出すに、これにはそのときの私の関心事であった神示系のモチーフが多く鏤められていたように感じる。
特筆すべきは「マネカタ」である。
「マネカタ」とは「真似型」であるが、こういった事を作中に展開する辺り、流石である。
ちなみに、「マネカタ」を拡大的に解釈すれば、現在有る我々も「神の真似型」と云えるが、ただ「一霊四魂」論における我々というのは「一霊」降って「人」(ヒト=霊留)と成す存在であるとされている。
となると、我々というのは「神の姿似」であって、本来、「霊人」であり「神人」であると云える。
そういった意味で、我々は他の獣たちとは一線を隔す存在なのだ。
しかしながら、ある教派神道系における未来的世界観においてはそれを覆す自体が起こりえるといった事が示唆されている。
そのモチーフが、この作品の「東京受胎」といったテーマから見えてくる。
ときに、この作品において「人」というのは限られた存在となっているように見受けられる。
例えば「人修羅」とか、現在あるような「人」としての「容」(かたち)でないところが興味深いところである。
ただ、聖丈二(ひじり・じょうじ)に関しては疑問に感じることがある。
彼もやはり「マネカタ」であるらしいが、「東京受胎」時の大異変を、幸運にも境界の保護を経て過ごした彼は他のそれとは違うのではないかと。
つまり、「純然たるマネカタ」はもはや「直日霊」を「フトミミ」に頼るしかないのだが、彼の場合どうであろう?
受胎後の東京にあって、彼を「マネカタ」としているのは彼の「直日霊」の輝きが薄れているからであり、しかし厳然として彼に「直日霊」が降っているとすれば、それは今ある我々とあまり変わらない存在であると云うことではなかろうかと思うところがある。
そう考えると、「人修羅」のような「霊人」、「神人」にもあらず、「純然たるマネカタ」にもあらず、一種のアウトサイダー的テーマが生じえる可能性があるのではと想像を逞しくする。

初観だったが、当時、エロス表現で話題になっていたシリーズだったのを思い出す。
「天草一族の再興」とか、結構、作品として面白かった。
流石は山田風太郎といったところか。
しかし何故、珍しくこの作品について書こうと思ったかは主演の墨田ユキによるものである。
当時、そんなに大きく話題になるほどの女優では無かったと思うのだが「美しい」と感じた。
その昔、舘ひろしの”免許がない!”でセクシー女性教官役をやっていたのをゴールデン洋画劇場で観た事があるが、そのときの印象もかなり残っている。
他、色々書こうと思ったがここで止めておこう。
美しいものは美しいのだ。

不意に開いた扉からハトホルの残香が漂って来た。
この「香り」というものの持つ力というのは、女そのものの裸体以上の刺激を与えうる。
いやむしろ、醜悪な性質隠しおおせるほどの魔力というべきだろうか。
そもそも「香り」というのは人の原生的特徴に強く刺激をする。
街を歩けば、そこには様々な匂いに溢れている。
逆に排気ガスや淀んだそのような環境の中でも、人はホイップクリームや焼き鳥を焼く匂いを嗅ぎ分ける。
ユングの「アハ体験」に関するエピソードに、シチューの香りのエピソードがあるのは至極当然である。
重ねて云うが、それが人の原生的反応なのである。
さてここに来て、私は少年時代のある「香り」を思い出した。
それは私が器械体操をやっていたときに、ある少女が発していた「香り」である。
彼女の発していた「香り」の主たるものは、所詮は衣類を洗濯するのに用いた洗剤のものである。
いや、その「香り」の中に、私はその少女の本当の「香り」を感じていたのだと思う。
それは例えばホイップクリームに似た微香だったのかもしれない。
ときに何の小説だったか覚えていないが、この「香り」を述べたものがあったように思う。
それは確か最後の方で、その彼女の使っていた布団の残香でもって自慰をするとかといった感じだったと思うが、「香り」の持つ魔力というのは計り知れないものでは無かろうかと思う。
ふと思ったんだが、デニーロの「タクシードライバー」がヘミングウェイの「兵士の故郷」の続編であるとしたら、どうであろうか?
それは第一次世界大戦やベトナム戦争では時代的に隔たりがあるが、若者の若者自身の存在意義如何を問う意味においては全くかけ離れた題材では無いと感じるからである。
ときに、前野光保なる人物を思い出す。
この若者は1976年(昭和51年)3月23日、児玉誉士夫邸に自ら小型セスナを繰り、特攻をかけるという事件を起こした(児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件)。
折しも、先の「タクシードライバー」公開(米にて)一ヶ月強後の事件でもある(奇妙なシンクロにも思える)。
勿論、このような馬鹿げた事件、と思うのが通常の体であろうが、この若者を繰り出した時代的雰囲気というのには大きな責任がある、と私は受け取る。
恐らく、この若者の内的体験は「幾田万世に及んだ」と感じるからである。
珍妙な事件というのはそもそも風化してゆくのが早い。
最近でも、自民・福田康夫総理の時期、ある有能な自衛官が国会議事堂前で割腹自殺を図っているが、結局、それも凡夫にとっては一種の流行病にすら感じられないものであろうと想像する。
しかし、「こいつらは馬鹿」だと仰る方々にどれだけ想像力があるか、正直私は疑ってやまない。
またそういう彼らが「正義」感を持ち、そしてどれだけそれの行動に従って生きているか、というのも怪しい。
いや、逆に「正義感」というような病氣においやる状況というのは、その状況事態が病んでいる。
「タクシードライバー」のトラビスは一種、英雄としての己を確立できたが、殆ど多くの若者は「兵士の故郷」の若者のように暗愚に生きる事を強いられる。
だからこそ、「タクシードライバー」は「戦士の故郷」の続編なのである。

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その中の「特異点」の問題だが、その解決法を簡単に云うのなら、新しい言語の開発の必要性以外無いのでは無いかと思うところがある。
その際、犠牲になるのはこれまでの数学であろう。
言語というのはある事実、ある事態を語る以上の事は出来ない。
それは例えば、我々が未知の事柄を説明するのに一体どのようにして語ろうか?
恐らく「~のようなもの」と、これまでの事象と近似の言葉を探し出しそれを当てはめる。
これは数学も同じである。
ただ数学の場合、神話のような教示性が無いぶん、方法としては的確だったのかもしれない。
だがしかし、「無」という事態に直面したとき、数学は象徴以上の働きをし得ない。 それを考えると、やはり新たな言語体系を打ち立てる必要がある事になる。
だがしかし、言語というそのものが「事実」の裏付けを必要とする以上、あまりに困難な作業となる事は確かであろう。
また仮に、新しい言語を創造出来たとしても、「事態」の裏付けの無い言語は誰も理解し得ない。
きっとデタラメにしか聞こえないはずだ。

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タクシードライバー予告
たまたまCSのチャンネルを合わせていたためだが、19歳のときに深夜帯の映画枠でそれを観ていたときとはまた違った感覚を覚えた。
トラビスは「負け組」である。元々そういった言葉の用い方は我々世代多くに顕著に、重くのし掛かってくるのだが、時代と主人公トラビスの云いようもない激しい感情は今でこそ理解できる。

軽薄さは罪である。
そしてその罪に自責の念を感じない者こそ、地上の楽園を謳歌出来る。
だがトラビスは罪人ではない。だから地獄にいるのである。

銃を構えて呟くトラビスはハードボイルドでも何でもない。
ただ只管、己を表現しきれない、言うなれば楽器を弾けないギタリストなのである。
この時期、こんな時に再びこの作品に触れる事にシンクロニシティー(※2)を感じる。
トラビスはニンマリと最後を締めくくったが。
※1:「タクシードライバー」レビュー→参照
※2:この映画の公開年月を知って戦慄する。
米:1976年2月8日
日:1976年9月18日
日本公開は私の産まれる丁度一ヶ月前である。
トラビスは私にとっての天使ガブリエルか?(「God's Amy」のような)
「終末は近い、悔い改めよ」と仰る、そしてそれに動かされる事の低俗さは恥じるべきである。
またそれは「切欠」になるとかという論調も下らない。
何故なら、「悔い改める」機会というのは、常に何かしら用意されているからだ。
ときに2012年に何かが起きるとして、我々はどうなるのだろうか?
人が多少減ろうが増えようが、若しくは繁栄しようが絶滅しようが、そこに確実に云えるのは、そういった「事実」が起こり得るという事である。
仮にこの年を機会に、人類が上部構造にシフトしたとしても、人という存在がいる限り、そこには「社会」が存する事になる。
結局、それはそれで今と何も変わらないのでは無かろうか。
何というか、終末予言などというものは、ある種の予定という事実というもので、それを受け入れる人の資質を明らかにするだけのものだろうと考える。
それに一喜一憂するのは、結局は自位本意の過剰な期待としか云いようがない。
著作に触れて感じ、時には喜怒哀楽の表情を浮かべるそれというのは、まさに同一化の傾向である。
だが「代弁」となるためには文学の「入力」の事柄でなく、「出力」が重要となる。
例えば、日常において極まった感性を表すのに相応しい言葉が見つからないとき、文学における文字列が役に立つ事がある。
しかしながら、それを用いるのにも制約がある。
その制約とは「理解」であるわけだが、これがなければ、草原の穴ぐらいに住むウサギを象と云い間違える程奇妙な用法に資する。
さて「文学」な訳だが、「代弁」に関する制約はそれだけに尽きない。
もう一つは行間を読む事である。
そしてその行間とは、経験の度合いによっても変化する。
つまり、このような事柄が相まって、初めて、「代弁」としての存在足り得るのではと思う。
思わず本人かと見間違える程、同じような造詣の娘だった。
苗字こそ違っていたが、聴いた名前も同じだったので、もしやと思い、漢字の名前を調べるとやはり違った。
思えば、その昔の女友達とは私が見限った数少ない人間の一人である。
見限った理由というのはその淫乱さによる。
勿論、そのそっくりな娘というのが見限るに足る人物かどうかは全く分からないし、またそれを確かめる機会というのは無いであろう。
つまり、他人のそら似である。
大学時代に、どういうわけか個を特定できない後輩の娘が居た事を思い出す。
その娘は決して容姿が平凡だった訳ではない(寧ろ非凡だったと思う)のだが、こういう事柄はあるときに起こる事がある。
これもシンクロニシティーではないかと思う。
残念ながら最終回だったが、それに出てきたデスメタルの帝王だかの設定が本当にありそうで笑えた。
原作者のメタル愛の良く伝わってくる作品である。
しかしながら、デスメタルというのがある種、日本においてはギャグ路線と繋がってしまうところというのは何故であろうか。
一重に、「悪魔崇拝」といった二元論の一翼といった価値観を持たないせいであるからだと思う。
ちなみに「悪魔崇拝」に関するもので、以下の引用がある。
”インディアンたちはすべてみな、悪霊の力が自分に対して力を振るっていることをはっきりと確信している。
多くの場合、善もかすかに姿を現す。が、悪霊を恐れるほどには、善霊を敬わない。
おそらく、かれらは人間の運命については、《邪悪なる存在》よりも《善良なる存在》の方を弱いものと見なしていると考えて差し支えなかろう。”
(ポール・ケーラス『悪魔の歴史』 p15、上段l19~下段l6)
これを読んで思うのは、「これはつまり、『自然崇拝』なのではなかろうか?」という事である。
つまり、神道的立場を抱く我々にとっては、「悪魔崇拝」は「自然崇拝」の一部であるという事である。
しかしながら、我々の持つ宗教文化の中には、決して二元論が含まれて居ないという訳ではない。
例えば多くの神社をみるに、そこには「自然神」と「人格神」が並奉されている事が分かる。
典型例は「ウケモチ」と「豊受姫神」である。
そして、ここから云えるのは、神道の呪術的な理論があるという事である。
さて、デスメタルのギャグ路線化を考えてみる。
勿論、このジョークが日本だけでないものであろう事は考えに難くない。
しかしながら、先の立場で考えてみれば、こういった試みというのは「本当に力のある」者に対する一種の呪術的な反応にも見えなくない。
それは私の思う人物は、やはり思う通りの人物である事と、そして魔術戦とも云える生存闘争に生き残る方法である。
現実、日本はもはや外堀は埋められている。
日本人の姿をしながら、さながら外国人のような人間も増えた。
この事に悲しむべきは、同じく系統を共にする一族であっても、案外、それらに供している事にある。
幸いにも私の場合、死しても尚奔走されているであろう母方の祖父の影響があってか、氣がつく事があった。
因みに、私のような体感というのは、自然の系統的派生なのである。
少なくとも、一人一人の顔が輝き始める。
驚くべき事に、それは身近な人々のそれに起こっていた。
さて日本防衛、民族防衛の話だが、日本という国は「守り」の戦いには専ら強い。というのも、霊統の守護が働くためであろうか、やはり「神風」なのである。
そしてこれは殊、魔術戦において信じても良いと何と為しに思う。
それは「Einstein」の部分であるが、原義を辿れば、これはまさに「アルバートは思考する一つの石」であると意味付けしたかのようである。

アルバート・アインシュタイン
(Albert Einstein 、1879年3月14日 - 1955年4月18日)
さて、ここに一つの石(岩)がある。

これに至ったのは先月、井川ダム方面からの帰路であったが、これを見た途端、龍神(もしくは蛇神)を想像したのである(他角度「故人が教えてくれるもの」参照)。
ちなみに石(岩)について、シュタイナーの著作に興味深い叙述がある。
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私たちの肉体が、エーテル体とアストラル体と自我を自分の中に持っているように、今日の鉱物もまた、物質体だけでなく、エーテル体とアストラル体と自我を自分の中に持っています。
ただ、鉱物存在のこれら高次の諸部分は、高次の世界に存在し…いわゆるアストラル界に…エーテル体…デヴァハン界(神界)もしくは天上界の中に…アストラル体、それよりさらに高次の霊界の中に…自我を持っています。
人体と鉱物(シュタイナー「ヨハネ福音書講義」p27 l12 より)
※・・・はO∴EL
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これを読んで、即想起したのは「神迎え」についてである。
神道では、天上の神をお迎えするのにこの石(岩)との関係は切っても切り離せない関係である事に氣がつく(参照「磐座」。ちなみにこんな興味深いサイトも→”岩石写真集「磐座・巨石」”)。
また同時に、この石(岩)そのものが今ある神社の本体であり、御神体である事を鑑みるに、太古の宮司、祭司のなんとも霊験の高さにも氣がつかされる。
それを物語るのが次のエピソードである。
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北九州市門司区奥田に大山祀(おおやまつみ)神社がある。
(知り合いになったそこの宮司によると)…この神社は、戦後もしばらくまでは岩座(いわくら)だけの神社であって、そこには神木が鬱蒼と茂っていたが、そのうちに神木は伐られ、手前の台地に社殿が建立されたという。
話を聞くうちに、古い神社であることが知られたので、私は早速調査に入った。
その時の霊夢に、裏山に竹薮があり、その傍らに岩座が見え、そこに丸い光の玉が太陽のごとく燦然と輝くのを見たのである。
私は早速その山に登ることにした。そして案の定、茫々と茂った下草の中に岩座を発見したのである。
どこから運んできたのかは知らぬが、いくつもの岩が環状列石のごとく置かれ、その中央にはかなり大きな岩が、根元を深く地中に埋めて立っていたのだった。
それを告げると、宮司はあたりの下草を刈ることにした。
何人か人手を集めて草を刈ってゆくと、岩座の姿ははっきりとしてきた。
時刻は夕方、日は西の山に没し始めていた。
その時、宮司は、傾いた陽が梢の間を通って、岩座に直射し、その姿を明か明かと照らすのを見たのである。
そのありさまに、信心深い宮司は、その場にへなへなと座り込んだ。
「もったいないことでございます。ありがたいことでございます。
まことに、何も知らなかったこの愚かしき宮司をお赦しくださいませ。」
宮司は古代の信仰の神々しい光景に立ち返った思いがしたというのである。
さらに宮司は、あらためて日を占い定め、神迎えの祭りを執行した。
その日は曇天であった。
空には雲が垂れ込め、岩座の地は薄闇のごとくだった。
ところが、降神の儀が執り行われ、警篳(けいひつ:神霊を招くために息を吐いてオーと声を出すこと)をかけた時である。
まさに一天にわかに晴れて、雲間より直射される太陽の光が、スポットライトのようにその岩座を照らし出したというのである。
電話でそのことを報告してくる宮司の声は震えていた。
「先生、ほんとうに畏れ多いことでございます。
本当にここは朝日の直射(たださ)し夕日の直照(ただて)る処でした。
その昔、われわれの祖先たちが、このような処に神を迎えて祭られたのかと思いますと、本当にありがたいことだと思います。」
この大山祀神社の岩座のように、朝日・夕日が直射する岩座を持つ神社は、歴史の古い神社である。
奈良の大三輪山の頂上にも、そのような岩座があるのである。
山蔭基央「神道の神秘」(第二章「神社とは何か」 ”岩座の神秘”より p36~39 l9)
※()と・・・はO∴EL
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ともあれ、今回は石(岩)考であった。
またこれを通して思うのは、鉱物(植物もふくめ)を用いて鋳造ったさまざまな道具も、神の姿似であるという事である。
疎かには出来ないのである。
最後に余談だが、昔、友人のある天才ギタリストにどうして名器ばかり集まってくるのか、歓心したことがある。
これはつまり、そういうことなのだと思う。
また私が、偶然にも従兄弟が作ったエンジンのバイクに跨っているのも、つまりそういうことなのかもしれない。

龍とバイク