~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

若者の死

2010年08月06日 | sub-culture

ふと思ったんだが、デニーロの「タクシードライバー」がヘミングウェイの「兵士の故郷」の続編であるとしたら、どうであろうか?
それは第一次世界大戦ベトナム戦争では時代的に隔たりがあるが、若者の若者自身の存在意義如何を問う意味においては全くかけ離れた題材では無いと感じるからである。

ときに、前野光保なる人物を思い出す。



この若者は1976年(昭和51年)3月23日、児玉誉士夫邸に自ら小型セスナを繰り、特攻をかけるという事件を起こした(児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件)。
折しも、先の「タクシードライバー」公開(米にて)一ヶ月強後の事件でもある(奇妙なシンクロにも思える)。

勿論、このような馬鹿げた事件、と思うのが通常の体であろうが、この若者を繰り出した時代的雰囲気というのには大きな責任がある、と私は受け取る。
恐らく、この若者の内的体験は「幾田万世に及んだ」と感じるからである。

珍妙な事件というのはそもそも風化してゆくのが早い。
最近でも、自民・福田康夫総理の時期、ある有能な自衛官が国会議事堂前で割腹自殺を図っているが、結局、それも凡夫にとっては一種の流行病にすら感じられないものであろうと想像する。

しかし、「こいつらは馬鹿」だと仰る方々にどれだけ想像力があるか、正直私は疑ってやまない。
またそういう彼らが「正義」感を持ち、そしてどれだけそれの行動に従って生きているか、というのも怪しい。
いや、逆に「正義感」というような病氣においやる状況というのは、その状況事態が病んでいる。

タクシードライバー」のトラビスは一種、英雄としての己を確立できたが、殆ど多くの若者は「兵士の故郷」の若者のように暗愚に生きる事を強いられる。
だからこそ、「タクシードライバー」は「戦士の故郷」の続編なのである。