○『最後の竜に捧げる歌』全二巻(原作:手塚一郎 JICC出版局/コミック版 作:外薗昌也 宝島COMICS)(※1)という作品をご存知だろうか?
これは私の世代の人間なら読んだ人もいるかもしれない。剣と魔法、そしてその背景に生きる人々と竜との関係について語り、更には私達文明人に対してもメッセージを投げかける、壮大なファンタジー作品である。
ときに私は、この作品をコミック版しかコンプリートしていなかったのだが、今になってこのテーマに関してよく思う事が多くなった。一つは竜である。
○思うに、私は幼い頃から竜が大変好きだった。またそれは、この作品に描かれてあるような西洋のトカゲ竜でなく、水墨画などに描かれているような胴長の神竜であった。
また竜は、幼き時の私にとっては、あらゆるイマジネーションのモチーフでもあったし、別に宗教ではないが、最強の神でもあった。事実、私の実家においてある過去の絵などのモチーフに竜は出てくるし、また発想においても「日本列島は竜の形をしている。だから竜がここに眠っている」というような、後に驚くようなシンクロニシティ(※2)もあったりする。
他にも、私の地元に恐竜博物館があったのだが、幼き頃にそこに行き浸りだったのも、ある意味では竜への飽くなき憧れからだったのかもしれない。
○因みに、竜は、神道的には幽界の住人であり、自然霊であるという。またそのために人間界に強く影響を与え得る(その逆も当然あるだろう)存在であるらいしい。
余談だが、私の地元でも「水神さん」(清水富士見町:水神社)という神様が祀られているが、この神もその自然神であるのかもしれない。また興味深い事に、この神様のお祭りの時は決まって雨が降った。きっと水神さんが喜んでいるのだろう。
○ときに、竜のエピソードとして大変感慨深いエピソードがあるので、それを紹介しておく。
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・・・十九歳の夏のことだった。私は香川県高松市の摺鉢山不動院というところで、真言密教の法を学んでいた。そこには「白滝不動」と呼ばれる滝行場があり、「白滝龍王」が棲んでいると言われていた。
ある晩、深夜の滝行も終わり、白衣を着込んで参籠堂に座し、不動真言をず唱していると、突然、何かに乗り憑られる感じに打たれ、あれよあれよという間に深い世界に引きずり込まれてしまった。
ぼおっと展開する景色は、あたかも雲海の中に座っているようだった。
やがて灰色の肌にベージュの鱗をした巨龍が見えてきた。その白龍は私をじっと睨んでいる。息も止まらんばかりの驚きに、私の身はすくみ、ただじっとしているばかりであった。
しばらくすると白龍は、
「我はこの滝の龍王である。汝の来る日を待つこと久し、まさに前世以来の宿縁である。これを見るがよい。汝の今生は五回目の再誕である。これから見せるものは、汝が四回目の生涯である」
と語った。
それは、「秋葉小三郎義重」という名の武士で、南北朝相克の時代に、北畠顕家に味方して、足利尊氏討伐に力を注ぎ、歴史的大激戦であった「阿倍野の戦」(一三三八年)に大功をたてたが、総大将顕家の戦死とともに敗れて負傷し、泉佐野のあたりから犬鳴山を越えて紀州粉河寺に逃げ延びようとして、犬鳴山中に息絶えたという生涯であった・・・。
『神道の神秘~古神道の思想と行法~』(著:山陰基央/春秋社)
140項1行~141項4行
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さてこのソースを見て、私自身思うのは、この竜という生き物がどれほど人の営みに関して関心を示してきたかにある。勿論、竜も含めて、高級な神霊になればなるほど、穢れを嫌う訳であるが、それでも人に自然の恵みを与え続けているのは感謝するに仕切れないものであろう。
○だが逆に、私たちはそれに関してどれほどの関心を持っているだろうか?
ここで「最後の竜に捧げる歌Ⅱ」を要約し、引用してみる。
”魔法世界の終焉を予感した竜達は、世界の次なる担い手として、人に希望を託し、仲間達と世界樹に乗って宇宙に飛び立つ。だが全ての竜が宇宙に飛び立ったのではなかった…。
ある竜がいた。その竜は、魔法力の衰退により荒廃したある町を見た。竜は、そこで苦しみ生き長らえる民を、哀れに思った。そのため竜は、己を犠牲にして町の地下に住み、魔法力を与えた。そのお陰で、再び民達の暮らしも豊かになった。
だがしばらくして、竜は疑問を感じるようになった。それは、民達の心や行いが日に日に悪くなって行くように見えたからである。竜は、その事を大変悲しく思ったが、民達を棄てて、仲間の下に飛んで行く決心もつかなかった。その間、彼の体は、民達の節操もない魔法力の連発にどんどん衰えていった。”
(コミック「最後の竜に捧げる歌Ⅱ」より)
因みに、この竜が住まう町は、その名を「真実の町」という。なんと象徴的な名前ではないだろうか。
思うに、真実の町の地下に住まう竜は、自然そのものである。そしてそれを糧にして生活する民というのは、私達をそのまま表したものである。
だがそれも、人の心や行いが歪んで、節操も無く喰らい尽くせば、竜は穢れてしまうばかりである。これは今の私達の行いを表していよう。
○ときに、最近ではよく「自然を大切に」とか「エコライフ」という言葉を耳にする事がある。だが、これはある人が言っていたが、自然に対して余りにも傲慢な言い方ではないだろうか。
人間というのは極めて近視的な生き物である。更に、崇高なる志を持ったものでも、己の思う形にあこがれて、結局我を失う事は多々ある。またそれが落後者となって、竜を穢してゆく事もある。そしてその集合体というものが、ある意味国家や企業などというものになろう。
またこれは、私達のような一般人にとって深刻な問題である。世界規模の問題は、決して私達一般人にだけに押しつけられるものではないのだ。結局のところ、こういったものの指導層が改心する事、またはその志のあるものがリーダーシップをとるようになる事が、一番の問題解決の近道であるような気がする。
○とまあ、今回もテーマを大きく書いた訳だが、最後に自然の畏怖というものを感じるに、興味深い記事を紹介しておこう。
『チベット上空に竜?』【大紀元日本8月16日】(中国語版又は英語版はこちら)
ここには見事な竜の姿が写し出されている(写真1、2)。勿論、これはたまたま雲がそのような形に見えたとか、または画像ツールなどによる装飾かもしれない。
だがこれに興味を覚えたのは、私にとってタイミングが良かったというのもある。それに関しては、今後機会があれば書いてゆこうと思うが、ともかく、私の竜への憧れは、今となっても尽きないものである。
※1:この作品は小説、漫画とメディアミックス的展開を見せていた。
※2:私の感性に近い方の記事を見つけた→参照。