~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

最後の竜に捧げる歌

2005年11月29日 | sub-culture

○『最後の竜に捧げる歌』全二巻(原作手塚一郎 JICC出版局/コミック版 作:外薗昌也 宝島COMICS)(※1)という作品をご存知だろうか?

これは私の世代の人間なら読んだ人もいるかもしれない。剣と魔法、そしてその背景に生きる人々と竜との関係について語り、更には私達文明人に対してもメッセージを投げかける、壮大なファンタジー作品である。

ときに私は、この作品をコミック版しかコンプリートしていなかったのだが、今になってこのテーマに関してよく思う事が多くなった。一つはである。

○思うに、私は幼い頃から竜が大変好きだった。またそれは、この作品に描かれてあるような西洋のトカゲ竜でなく、水墨画などに描かれているような胴長の神竜であった。

また竜は、幼き時の私にとっては、あらゆるイマジネーションのモチーフでもあったし、別に宗教ではないが、最強の神でもあった。事実、私の実家においてある過去の絵などのモチーフに竜は出てくるし、また発想においても「日本列島は竜の形をしている。だから竜がここに眠っている」というような、後に驚くようなシンクロニシティ(※2)もあったりする。

他にも、私の地元に恐竜博物館があったのだが、幼き頃にそこに行き浸りだったのも、ある意味では竜への飽くなき憧れからだったのかもしれない。

○因みに、竜は、神道的には幽界の住人であり、自然霊であるという。またそのために人間界に強く影響を与え得る(その逆も当然あるだろう)存在であるらいしい。

余談だが、私の地元でも水神さん」(清水富士見町:水神社)という神様が祀られているが、この神もその自然神であるのかもしれない。また興味深い事に、この神様のお祭りの時は決まって雨が降った。きっと水神さんが喜んでいるのだろう。

○ときに、竜のエピソードとして大変感慨深いエピソードがあるので、それを紹介しておく。

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・・・十九歳の夏のことだった。私は香川県高松市の摺鉢山不動院というところで、真言密教の法を学んでいた。そこには「白滝不動」と呼ばれる滝行場があり、「白滝龍王」が棲んでいると言われていた。

ある晩、深夜の滝行も終わり、白衣を着込んで参籠堂に座し、不動真言をず唱していると、突然、何かに乗り憑られる感じに打たれ、あれよあれよという間に深い世界に引きずり込まれてしまった。

ぼおっと展開する景色は、あたかも雲海の中に座っているようだった。

やがて灰色の肌にベージュの鱗をした巨龍が見えてきた。その白龍は私をじっと睨んでいる。息も止まらんばかりの驚きに、私の身はすくみ、ただじっとしているばかりであった。

しばらくすると白龍は、

「我はこの滝の龍王である。汝の来る日を待つこと久し、まさに前世以来の宿縁である。これを見るがよい。汝の今生は五回目の再誕である。これから見せるものは、汝が四回目の生涯である」

と語った。

それは、「秋葉小三郎義重」という名の武士で、南北朝相克の時代に、北畠顕家に味方して、足利尊氏討伐に力を注ぎ、歴史的大激戦であった「阿倍野の戦」(一三三八年)に大功をたてたが、総大将顕家の戦死とともに敗れて負傷し、泉佐野のあたりから犬鳴山を越えて紀州粉河寺に逃げ延びようとして、犬鳴山中に息絶えたという生涯であった・・・。

『神道の神秘~古神道の思想と行法~』(著:山陰基央/春秋社)
140項1行~141項4行


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さてこのソースを見て、私自身思うのは、この竜という生き物がどれほど人の営みに関して関心を示してきたかにある。勿論、竜も含めて、高級な神霊になればなるほど、穢れを嫌う訳であるが、それでも人に自然の恵みを与え続けているのは感謝するに仕切れないものであろう。

○だが逆に、私たちはそれに関してどれほどの関心を持っているだろうか?
ここで「最後の竜に捧げる歌Ⅱ」を要約し、引用してみる。

”魔法世界の終焉を予感した竜達は、世界の次なる担い手として、人に希望を託し、仲間達と世界樹に乗って宇宙に飛び立つ。だが全ての竜が宇宙に飛び立ったのではなかった…。

ある竜がいた。その竜は、魔法力の衰退により荒廃したある町を見た。竜は、そこで苦しみ生き長らえる民を、哀れに思った。そのため竜は、己を犠牲にして町の地下に住み、魔法力を与えた。そのお陰で、再び民達の暮らしも豊かになった。

だがしばらくして、竜は疑問を感じるようになった。それは、民達の心や行いが日に日に悪くなって行くように見えたからである。竜は、その事を大変悲しく思ったが、民達を棄てて、仲間の下に飛んで行く決心もつかなかった。その間、彼の体は、民達の節操もない魔法力の連発にどんどん衰えていった。”

(コミック「最後の竜に捧げる歌Ⅱ」より)

因みに、この竜が住まう町は、その名を「真実の町」という。なんと象徴的な名前ではないだろうか。

思うに、真実の町の地下に住まう竜は、自然そのものである。そしてそれを糧にして生活する民というのは、私達をそのまま表したものである。

だがそれも、人の心や行いが歪んで、節操も無く喰らい尽くせば、竜は穢れてしまうばかりである。これは今の私達の行いを表していよう。

○ときに、最近ではよく「自然を大切に」とか「エコライフ」という言葉を耳にする事がある。だが、これはある人が言っていたが、自然に対して余りにも傲慢な言い方ではないだろうか。

人間というのは極めて近視的な生き物である。更に、崇高なる志を持ったものでも、己の思う形にあこがれて、結局我を失う事は多々ある。またそれが落後者となって、竜を穢してゆく事もある。そしてその集合体というものが、ある意味国家や企業などというものになろう。

またこれは、私達のような一般人にとって深刻な問題である。世界規模の問題は、決して私達一般人にだけに押しつけられるものではないのだ。結局のところ、こういったものの指導層が改心する事、またはその志のあるものがリーダーシップをとるようになる事が、一番の問題解決の近道であるような気がする。

○とまあ、今回もテーマを大きく書いた訳だが、最後に自然の畏怖というものを感じるに、興味深い記事を紹介しておこう。

チベット上空に竜?』【大紀元日本8月16日】(中国語版又は英語版はこちら)

ここには見事な竜の姿が写し出されている(写真)。勿論、これはたまたま雲がそのような形に見えたとか、または画像ツールなどによる装飾かもしれない。

だがこれに興味を覚えたのは、私にとってタイミングが良かったというのもある。それに関しては、今後機会があれば書いてゆこうと思うが、ともかく、私の竜への憧れは、今となっても尽きないものである。


※1:この作品は小説、漫画とメディアミックス的展開を見せていた。
※2:私の感性に近い方の記事を見つけた→参照


イエスマン

2005年11月28日 | society

ローマ皇帝
ティベリウス・カエサル陛下


高貴なる元首にご挨拶送ります。

……本官の耳に入るさまざまの風評のなか、格別に本官の関心を惹起するものがありました。ガリラヤに、神より遣わされたと称し、新たなる律法を説く聖油を塗った若者のことであります。当初、本官は、その若者の説くところはローマ人に対して人民を撹乱するものと不穏を覚えましたが、やがてそれは杞憂に終わりました。ナザレのイエスは、ユダヤ人よりもローマの友として語っております。

過日、シロエを通過しましたところ、一大群集が群がり、その中央に樹木によりかかり、多数の聴衆に物静かに語りかける若者を目撃しましたところ、それがイエスであるとのことでした。その若者と彼の話に聴き入る群集の間には、あまりにも大いなる差違があることに疑いを禁じえませんでした。金色の髪と髭をたくわえたその若者は、神を思わせる風貌でありました。

年の頃は三十代ぐらいでありましょうか。本官はこれほど甘美、あるいは静謐(せいひつ)温和な容貌を絶えて見たことがありません。彼と比べるに、黒い髭と黄褐色の顔色をした聴衆とは、あまりに好対照だったのであります。

……イエスがとくところに比肩しうる言説は、本官が読んだ哲学者たちの著作にはまったく見たことがありません。エルサレムに数多くいる不穏なるユダヤ人の一人がイエスに、カエサルに讃辞を贈ることはイエスが説く法に適っているかと問いましたところ、彼は「カエサルに属するものはカエサルに返せ、神のものは神に返せ」と答えました。

……本官はイエスに公邸において会見したき旨、書面で申し入れました。ご存知のとおり本官の血にはローマ人の血が混じっているスペイン人の血が流れております-軟弱な感情はもとより恐怖というものを持ち合わせておりません。が、そのナザレ人の姿が目に入った際、本官はバシリカを歩いておりましたが、足は鉄の手で捕まれたるごとく重く、あたかも犯罪人のごとく四肢が痙攣いたしました。ナザレ人は、まったく何事も気づかぬようでありましたが。

彼が私のすぐ近くまで来て立ち止まった際、彼はひと言も発しませんでしたが、無言のうちに「私はここにいる」と挨拶を送っているようでした。暫時、本官はこの驚くべき人物-すべての神や英雄たちに形態や姿態を与えたあまたの画家たちといえども出会ったことのない人物-を尊敬と畏敬の念をもって凝視いたしました。

「イエスよ」と、やっと本官は口を開きました。「ナザレのイエスよ、過ぎにし三年、本官は、あなたに語るがままに語らせてきたが、そのことを遺憾には思わぬ。あなたの言葉は聖人の言葉である。あなたがソクラテスやプラトンを読んだことがあるかどうかは知らぬが、このことだけは確実である。あなたの説くところには、かの哲学者たちをはるかに超える偉大なる簡潔さに満ちている」

……「あなたの血は流せない!」と、なんとも言えぬ深い思いに衝き動かされて本官は申しました。「ローマ人が許した自由を乱用する不逞不遜なすべてのパリサイ派よりも、あなたの智慧ははるかに貴重であると、本官は考える。パリサイ派はカエサルに対する陰謀をめぐらし、カエサルは専王であってパリサイ派を滅ぼそうとしているなどの虚妄を言いふらし、カエサルの寛大さを恐怖に変えた。傲慢な卑劣漢どもめ!彼らは、テベレ川の狼はしばしば羊の皮を身にまとってだまし討ちにすることに気がつかない。本官はあなたを彼らから保護しよう。本官の公邸を、昼も夜も聖なる避難所に提供しよう」

イエスは気のない様子で首を左右に振りました……。


陛下の忠実なる僕
      ポンティウス・ピラト

『ユダヤのすべて』(著:ユダヤ問題研究会/日本文芸社)
79項下三段「キリストに会ったピラトの報告書」より83項下三段五行まで

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世の中には、常人では理解出来ないものが多々ある。その一つとして聖人があるが、以前にも同じような趣旨で「シーザーを理解するのにシーザーになる必要はない」について書いた。

因みに、上の公文書からのソースと思しきものを観るに、聖人の片端を理解するのは、賢明な人なら可能である事が分かる。しかもこのソースからは、我々が思いもよらない「金髪碧眼の若者」も知る事が出来る。

つまり、人は意思して資料を集め思いを巡らせれば、不思議な事に自然に分かってくるものがある。またそれには己の良心に従う事が必須だと思う。そしてそうすれば、自ずと現在起きている事件、事象について、インスピレーションを感じることも出来よう。

ときに悲惨な事件、箱詰めの小学生の事件に思いを巡らせるに、これには感情がないように思える。巷では、変質者の犯行と、その趣を傾けてはいるが、真意の程よく分からない。だがこんな無感情な、しかもある種見せつけにも思える出来事は、果たして変質者に出来ようか?甚だ疑問である。

例えば、子供を神であるとしよう。今回の事件は、神を綿密な計画のもと、多少の時間をかけ、実行に当たっては一瞬のうちに、更にはその遺骸を最も悲劇的な演出によって皆に見せることにしたようにも思える。そしてこのように見るに、これにはどんな意味があるのか。誰か教えてもらいたい。

最後に、今の日本の社会というのは、善意の社会ではなくなった事を憂いずにいられない。一体いつから、こんな悪意に塗れた社会になっていったのであろうか。また広島が、あの時から大いなる穢れの実験場に選ばれたのだろうか。


今頃の大学4年生へ

2005年11月22日 | diary

○今の時期、大学の4階生ともなると、既に自分のこれからの進路について決まっている者、または未だ躍起になっている者、更にはもはやあきらめている者など、さまざまにいると思う。

しかしながら、大学には”卒業”という最後の試練がある。中にはこの最後の試練に、実に何ともいえない感じを抱いている者も多いのではないだろうか。

勿論、卒業に当たっては、決められた単位数を採ったものが許される。その点、どんなに地味でつまらない大学生活を送った者でも、日本の場合は、まじめに大学に通っていさえすれば卒業できるようになっている。多くの者はそのようになっている。

だが中には、ちょっと元気が良すぎて、この時期に非常に不安な気持ちになっている者達も、結構多いのではなかろうか。実は私もそうだった。

○私は大学4階生の時、取得残り単位が44もあった。とくに語学は英語2つに第2外国語1つと残っており、更には出席日数という無意味な制度が私を縛っていた。

そしてある時、2つある英語のうち、その1つの担当教員、また独語の担当教員から呼び出された。2人とも、それぞれ、

「あなた、ちょっと出席日数が足りないわよ。このままじゃ後期テストが相当できても単位落とすかもよ」

と私に告げた。私はその時、腰からスウッと力が抜けて行くのを感じた。またそれに対して何も言う事が出来ず、バツの悪そうな表情をするのがやっとだった。

○後期テスト、英語はそんなにレベルが高くは無いので、難なくこなす事は出来た。ただ独語は・・・。

独語のテストの後、私は必死の形相で担当教員に詰め寄った。だが彼女からは冷たい言葉だけが返ってくるばかりだった

思うに、独語に関しては私が悪かった。いくら出席日数という下らない制度を受け入れるかどうか問うても、テストが出来なければクズである。半ば自分の愚かさから何の罪も無い担当教員を恨んだりもした。やはり自分はクズである。

その後、私の心はずっと不安定なままだった。卒業出来ない自分を想像してみては、漠然とした気持ちになった(今でもそんな悪夢を見る事がある)。

そして運命の日、手元に単位を記した証書が渡された。結果は・・・

無事、卒業単位を取得

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このように私は危うげながら無事に卒業出来た訳だが、中にはもっと悲惨な結果で卒業した者もいると思う。事実、私の当時の学友のうち一人は、「自分は内定と採ったから卒業は確定だろう」と、愚かにも刑法のテストを受けず、結果ゼミの担当教授に泣き入ってから卒業した者もいた(多分、9月卒業か?)。

まあとにかく、大学の卒業にはそれぞれドラマがあったりする。ときに、これで映像を撮ってみるというのも結構面白いのではないかとも思う。

○最後に、当時の私のような状況に置かれている学生に対して、簡単に卒業までのアドバイスを書いておく。

その一:出席日数で駄目だと言われたとき
・・・これを告げられても、とりあえずその理由を説明する(冷たくされるのが目に見えているが)。
また、絶対にテストは受けること

※また音楽家など、試験と仕事が重なるような場合は、直ちに学校に連絡する事。正当な理由になり得るので、別日試験も考えられる。それと、その証明を学校側に提示しなければならない場合、仕事先に証書を書いてもらうなどの対応も必要。

その二:内定やその他自分の進路が決まっている場合
・・・これはすぐさま恩師や就職課に報告する事。これで卒業の確立があがる。またこれと合わせて、”その一”の状況を話せば、尚良い。

その三:あきらめない事、その他
・・・やはり卒業を諦めた奴は卒業出来かったりする(役者志望の学友がそうだった。彼女は9月卒業。)。あと不安でも、裏技(賄賂)は考えない方が、寧ろその方が潔くて良い

とまあ、この三要素と、後は己の培ってきた知恵と勇気、そしてコネクションを発揮すれば、この最後の試験はパスする事が出来ると思う。
因みに、これが大学時代最高の思い出になったりするとも思う(笑)。


「アゴにケツ」から「落後者」へ

2005年11月19日 | sub-culture

本間氏の『ボロ市』でアゴの話に触発されて、氏の愛情表現のそれとは全く趣旨自体が異なるが、書こうと思う。

○中学の頃、テーブルトーク・プレイングゲーム(以下TRPG)というものがささやかに流行っていて、私もそれをプレイする事が多々あった。因みに、このゲーム、今ではTVゲームで主流のRPGのオリジナルである。プレイヤーはゲームブックのルールに従い、ゲームマスター(云わばシナリオを創る人)の口頭で進めるストーリーに、ダイス(サイコロのこと)を用いてプレイするというものである。

そしてそのゲームをプレイするのに、自分の用いるキャラクターの能力を記入する用紙があるのだが、そこで忘れる事が出来ない事柄があった。その用紙にはキャラクターの用紙を描く事の出来る欄があるのだが、私は私の思う戦士の姿を描いて見せた。

○ときに、このキャラクターの用紙というのは、ゲームマスター含め、他のプレイヤーとのイメージの共有のために、別にルールにあるわけではないが、皆でお披露目することがある。そしてそこである出来事があった。

「アゴにケツ」

誰かがそう言ったのである。それは直ぐにも他のプレイヤー達にも伝染した。更には「しんえもんさん」なるあだ名もつけられた。

因みに、こう名指されたキャラクターとは私のものであった。それは私の画力の無さが祟ったのか、それとも元々私をからかう為に言ったのか分からない。だが当時の私には大変ショックだった。

というのも、当時の私には、男らしい戦士の顔というものが、彼らのいう「アゴにケツ」にあったのだ。勿論、今でもそのような風貌の人には、男女問わず、セクシーさを感じる。

○思うに、このような現象というものはどこにでも付きまとう。だが心無い他人に、これほどまでに自分の感性を貶められるというのは悲しいものである。勿論、その貶めには、当時の私の人格にも関わってくると思うが、しかし純粋に「アゴにケツ」を笑う者がいるとすれば、それは明らかにそのような特性の人間に対する嘲笑ではなかろうか。

それとも違う何かがあるのか?

○これを考えるに、興味深い小説を用いようと思う。芥川龍之介の「鼻」である。

この小説の要約としては次のようになる。

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ここには禅智内供(ぜんち・ないぐ)という高僧の話が描かれている。

この高僧は、「長さは五六寸あって上唇の上からアゴ()の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い(腸詰)のような」鼻をしていた。

また内供は職業柄、人々の関心を得る事が多かった。そのために、人々はその特徴的な鼻を、善意悪意にもなく責める事があった。内供はそのような仕打ち自体に心をやんだ。

そして内供は、鼻を短くする事でそのような仕打ちが収まる事を望んだ。だが実際、鼻が短くなってみても酷い仕打ちは収まらなかった。内供はこれを短くなった鼻のせいだと思った。

結局、彼の鼻は元の長さを戻すが、内供はこれでもはや鼻を笑うものは無いと思うわけである。

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○ときにこの話、ただの人の顔に関するコンプレックスを語ったものではない。確信としては、何故俗人は内供を馬鹿にしたのかにある。その事を芥川は次のように指摘する。

”――人間の心には互に(矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。

所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に(陥れて見たいような気にさえなる。

そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。”

更には、

”――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない”

また内供が、「傷つけられる自尊心のために苦しんだ」とも書いている。

○これらの事を見るに、つまりこの僧は、鼻が他人よりも際立って醜いと感じたものでは無い。寧ろ、それによって馬鹿にされる事が「自尊心を傷つけられる」ことであり、それを恐れていたのだ。言うなれば、逆に馬鹿にされる事が全く無ければ、内供は悩む事は無かったとも云える。

だが現実に鼻が元に戻った後でも、内供は馬鹿にされ続けたと思える。それも芥川は暗に示している。

”「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」”

内供にはそれに答える明が無かったと書いているが、内供が醜かったのは鼻では無かったのだ。というよりも、内供は落後者となってしてしまったという事だ。

○内供は高僧である。そのため俗世から離れた崇高な存在であった事には違いないだろう。それと同時に高慢であったかもしれない。だから人々は、そんな内供を許さなかった。そのため彼の特徴的な鼻を責める事によって内供を俗に貶めたのだ。

また内供が、

”「――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。」”

と締めくくられている部分などは、真に落後者に成り下がった様をよく表していると思える。

○さてまとめとして、「アゴにケツ」から「落後者」に至った訳であるが、俗人というものは、やけに先頭に立とうとするものに冷淡な性質を持っている。勿論、そうでなければ、ある種の社会秩序が守られないという面も持っている。だが、問題なのはそれが落後者を生み出す仕組みにつながっていく場合である。

思うに、俗人のこのような面というのは、よく怪談などにある「怨念が自分とは全く関係の無い人を呪い殺す」というようなものにも近いような気がする。そう、怪談は別にオカルトではないのだ。

しかしながら、これがある種の試練なのだろうとも思う。内供も、馬鹿にされる鼻から愛される鼻になっていれば、彼は落後者にはならなかったように思える。それと同じく、私のそのキャラというのも、嘲笑される「アゴ」でなく愛される「アゴ」であれば、良かったのだ。


「別次元へのシフト」。結局、人が目指すべきはここなのだろう。


戯劇

2005年11月15日 | sub-culture

”世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。”

『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』 第一話~公安9課~より

※『攻殻機動隊』・・・原作:士郎正宗
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『バカの壁』(養老孟司著)が話題になってから、しばらく経った。この本は読んだ人、読まなかった人にとっても、何ともインパクトを感じたタイトルではなかっただろうか?

因みに、私の読んだ感想としては、大体の筋において、少なくとも、あらゆる読者のレベルを超えた著書であると思った。勿論、読む人を想定し、分かりやすく書いてある事は間違いないが、はっきり言って、誰も理解し得ないのではないだろうか。

というのも、それは人が鏡無しには自分の顔を見れないからである。そしてその鏡とは、ある意味、自分を取り巻く、他人を含めたあらゆる事態であり、又は”世の中”である。

○他人を含めたあらゆる事態とは、人が認識者である限り、人によって演じられるものであろう。そしてその事態とは、人の相克によって演じられる戯劇とも捉えられる。

そうなると、自己以外の他人等は、ある意味、自己と同じくバカの壁を築いており、そのために鏡としての輝きも曇っていると考える事も出来る。言うなれば、バカの壁を築いている人がバカの壁を読んでいるわけである。

勿論、養老孟司はそのような人々に対する啓蒙として、この本を捧げたつもりかもしれない。いや寧ろ、そういう事態にバカの壁という名前をつけ、自分のバカの壁を皆に見せる事によって、多くの人にその事態を伝えたと言った方が適当であろう。

○では人はバカの壁を超えられるか、という本質的な問題が残る。これは思うに、人がそれぞれ世の中という戯劇の中の役者である限り”No”である。因みに、この役柄は政治家、医者、弁護士、芸術家からニート、果ては浮浪者まで多岐に渡る。

またこれらの役者は、各々の役柄に従って己を演じようとする。更に、「各々人が主張する事は全て正しい」(知人の談)のである。だとすれば、やはり人がバカの壁を超える事は不可能であろう。

○しかしながら、逆にバカの壁を超える方法があるとしたらどうであろうか?

人は人である限りバカの壁を越える事が出来ない。だが人でなければバカの壁を超える事が出来る。

このロジックは、ある種のカタルシスを含んでいるとも云えよう。また太古より、涅槃を求めて精進した求道者は、全てこの領域を目指していたに違いない。

ときに、冒頭の作品の主人公は、結果的に冒頭文の考え方を捨て、上部構造へ自分をシフトする事で、己のカタルシスを得る事になる。言い換えれば、広い世界と自分を同一視する事で、世界とは距離をおいた存在として、涅槃の領域に自分を高め、新たな感覚を得たといった方が良いか。

○最後に、現代は自分を機械のように、世界の一部と限定したり、また逆に世界を自分のものにせしめようとして事態を悪化させ、それを見てあきらめようとしている。

これはまた「あきらめが人を殺す」(~HELLSING~より)のでは無く、人があきらめを生みだしているとも云える。そしてこれは不思議なくらい、多くの人に伝染している。だがら自ずと、世界は狭くなってゆく。

このような事態に逸早く気がつき、行動できる人はどれほどいるだろうか。そしてもし、これが出来るようになれば、人はもっと寄りよく自分を、または他人を活かす事になるかもしれない。


ほつまつたゑ

2005年11月13日 | society

”漢字が入って来る以前の日本には今の日本語に類する言葉が無かった。”

と、今までの私達は習ってきた。

しかしながら、近時、ホツマツタエを代表とするヲシテ文献の発見・研究によって、それが間違いであり、漢字流入以前にも今の日本語のオリジナルの存在、また日本における先史文明の存在が、ようやく明らかにされようとしている。勿論、それを決定付けるには、今後の考古学的発見が必要とされるが、ともかく、これまでの日本史にとっては革命的な出来事であるに違いない。

○だが思うに、特に日本の言語的特異性というのは、このような文献の発見以前にも、普段我々が、どのように自国の言語を扱うかによって考察出来るのではないだろうか。またそういった意味では、ヲシテ文献はそれを考える良いきっかけにもなるかもしれない。

因みに、今の日本語というのは、文書として表されるとき、五十音を基調としたひらがなと漢字によって構成される。だがそれは、中国で発明された漢字を用いていながら、中国の語法とは違った使用をしている。

勿論、これまで日本語が中国の文化的影響を受けてきた事は確かである。現在でも、四(文)字熟語など、その影響を垣間見る事が出来る。

○だが問題は、他国の言語を用いるとき、基本となる言語体系の存在でもある。

それを考えるに、和製英語という奇妙な用法がある。これは私的に云えば、日本語に等価の英単語を宛てながら、日本語を話すというものである。因みに、これを漢字(中国語)に変えると、和製中国語ということになろうか。

他にも、ハングルの例が挙げられるだろう。朝鮮半島は民衆への圧制という、悲惨な歴史的な背景があるが(詳しくは崔基鎬の著書を参照)、朝鮮語も然りである。だが、さまざまな影響を受けながらも、今日まで朝鮮語がその特異性を有しているのは、やはりオリジナルの輝きのなせる業ではないだろうか。

○ときに、ここで一つ仮定を立ててみる。それは漢字輸入前に、もし日本語のオリジナルが存在しなかったのなら、今の日本語はどのようなものになっていたかである。

答えは簡単だ。日本語は中国語の亜種になっていたに違いない。それはすなわち、北京語と広東語の違い程のものになっていただろうという事である。

だが現実はどうであろうか?我々日本人は中国語を話しているだろうか?また書いて読んだりしているだろうか?

我々日本人は、漢字も、英語も使うが、話している言語は日本語である。

○最後に、日本語のオリジナル性について語った訳であるが、これまでの日本語教育は、前日の算数の話では無いが、危うさを感じざるを得ない。因みに、余談ではあるが、教育そのものに関して、ヒトラーがそれを予言していたという("第5章:「東方が巨大な実験の場になる」──『永遠の未成年者集団』の出現"を参照)、少し恐ろしい話もあるが、ともかく無知な子供への刷り込み作業というのは、徹底して行われているようだ。

そう考えると、このヲシテ文献の発見・研究というのは、ある意味、太古の日本の神々が、日本の世直しのために与えたツールなのかもと思えたりする。


堕落の因子

2005年11月12日 | society
”現代社会にあってはこの自由が危機に瀕している事を、ベルジャーエフは指摘する…彼が恐れたのは、財産の社会化ではなく、精神の社会化…現代でも我々に素朴な宗教的帰依を促す「進歩の観念」は、あらゆる人間、あらゆる時代を、設定された一つの目標のための、一つの手段、一つの道具に変えてしまう。

実存主義松浪信三郎著(岩波新書)p90.l12~p91.l3

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○今、TVで教育についての番組が放映されているが、内容に多少の偏りを感じつつも、どちらかといえば好意的に見ている。

ときに、私が今の日本の教育について思うことは次のようなものである。

○それは確か、私が小学生の頃、算数の時間であった。教えられている内容は割り算で、そのときの事は鮮明に憶えている。

例えば、8÷4という数式がある。答えは簡単、2だ。やり方はすぐに分かった

だが私はここで、

「じゃあこれを一個のバースデー・ケーキに例えたらどうなるだろうか?」

と思ったのである。

ケーキが複数ある時、例えば8個あるのなら、それを四人で分けるのなら2個ずつだろう。しかしながら、ケーキが一つしかない場合はどうなるか?答えは8等分して切れ端を二個ずつ分配すれば良い。

○しかし、これをどう表現してよいのか分からない。そこで、普段はおとなしかった私なのだが(事実この頃の記憶は殆ど無い)、意を決してそれを教師にぶつけてみる事にした。

今思うに、私がこのような疑問を抱いたのは至極自然な事だったと思う。何故なら、少なくとも算数という分野は具体物を捉えて説明する事が多いからだ。

「じゃあ、何も無い0(ゼロ)の場合はどうなるのですか?」

私は混乱していた。そしてそこから、今教えられている割り算の式について、それ自体が間違っているのではないかと言い放った。

そして教師は困ったように答えた。

「それはちょっと先の話で、君にはまだ早い。でも君の疑問も分かるよ。」

私は「???」と思ったが、あまりこれ以上突っ込むと先生が可哀想だし、また黒板の前で恥ずかしかったので、ここで社会性を発揮し、分かったフリをして席に戻る事にした

これがきっかけかどうか分からないが、私は算数や数学が大変嫌いになった(今でも多分、勉強すると胃が痛くなると思う)。

○因みに、ここで問題なのは、算数=数学というものが、その当時の私にとっては具体物を指し示すものであった事である。具体物、それすなわち、

ここにリンゴが一個あります。ここにもリンゴがあります。全部で何個ありますか?

である。思うに、これは見事な刷り込みではないか?

大学時代、この経験をふと思い出す事があって、「2×0」はどうして「0」になるのか考えてみた事があった。次のように、答えは簡単に出た。

「2×0というのはそれ自体では完全な式ではなく、”=0”がないと完全な式にならない。つまり2かける0は、結果として0になるのではなく、”2×0=0”と捉えなければならない。」

苦節10数年、ようやく答えが出た訳である。でもその頃には、何もかも遅かった事は間違いない。これを書いている今でも愕然とする

○ここで問題なのは、義務教育システムが、このような変わり種の子供を想定していない事にもある。事実、私は常にその事に関して不満を感じてきたし、その結果、私は学校というものは友達をつくる場所だと信じて疑わない。そう、勉強は拷問なのだ。

あと余談ではあるが、私の悲劇は両親が教員である事にもいえるだろう。家に帰って全く勉強しなかったのは、そのためかもしれない。またやむにやまれず勉強しなければならない時があったが(夏休みのドリル類など。私はあれを一日で全種類やった事がある。勿論、母親に脅されてだが・・・)、それで漢字や算数を覚えたというのは、今思うと驚異である(!!)。

話を戻すと、ともかく、私の体験談からいって、今までの日本の教育は様式教育といって良いほど酷いものである。またこれに従わないものは、他の子将来時には虐待をちらつかせて脅しをかける更に、それに重責を担ったその世代の親は、まさに確信犯である。結果は、団塊の世代の子を見ればよく分かるだろう。


○最後に、皮肉を込めて、また私の体験談を書いておこうと思う。あれは小学校5、6年の頃であったろうか、新任の女の先生がクラスをまとめきれず泣き出したことがあった。私はそれに同情を感じたが、彼女の次の言葉、

「私は○○先生を尊敬している。だからそのように出来ないのが悔しい。」

が私を苛立たせた。私はこう言った。

「先生は先生。先生は先生らしくやんなきゃだめでしょう。」

今思うと、テンパっている先生に対して、非常に酷な言葉である。だがこれが、私の体験した学校の概要にも思える。そしてこれが今までの学校教育の型であり、お陰で、だんだんと私は良い子になっていった

イワンは本当に大馬鹿だ

2005年11月11日 | sub-culture

「シーザーを理解するのにシーザーになる必要は無い」

この言葉を知ったのは、押井守監督のアニメ映画『イノセンス』からである。そしてこの台詞の後には、「誰も聖人の水準で生きることは出来ない」というように続く。

そうだとすると、シーザーは誰にも理解されないということになる。勿論、普通の隣人同士も、そうする事は不可能であろう。

ではシーザーを産んだ母親はどうであろうか?

これも答えは"No"だ。それは他の聖人君子の例から観ても、聖人は凡人より産まれるが、その異能ぶりから皆、孤独に過ごすことになる。またその孤独が、彼らにとっては最上の友であり、彼らの非凡な能力を培うのに役に立つ

しかしながら、興味深い事に、凡人は、聖人を理解する能力は皆無だが、聖人を堕落させることに関しては卓越して優れている。これは最も驚くべき凡人の能力である。またその堕落者に、聖人、またはその落後者が交わった時、人間社会には大きな災いが訪れる事になる。

その最も良い例として、磔されるイエスが挙げられよう。イエスもやはり、凡人より産まれ出でし聖人である。だが彼は、責めるべきものを持たないのに磔にされた。
何故だろう?

それは彼の事を誰も理解できなかったからだ。また彼に従ったものも、結局彼を理解していたわけではない。その証拠として、誰も彼を救えなかったではないか

そしてこのイエスの磔というのは、すなわち、理解できないものに対する、最も強引で野蛮な堕落の方法である。また換言して、理解出来なければ貶めればよい、という凡人の心理が見事に表されている事例ともいえる。

更に、後のキリスト教に見られる、聖母マリアは、ある意味、聖人を完璧に堕落させるのに役立ったのかもしれない。それはイエスの母マリアが凡人だったからである。となると、シーザーの母と同様、イエスを理解できたとは思えず、また"聖母"の事例は、凡人(俗人)による、ある意味、堕落を決定的なものにしようとするものであろう。

最後に、今世の中は、自分の将来について躍起になる事こそが美徳とされているが、それよりも世界の未来について最も躍起になる事こそが真実の美徳では無いかと思う。そう考えると、このような聖人を堕落させようとし、落後者が跋扈する世の中というのは、非常に不健康である。

我々の世界の上には女神の世界がある。それはこれから創ろうと思う、私の作品のテーマの一部だが、それだからこそ、私には去勢された世界には興味が無い。


本物のコメが食いたい

2005年11月10日 | society

「コメが食いたい」

この台詞は、太古より日本人が抱いてきた憧れそのままであろう。

だが何が今の私を不満にさせるのか。それは白米と玄米の値段を比較したとき、5kgあたりその差約1000円近く玄米が高い事についてである。そしてそれは、私のように五穀菜食の食生活を始めた者にとって死活問題である。

思うに、この玄米の値段の高さは何であろうか?玄米は、完全栄養食として知られているが、健康食品ではない。何故なら、玄米とは白米として精米される、云わば原料だからだ。そうなると、この値段の差はあまりにも奇妙なものである。それは、自作パソコンを作るのに、メーカーパソコンの値段以上コストがかかるというのと殆ど変わらない。というか、そんな事はあり得ない!!!

勿論、この現象を、無理をして、市場原理を用いて説明してみる事も出来る。それはまず、玄米の店頭価格を本来コメの価格とする。そして現在、白米は玄米よりも需要が多い(寧ろ溢れかえっている)。従って、白米の値段は玄米よりも安くなりうる。

だがここで奇妙なのは、白米の精製技術、すなわちその手間に関する価値が付加されないこと。そしてまた、白米は元はあくまでも玄米であるため、白米が溢れる事は精製における玄米の消費も多いと云うことである。だから少なくとも、玄米は店頭に並ぶ時点で白米よりも値段が割れる事は、至極普通なのではないだろうか。

また仮に、直にコメを精製、販売する店舗を想定してみると、例えば玄米を白米に精製する手間は、現在のコメの販売事情では殆ど賦課されないから、店舗の売り上げを考えると、非常に非経済的であるともいえよう。

つまり店にとっては、コメは玄米で売った方が儲けが多いのだ。またこれが買い手側の立場になると、需要が多くなる事によって、玄米の価格が適正になり、その恩恵を受けれるようになりはしないか?

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ちょっと話はズレるが、コメは現在に至るまで本当に不遇の扱いを受けてきた。
その経緯としては明治時代にまで遡ることが出来る。またそれは「和食か?それとも洋食か?」論争の中、コメを棄て肉を求める風潮に対するメッセージソングにも見ることが出来る。

船津伝次平 『稲作小言』

ヤレヤレ皆様 しばらくお耳を 拝借しますよ
私と申すは ずうつと昔の そのまた昔の そのまた昔の
神代の時代に 豊葦原より 現れ出でまして
それより日本に 広まりましたる お米であります

飯にはもちろん 酒でも寿司でも 菓子でも味噌でも
お米で作れば 味はいよろしく 
紙すく糊にも 布はる糊にも 調法致して無類のものなり


とげる時分に 出たる粉糖は 牛馬の食料 肥料に要用
沢庵漬けには 最も必要 糠味噌漬けにもこれまた同様

そのまた茎わら 飢饉の食料 製紙の材料
わら・みの・むしろに 俵にカマスに 草鞋に脚半に
乞食の寝所 農家のふき草 垣・壁なんどに 添へるはもちろん
貯蓄の種もの 包んでおくなら 温気は通さず 湿気も犯さず

焚きてはその灰 種種に必要
腐敗しますりゃ 肥料に適当
その他の効用 枚挙につきせず

然るにこのころ お米を廃して 肉食世界に改良しなさる
お話も聞いたが 肉食世界を 拒むぢやなけれど
獣類なにほど 繁殖なすとも 値段が高くちや
下等の人民 食ふことかなはず

牛馬を一頭 育ててみなさい
一町二町の 草では足るまい

ある人申すに 数年原野に放牧するには
一頭飼育に 六、七町の地面を要すと

ヤレヤレ皆様 よく聞きなされよ
六、七町余に 一頭ぐらゐを 飼うよなことでは
三千八百余万の人民 匂ひがぐには 足りるであらうが
食ふには足るまい 足らざるときには

肉類輸入し つまりは必ず お国の損耗
近年お米が 豊作続きで 安値であれども
安値であるとて 捨ててはいけない


十分はげんで 智力つくして
光沢味わひ 最もよろしき 上等種類を
多分に作り手 どしどし輸出し

外国一般 その良き味はひ 十分知らしめ
肉食世界を 米食世界に 変ずるやうにと
尽力するこそ 農家の職分

皆様はげんで 勉強しなされ
勉強なされば お金はどつさり
日本に充満 充満々々


~引用元『天皇家の食卓』秋場龍一著(角川ソフィア文庫)~p152,l7~p153,l13


天才が粉才する

2005年11月08日 | music

私のホームページとこのブログに、先の記事の鍵盤弾き、ミスターパーフェクト"本間太郎"氏のリンクを追加した(こちら)。

日常と非日常に対するコメントが、小難のうちに何の不合理も無く、見事に融合している。実にチャーミングだ(爆)。

イッツ、オーライ。是非、観ておいてもらいたいブログである。


続・才能ある人々

2005年11月07日 | music

その後、例のドラムの子のライヴも観てきた。某音楽大学の学園祭の一ブースでの、3曲程の本当に短い演奏だったが、彼の演奏には本当に圧倒された(プーさんの格好も面白かったなあ:笑)。また他に、彼は「映像と音楽」という企画にも出展しており、多才な面も垣間見ることが出来た。う~ん、満足。

何と云うか、才能のある人との交わりは本当に有意義だ。刺激が違う。私自身は、このような感性の人というのは、非常に安心して話せる。

因みに、この刺激が妬みに変わってしまう人もいるだろうが、そのような人は彼らと比べると、文字通り住む世界が違うのだろう。またこの差は、思うに自身に対するストイックさから生じるものであろう。

ときに、この学園祭では、ギターとペットのユニットでの演奏もあって、素直に、本当に凄いなと思った。ある意味、私の理想でもある。彼らのライヴも観に行きたいなあ。


才能ある人々

2005年11月01日 | music

さあ久々の書き込みだ。

さて先日、友人のピアニストが学園祭のコンサートに出るというので、早速聴きに行ってきた。コンディションがあまり宜しくないと思しきピアノを使ってはいたが(あのピアノは高音がビビッてた。音抜けも良くなかったなあ)、友人の演奏は去年よりもましてすばらしく、本人曰く「いや、ダメダメっすよ」というのは、やはり謙遜なのだろうなとも思う。
因みに、一時期、彼と演奏の仕事をしたこともあるのだが、本当に出来る奴で、また現在はバンドのサポート活動が功をそうして、現在学生にも関わらず稼ぎのある程のミュージシャンなのだ。

また他に、多大なる収穫もあった。それは彼から、若き才能を紹介されたことだ。
紹介してもらった彼というのは、現在某音大の学生なのだが、彼もまたイマジネーションが豊かなすばらしい奴である。ドラマーではあるが、本来ピアニストでもあり、作曲もする。更に独特なオーラも漂わせており、パーフェクトなミュージシャンである。

ピアニストの彼も、ドラマーの彼も、これからどんどん一緒に音楽して行きたい連中である。

ときに、ピアニストの彼に触発されてか、サポート活動を再開しようかと思っている。どこか良いバンド