~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

現代における古典的戯劇の提案

2009年05月19日 | sub-culture

ちょっと前に「ツンデレ」というのが流行ったが、つまりはまあ、特別興味をもった人物に対してワザとつらく当たるといった幼児的反応なんだろうと、当時から思っていた。
またそれを追ってか、次には「ヤンデレ」とか、色々な「デレ」が溢れ出した訳だが、思うに、どれも「性善」的な人間の反応ではない。
このような「未熟さ」が、現在の俗物的「」に相当するのだろうが、しかし、それは現実生活においてはただの気まぐれに起こりうるアクシデントに収まってもらいたいものだ。


ときに、人の感情というのを大別するに「」、「」、「」、「」と区別することが出来る。
これは一般的に良く知られた事柄であるが、しかし、その内容については皆、考えたことがあろうか?

私見として、

・・・喜びを面に顕にした状態
・・・怒りを面に顕にした状態
・・・哀しみを面に顕にした状態
・・・善なる面を顕にした人の状態

となるが、ちなみに、この4つのポイントというのは、全て感情を面(表情や態度)に顕す事にある。

色々と物議を醸し出しそうなのは「」に関わる事柄であろうが、これはよくいう「何だか楽しそうな状態」ではない(もしそうすると、「」と被るではないか!)。
またこれに「善なる」と記しているが、それはつまり「理想人の通常の状態」といった意味合いで用いている。
もっと噛み砕けば「普通の状態」なのであるが、それが一体何であるのかは「性善」的な状態であるとしかやはり言いようが無い。

そして、これらの相関を表してみる。
-----------------
     

     ↑
 ←  → 

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この相関を見る限り、「」はそれぞれ感情表現の出発点となる。
ともなれば、ある表現において、「」の状態は重要になる。
例えば、「」を伴う「」の場合

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       ↑
怒怒 ←  → 

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このような相関が生じることになる。
具体例を示せば、普段「」の状態から怒りが面に顕れている人は、それぞれ感情表現に「」が伴う訳である。
先の「ツンデレ」の場合、また別に「尊大」とか付する事が出来ようが、まあこれが云わば、普段我々が思い込んでいる「性格」というものを形成する。


さて、ここまで書いて何が一体申したいのかというと、結局のところ、「」の状態の重要性、殊更、それが「性善」的、若しくは「自然の状態」であるべきである事が一つ。
そして、各それぞれの感情表現を、この本来の「」の状態から的確に顕にする事の必要性である。
またこれには受け手の状態というものも含まれ、つまり、ポイントはこの3つである。


そしてこの3つを成長させるのに、適当なある戯劇を提案する。
それはこれまで我々がしてきた、所謂「人形遊び」なのだが、重要なのはこの「4つ組み」を意識する事である。
ちなみに、「人形劇」といっても、それは必ずしも人形でやる必要は無い。
それこそ、何の変哲も無い透明ガラスのコップや、またナイフ、スプーンでも良い。
しかし、意味合い的には、感情を込める器が適当かと思える。
というのも、人の形をある器に例えるならば、用いる道具も、やはり「中身を込められる」ものである方が良い(※)。


とまあ、これは儀礼的な見地から書いたものだが、しかし、余興として皆に見せる試みを通して、その演技者の向上を図る上ではもっとも適当ではないかと思う。
勿論、戯劇を観覧するものも、その目的を以てる人、若しくは感性の鋭い人など、気がつくこともあろうが、ともかく、試みとしては使い古されたある種の古典である。
しかし、この古典的作業こそ、今立ち返るべく事柄なのではと思うところがある。

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※「人形劇 三国志」を思い出した。何故ならば、人形は常に「」の状態であるからだ。またその人形が、卓越した創作主に由って、自然に近い、慈愛に満ちた「」の面を見せるならば、戯劇の本質も伝わってこよう。
Marionette Zhaoyun-01