~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

主水が通えば支流も拓く

2009年01月08日 | diary

年始、実家に帰り、墓参りをした。
墓参り途中、車中で父親と母親が先に伯母夫婦(父方)の家に寄るべきかどうか、そんな話をしていた。
それは距離的な問題で、「先に伯母夫婦に挨拶をしていった方が都合が良いのでは?」というものだったが、私は先に墓へ参り、次に実家(古い方)に寄り、そして伯母夫婦への挨拶は最後にすべきだと進めた。
というのも、私としてはまず本家は本家の役割を果たすべきと考えたからであった。

お寺についてからは、まず母親がお寺の直ぐ横の花屋でお供えようの花を購入するのに付き合った。
金を出すのは母親だったので、店の表に出てタバコを吸って辺りを見回していると、お寺の正面2軒、花屋の直ぐ隣1軒の家々に公明党のポスターが貼られていた。
私の実家は浄土宗の寺の檀家だが、彼ら対面の家の人々はこうやって陰の努力をしているのだろうなと、内心愉快になった。
ついでに、前に中野の天理教の講堂の前にあったゴミ屋敷を思い出した。
それは仕事関係の知り合いの手伝い、彼の家の隣にあった家だったが、呪詛というのはこうやってやるのだなと感心した(というか、「魔」はこうやって焙り出るというか)。


さておき、実家のお墓にゆくと、既に親父がお墓の掃除をしていた。
母親が献花しようとお墓を見やると、既にそれは新しいものであった。
多分、同居の伯母が新しいものに変えておいたのだろう。
花代は無駄になったが、まあともかく、親子3人そろって祖父・祖母に新年のご挨拶と今年一年の無病息災を祈った。

その後、本家の方もお参りしようと私は父親に言った。
都合よく、本家の墓も距離隔てなくして同じ寺にある。
まあそうでなくとも、内心としては最初から本家の墓に参るつもりでいたのだが、早速、本家のお墓に行ってみる。
本家の献花が枯れている事に気がついたので、新しいものと交換する。
結局、花代は無駄にならなかったと親子三人で語らい、本家の墓に挨拶をしてその場を去る。

次に実家に立ち寄り、仏壇に線香を立てる。
線香の火が消えるまでゆったりと時を過ごしていると、先ほどの伯母と従兄弟夫婦が生後11ヶ月の甥を連れてやって来た。
私は父親に先の話題に触れ、「主水が通えば支流も拓く」といった内容の事を語る。


次の日、先の伯母夫婦と従兄弟夫婦、そして生後11ヶ月の甥が私の両親の新居に挨拶に来た。
母親がささやかな手料理でまかなう。従兄弟夫婦に非常に好評だったようだ。
普段、私は母親の料理の腕を評価しないので、従兄弟夫婦から良い評価を受けて母親は特に機嫌が良かった。
その間、甥をあやす「ジングルベル♪ジングルベル♪」と発する玩具の人形の音が五月蝿かった。

宴もたけなわ、私の父親と従兄弟が教員免許の更新制度云々について語り合うのを聞く。
大学の助教授をやっている従兄弟は、これから教員を教えなければならない状況があるかもしれない事に、どう対応すべきか、良いヒントを与えられたようだ。
ちなみに現職教諭の父親としては、更新制度が、急速に発展する学問的に対する、一般教員への補填に役に立つものであればと希望している。
「でなければザルだ」と私も同意する。

ひょんな事から話題が「田母神論文」(引用形式PDF)に向けられる。
従兄弟によれば、学会で「あの論文は無視」なのだそうだ。
従兄弟自身も「田母神論文」を読んでいないらしく、また将軍の商法(露出が増える云々で)だと疑って批判的だった。
内心、『軍人とはそのようなもので無い。金の話に摩り替えて将軍を貶める事は自らの器の小ささを露すのでは?』と思い、「あれは将軍の、軍人として、当然の立場から語ったものでは?」と、”将軍の私心”としてどうして理解できないか(※1)と尋ねてみる。
しかし、それは通じる事もなく、義理の伯父も加わって、「前線に立たない、一番安全な場所にいる者が、前線の兵士の気持ちなど分かるものか」と上乗せする。
それにも内心、『この人は戦術の何たるか、それ以前に、軍人という生き方の何たるかを知っていて語っているのだろうか?』(※2)と疑問に思った。


まあ何はともあれ、「行不由径」(こうふゆけい)とはよく云ったもので、このような年始の事柄から、これを私の今年の目標としようと思う。
また、そうする事が分家としての、または侍、そして日本人として、当然の意識であり、態度であると思える。
私個人としては、客観的良心を磨く事に精進する事に懸命な1年としよう。


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※1:池田信夫 blogの『日本は侵略国家であったのか』、『朝日新聞は田母神論文を批判できるのか』が面白い。
ともに田母神論文の引用文献に考察を加え、その論理構成のアラを批判しているが、本旨としては、かような事柄の背景にある、余り冷静でない、若しくは酔狂な現代日本の態度を露にしているように思える。
ちなみに、私がかかる論文を「将軍の私心」として捉えたのは、このような背景を読み取っての事だが、今回記事における従兄弟や義理の伯父の態度というのは、歴然としてある、一種の勘違いなのだと思っている。

※2:大工になる奴は何故大工になるのか?そして何故大工を続けられるのか?
態々危険な仕事を引き受ける事に対する何たるか、それは金が欲しいからか?
身分は階級ではない。寧ろ生き方ではなかろうか?
将軍をやって良心が壊れるのも、また自動車工をやって良心が壊れるのも、生き方としては同じである。
またパットン将軍が部下を思うのと、田母神将軍が部下を思うのと、どれほどに違いがあるのだろうか?
こういった素朴な疑問を抱けないというのは、ハッキリ言って良心が壊れているのだろう。


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