”現代社会にあってはこの自由が危機に瀕している事を、ベルジャーエフは指摘する…彼が恐れたのは、財産の社会化ではなく、精神の社会化…現代でも我々に素朴な宗教的帰依を促す「進歩の観念」は、あらゆる人間、あらゆる時代を、設定された一つの目標のための、一つの手段、一つの道具に変えてしまう。”
『実存主義』松浪信三郎著(岩波新書)p90.l12~p91.l3
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○今、TVで教育についての番組が放映されているが、内容に多少の偏りを感じつつも、どちらかといえば好意的に見ている。
ときに、私が今の日本の教育について思うことは次のようなものである。
○それは確か、私が小学生の頃、算数の時間であった。教えられている内容は割り算で、そのときの事は鮮明に憶えている。
例えば、8÷4という数式がある。答えは簡単、2だ。やり方はすぐに分かった。
だが私はここで、
「じゃあこれを一個のバースデー・ケーキに例えたらどうなるだろうか?」
と思ったのである。
ケーキが複数ある時、例えば8個あるのなら、それを四人で分けるのなら2個ずつだろう。しかしながら、ケーキが一つしかない場合はどうなるか?答えは8等分して切れ端を二個ずつ分配すれば良い。
○しかし、これをどう表現してよいのか分からない。そこで、普段はおとなしかった私なのだが(事実この頃の記憶は殆ど無い)、意を決してそれを教師にぶつけてみる事にした。
今思うに、私がこのような疑問を抱いたのは至極自然な事だったと思う。何故なら、少なくとも算数という分野は具体物を捉えて説明する事が多いからだ。
「じゃあ、何も無い0(ゼロ)の場合はどうなるのですか?」
私は混乱していた。そしてそこから、今教えられている割り算の式について、それ自体が間違っているのではないかと言い放った。
そして教師は困ったように答えた。
「それはちょっと先の話で、君にはまだ早い。でも君の疑問も分かるよ。」
私は「???」と思ったが、あまりこれ以上突っ込むと先生が可哀想だし、また黒板の前で恥ずかしかったので、ここで社会性を発揮し、分かったフリをして席に戻る事にした。
これがきっかけかどうか分からないが、私は算数や数学が大変嫌いになった(今でも多分、勉強すると胃が痛くなると思う)。
○因みに、ここで問題なのは、算数=数学というものが、その当時の私にとっては具体物を指し示すものであった事である。具体物、それすなわち、
「ここにリンゴが一個あります。ここにもリンゴがあります。全部で何個ありますか?」
である。思うに、これは見事な刷り込みではないか?
○大学時代、この経験をふと思い出す事があって、「2×0」はどうして「0」になるのか考えてみた事があった。次のように、答えは簡単に出た。
「2×0というのはそれ自体では完全な式ではなく、”=0”がないと完全な式にならない。つまり2かける0は、結果として0になるのではなく、”2×0=0”と捉えなければならない。」
苦節10数年、ようやく答えが出た訳である。でもその頃には、何もかも遅かった事は間違いない。これを書いている今でも愕然とする。
○ここで問題なのは、義務教育システムが、このような変わり種の子供を想定していない事にもある。事実、私は常にその事に関して不満を感じてきたし、その結果、私は学校というものは友達をつくる場所だと信じて疑わない。そう、勉強は拷問なのだ。
あと余談ではあるが、私の悲劇は両親が教員である事にもいえるだろう。家に帰って全く勉強しなかったのは、そのためかもしれない。またやむにやまれず勉強しなければならない時があったが(夏休みのドリル類など。私はあれを一日で全種類やった事がある。勿論、母親に脅されてだが・・・)、それで漢字や算数を覚えたというのは、今思うと驚異である(!!)。
話を戻すと、ともかく、私の体験談からいって、今までの日本の教育は様式教育といって良いほど酷いものである。またこれに従わないものは、他の子、将来、時には虐待をちらつかせて脅しをかける。更に、それに重責を担ったその世代の親は、まさに確信犯である。結果は、団塊の世代の子を見ればよく分かるだろう。
○最後に、皮肉を込めて、また私の体験談を書いておこうと思う。あれは小学校5、6年の頃であったろうか、新任の女の先生がクラスをまとめきれず泣き出したことがあった。私はそれに同情を感じたが、彼女の次の言葉、
「私は○○先生を尊敬している。だからそのように出来ないのが悔しい。」
が私を苛立たせた。私はこう言った。
「先生は先生。先生は先生らしくやんなきゃだめでしょう。」
今思うと、テンパっている先生に対して、非常に酷な言葉である。だがこれが、私の体験した学校の概要にも思える。そしてこれが今までの学校教育の型であり、お陰で、だんだんと私は良い子になっていった。
『実存主義』松浪信三郎著(岩波新書)p90.l12~p91.l3
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○今、TVで教育についての番組が放映されているが、内容に多少の偏りを感じつつも、どちらかといえば好意的に見ている。
ときに、私が今の日本の教育について思うことは次のようなものである。
○それは確か、私が小学生の頃、算数の時間であった。教えられている内容は割り算で、そのときの事は鮮明に憶えている。
例えば、8÷4という数式がある。答えは簡単、2だ。やり方はすぐに分かった。
だが私はここで、
「じゃあこれを一個のバースデー・ケーキに例えたらどうなるだろうか?」
と思ったのである。
ケーキが複数ある時、例えば8個あるのなら、それを四人で分けるのなら2個ずつだろう。しかしながら、ケーキが一つしかない場合はどうなるか?答えは8等分して切れ端を二個ずつ分配すれば良い。
○しかし、これをどう表現してよいのか分からない。そこで、普段はおとなしかった私なのだが(事実この頃の記憶は殆ど無い)、意を決してそれを教師にぶつけてみる事にした。
今思うに、私がこのような疑問を抱いたのは至極自然な事だったと思う。何故なら、少なくとも算数という分野は具体物を捉えて説明する事が多いからだ。
「じゃあ、何も無い0(ゼロ)の場合はどうなるのですか?」
私は混乱していた。そしてそこから、今教えられている割り算の式について、それ自体が間違っているのではないかと言い放った。
そして教師は困ったように答えた。
「それはちょっと先の話で、君にはまだ早い。でも君の疑問も分かるよ。」
私は「???」と思ったが、あまりこれ以上突っ込むと先生が可哀想だし、また黒板の前で恥ずかしかったので、ここで社会性を発揮し、分かったフリをして席に戻る事にした。
これがきっかけかどうか分からないが、私は算数や数学が大変嫌いになった(今でも多分、勉強すると胃が痛くなると思う)。
○因みに、ここで問題なのは、算数=数学というものが、その当時の私にとっては具体物を指し示すものであった事である。具体物、それすなわち、
「ここにリンゴが一個あります。ここにもリンゴがあります。全部で何個ありますか?」
である。思うに、これは見事な刷り込みではないか?
○大学時代、この経験をふと思い出す事があって、「2×0」はどうして「0」になるのか考えてみた事があった。次のように、答えは簡単に出た。
「2×0というのはそれ自体では完全な式ではなく、”=0”がないと完全な式にならない。つまり2かける0は、結果として0になるのではなく、”2×0=0”と捉えなければならない。」
苦節10数年、ようやく答えが出た訳である。でもその頃には、何もかも遅かった事は間違いない。これを書いている今でも愕然とする。
○ここで問題なのは、義務教育システムが、このような変わり種の子供を想定していない事にもある。事実、私は常にその事に関して不満を感じてきたし、その結果、私は学校というものは友達をつくる場所だと信じて疑わない。そう、勉強は拷問なのだ。
あと余談ではあるが、私の悲劇は両親が教員である事にもいえるだろう。家に帰って全く勉強しなかったのは、そのためかもしれない。またやむにやまれず勉強しなければならない時があったが(夏休みのドリル類など。私はあれを一日で全種類やった事がある。勿論、母親に脅されてだが・・・)、それで漢字や算数を覚えたというのは、今思うと驚異である(!!)。
話を戻すと、ともかく、私の体験談からいって、今までの日本の教育は様式教育といって良いほど酷いものである。またこれに従わないものは、他の子、将来、時には虐待をちらつかせて脅しをかける。更に、それに重責を担ったその世代の親は、まさに確信犯である。結果は、団塊の世代の子を見ればよく分かるだろう。
○最後に、皮肉を込めて、また私の体験談を書いておこうと思う。あれは小学校5、6年の頃であったろうか、新任の女の先生がクラスをまとめきれず泣き出したことがあった。私はそれに同情を感じたが、彼女の次の言葉、
「私は○○先生を尊敬している。だからそのように出来ないのが悔しい。」
が私を苛立たせた。私はこう言った。
「先生は先生。先生は先生らしくやんなきゃだめでしょう。」
今思うと、テンパっている先生に対して、非常に酷な言葉である。だがこれが、私の体験した学校の概要にも思える。そしてこれが今までの学校教育の型であり、お陰で、だんだんと私は良い子になっていった。